2007年7月25日〜8月25日 

野口 信彦




はじめに

 

カナダのトロントに来て、早くも一週間が過ぎた。

  いつもの北京や上海への空の旅であれば3〜4時間で着くのだが、今回は約12時間かかった。機内ではワイフと2人でワインやビールを飲んで眠ったり、映画を見たり、I pod でジャズを聴いたりして時間を稼いだ。よく眠ったおかげで、みなが一様に口にする「時差ぼけ」にもならず、元気にトロント・ピアソン空港に到着。

 

 オンタリオ湖畔

 

 翌朝、真っ青な空の下を散歩。湖の向こう側はアメリカ合衆国である。ここトロントからナイアガラの滝まではおよそ1時間半、さらに2時間も走ればニューヨークだとのことである。「アメリカで食い詰めてカナダに逃げてくる人は多いが、カナダからアメリカに逃げていく人はいない」といわれているアメリカがすぐ近くにある。

 オンタリオ湖で遊ぶ人たちも多いが、ここで驚いたことがあった。兵馬俑の兵士たちが並んでいるのである。おそらく中国資本が遊園地を作ったのであろう、少なからぬ施設があって、子どもたちのワーワーキャーキャーという声が聞こえる。

公園には騎馬警官が巡回している。

 日本滞在のこの遊園地に遊びに来たことがあるという。ここでジェットコースターに乗ったが、富士急ハイランドなどとは比較にならないほどのゆるいものだったので失望したが、友人の同級生たちは「世の中にこんなにすごいものがあったのか」といわんばかりに喜んでいたという。「あいつらは程度が低い。日本のはもっとすげえんだぜ」と若者特有の言い方で盛んにけなしていた。

 だが車好きの私のこと、どこまでも無料の広い高速道路を流れる車から目を離せない。特徴は超特大の大型トラックとキャンピングカーが多いこと、それに加えて眼にする車の約3分の1は日本の車だったことである。大型の乗用車を見ると、年金生活で燃費を気にしながら車に乗る私には、シボレー、ダッジやポンティアックなどの車の燃費が気になってしようがない。しかし、サマージャンボ宝くじが当たったら、まず、気に入った車を買いたいというのが私の夢である。本当に夢で終わりそうだが・・・・

夏のヴァカンスだからであろうが、キャンピングカーのドライバーはほとんどが年金生活者のような中高年・高齢者夫婦であった。この国は日本とまったく相反していて、“ゆったりと、休暇を楽しむことが人生の最大の楽しみであり、目標”だというから、なるほどと理解できる。

そういうわたしも研究のためとはいえ、1ヶ月のカナダ生活だから例外にはなっていないようである。ただし、無銭飲食のホームステイで、である。

オンタリオ湖のまわりには、ジョギングする人もいるが、ローラーボードやマウンテンバイクが圧倒的に多い。おそらくシングルマザーであろう女性は、自転車の後ろに、幼児を乗せて走ることができるようなバギーカーを連結させて走っている。みなショートパンツに女性は例外なくタンクトップである。壮観である。

女性にも刺青をしている人が多い。タットゥーなんて気取ってはいけない。わたしの父親は明治生まれで600人を抱えた建築職人の親分だったので昇り竜の総入れ墨だったからでもあるが、いまの人は入れ墨をしてはいけない。する必要もない。素敵なからだをみな持っているのだから。それを輝かせればいいのにと思う。日本とカナダの入れ墨事情や感情を度外視しての話しであるが。

湖畔のベンチにはビニールの袋に家財道具を詰め込んだホームレスが、ネクタイを締め、パソコンを打っている。

 

メタボリック症候群考

 

またさらに優越感というか安心感を抱いたことがある。わたしの友人に「亜子」さんという仲間がいる。ここカナダは特に女性に肥満体が多い。上半身と下半身も太っているが、亜子の「亜」の字のように、ウエスト部分が、突然、横に突き出したという風体の人が多いのである。マックを食べて甘いジュースばかり飲んでいるからだろう。太っている人が実に多い。お断りしておくが、同じシルクロードのクラブの仲間の亜子さんは、すらりとしたスタイルの良い素敵なママさん女性である。彼女から抗議が来てしまいそうだからお断りしておく。

 

わたしは、ここカナダに来るまでほとんどカナダのことを知らなかった。『地球の歩き方』やインターネット程度のものは読んだが、あまり勉強する努力をしないでよかったと思っている。実際にカナダの地に身をおかなければ、何度本を読んでも理解できないものがあるのである。

まず、カナダはアメリカとも戦争をしたことのあるイギリスの国だということ。まるでアメリカのコピーのような国かと思っていたら、あにはからんや、であった。失礼しました、というところである。

さらにわたしの関心を引いたのは、この国の宗主国はイギリスで国主はエリザベス女王だということは知っていたが、もうひとつの特徴は、イギリス以外にフランスの影響が極めて強い国だということであった。

ケベック独立運動のことは多少知ってはいたが、カナダが(東部に限ってのことだが)これほどとは思わなかった。トロントでは、看板やパンフレットでも英語の下には必ずフランス語が書いてある。モントリオールに行けばその度合いはさらに強くなって逆転した。ケベック市は85%フランス語である。わずかに英語が添えられている程度である。かつて、フランスのドゴール大統領がケベック市を訪れた際、「自由ケベック万歳!」と叫んで物議をかもしたというエピソードもあるくらいだから。

 

見参!カナダ!

 

トロントに着いて所要(ブナの森の自然観察関係の活動)のために1週間で帰国するワイフのために、アルズグリさんが2泊3日の旅行を計画してくれた。今まであまり知らなかったが、紅葉の時期には世界各国から観光客が訪れるというメープル街道の旅だそうだ。メープルシロップという言葉がここから来たこともはじめて知った。

コースはカナダの首都オタワ、1976年に開催された冬季オリンピックの開催都市モントリオール、フランス語圏のケベックそしてキングストンであった。

足は大型観光バスであるが、同行の士はみなマンダリンであった。マンダリンというのは広東語を話す人たちのことである。広東や台湾からの移住者やそのハーフたちであった。女性のガイドは恐ろしく早い英語とその5倍くらいのボリュームで離すマンダリンで頭が痛くなるほどであった。しかし、まるっきり理解できなかった英語も、3日目には多少の単語くらいは理解できるようにはなったが、とにかくマンダリンの伝播力はものすごいものがある。

彼らは自分たちを決して中国人だといわない。中国人というだけで嫌われるからだそうである。しかも彼らは自分たちを漢民族だとも認めないという。それはそうだろう、昔から中華思想は、中原の純粋の漢民族をこの世でもっとも優れた民族としてその中心思想である中華思想を流布しようと努力してきたのだから、彼らから言わせれば、広東や台湾あるいは福建の人たちは「蛮族」そのものだったのだ。

さてさて、話を旅にもどそう。

 

首都オタワ

 

わたしたちは、マンダリンの洪水の中を日本語でがんばってくぐり抜けてきたが、その言葉を馬耳東風と聞き流せば、旅はとても快適なものだった。

トロントはカナダ第一の都市だがオタワは政治の中心・首都である。だが、移民の国カナダはまだまだ歴史の浅い、若い国である。

オタワ川がフランス語圏と英語圏を二分している。フランス語圏はすでにケベック州になり、河を見下ろす丘には国会議事堂や国の機関が集中している。

オタワという名前は、「交易」を意味する。先住民と17世紀初頭からのヨーロッパの毛皮商人がここを拠点としていた。定住が始まるのはアメリカ人の材木商人が製材所を開業した1800年頃からだという。1857年にイギリス女王ヴィクトリアの裁定によって、この地が首都に選ばれたのは、ここがアメリカの軍事的な脅威から比較的距離があったからだという。さらに、この地がイギリス系とフランス系の人々の両勢力から中立的な位置にあったからだとも言われている。

内部で硬貨を製造している国会議事堂のほかに、「文明博物館」という聞きなれない博物館に入った。そこは北米カナダ先住民の歴史や風俗・生活様式などを扱ったところであった。

 

近年、わたしはシルクロード研究の過程で、(端的にいえば)シルクロードという用語は日本人がこよなく好む言葉だが、現在では逆にかなりの誤解を生む用語にもなっていると思っている。

それは、日本人には“シルクロードは長安からローマまで”という感覚がしみついていることである。だが、私は、およそ地球上に人類文明が存在していて、そこに文明の交流や人の往来があれば、それはいわゆるシルクロードといわれる文明の交流路であったという考えに到達している。だから、欧米がアフリカを侵略して、横暴にもそこに住んでいる人々を勝手に銃で脅して奴隷貿易というおぞましい限りの売買をしたが、それも悪しき交流の一端ではあったと思う。南米大陸に存在していた豊かな文明をことごとく破壊し去り、植民地として教育を与えないで劣等民族とあざけったスペイン、ポルトガルも同様に残虐な殺戮と侵略をほしいままにしたのである。

さらにいえば、アメリカ西部劇で凶悪なインディアンをジョン・ウエインの警備隊やカウボーイがやっつけるという図式も、先住民族を侵略者が描くワンパターンの構図である。他の映画でも、欧米人がアジアに行ってアジア人を間抜けな召使にしか使わないことや、アジア太平洋戦争でアメリカが戦う日本兵は、いずれも度の厚いめがねを掛けてチョビ髭を生やした腰抜けだったり、だらしない帯の締め方で芸者だか売春婦だかわからないような描き方しかしない意識と共通しているのである。

想いがあまったようだが、わたしがカナダを訪れるのであれば、この先住民のカナディアンや以前(AD1000年頃)からカナダと往来していたヴァイキングなどについても学びたかったのである。だがアルズグリさんも含めてわたしたちの英語力ではまだ無理なことがわかったのである。

 

キングストン

 

ここは水の都。人口10万の小都市である。イギリス領時代は海軍の要衝だったという。ライムストーン(石灰石)を用いた歴史的な建造物が多い。写真撮影家(写真家とはいわない)であるわたしにはファインダーから目が離せない場所である。セント・ローレンス河には豪華なヨットやモーターボートが水煙を上げている。

 

モントリオールからケベック市へ

 

モントリオールの歴史は浅いがノートルダム寺院やかつての首都だったこの街には、旧国会議事堂やオリンピック競技場跡があった。そこは現在では、190メートルの急勾配のエレベーターと展望台があり、植物園があり、小動物園がある。跡地利用の参考にはなった。だが、栄光のオリンピックの跡形も見えなかった。古い街並みの残る旧市街と近代的なダウンタウンが融合したカナダ第2の320万の人口がある街である。

カナダの10の州のなかで最大の面積を持つケベック州は、フランス語を州の公用語としている。看板や標識もすべてフランス語である。人口の6割を占めるケベック州は、フランス文化を多分に感じ取ることができる地域である。

ケベック市は先述したが、ここは街全体が世界文化遺産に登録されている。旧フランス植民地として発展し、現在でも街並みや人々はフランスそのものの生活様式で過ごしている。城壁や石造りの家々の壁に描かれた絵画や、置かれている彫刻類、カフェの軒先でヴァイオリンやハープを奏でる芸術家たち、そう、ここは芸術の街であり、芸術家たちの街、ヨーロッパの街でもあるのだ。

こうして直線距離800キロメートルのバスの旅は、マンダリンの洪水の下、めでたく終わった。

 

トロントそぞろ歩き

 

トロントに戻った翌日は、休養を兼ねて再びオンタリオ湖畔の散歩になった。しかし散歩が嵩じて、街の中心部の世界最高のCNタワーやゴジラ松井が大リーグデヴューを果たした、世界初の開閉式スカイドームにまで足を伸ばした。CNタワーは世界一高いといわれることととともに、入場料も比較的高いのである。ここロジャーズ・センター(旧スカイドーム)を本拠地とするのは、メジャーリーグのトロント・ブルージェイズやアイスホッケーのトロント・メープルリーフスがある。球場に入るとちょうど芝生の張替え作業だった。あとから在留50年の日本人から、そういうときでも10ドルをとると言われたが、別に誰からもなんとも言われなかったので無料で見学できた。近いうちに松井が出場する試合を見に行くことになっている。そのときはおそらく有料だろう。

 

カナダ最大の街トロントは、18世紀の前半までフランス領であり、先住民が多く住み着いていたという。1759年の英仏間の7年戦争によってイギリス領に代わった。

さらに1812年の英米戦争では一時、アメリカの占領を受けたこともあった。そして第二次世界大戦以降は、アジア、ラテンアメリカ、アフリカなどヨーロッパ以外の国々からの移民が増加し、世界屈指の移民都市へと変貌していったのである(『地球の歩き方』を参照した)。

こうしてかつてのカナダでも、先住民になんらの断りもなく、英仏米などが勝手に領土の切り取り合戦をしていたのである。これが帝国主義的な植民地主義というものであろう。

 

街の名前はネイティブ・カナディアンのヒューロン族の言葉「トランティン(人の集まるところ)」に由来する。対岸はアメリカのニューヨーク州である。

現在、トロントに暮らす移民の数は人口の約半数を占め、コミュニティ同士が互いに尊重しながら暮らしているという。トロントには80以上ものエスニックタウンがあり、街の道路を横断すれば各国の習慣や文化を感じ取れる。主なものだけでも、チャイナ・タウン、コリアン・タウン、リトル・イタリー、グリーク・タウンそれにジャパン・タウンなどである。

ジャパン・タウンで買い物をした。焼酎は37ドル約4600円、日本酒も変形の一升ビンだったが同様の金額であった。高価である。しかし、背に腹はかえられない。刺身もなにもあらゆるものがある。しかし、味も同じかといえば、それはわからない。

街の歩き方は、ほぼ直線の地下鉄があり、市バスもある。市バスに乗ってあらかじめ買っておく回数券を渡せば、地下鉄にも乗り継ぐことができる。至極便利である。さらにわたしたちには都電といえるストリートカーがある。これらをうまく乗りこなせば、比較的高価なタクシーに乗らなくとも安上がりに街を歩ける。

 

ナイアガラの滝

 

ワイフの帰国する前日、カナダ滞在50年の中西さんというご婦人に滝を案内していただいた。

世界最大の滝であるナイアガラはネイティブ・カナディアンが呼んでいた「ニアガル(雷とどろく水)」が起源である。こちらの発音も決してナイアガラといわない。その呼び方は日本だけに通じる言い方であろう。ニアガルである。年間を通じて世界中から1500万人が訪れる。高さ54メートル、幅670メートルの滝は、その水勢によって氷河期から13キロメートルも上流に移動したといわれている。

隣のアメリカ滝はブライダルベールと呼ばれているそうだが、カナダ滝とくらべて見るからに小さいので、カナダ人は「アメリカ・サイズ」という。多少のあざけりが入っているようである。

中西さんはわたしたちを、何時間でも10ドルというパーキングに案内してから「わたしは1年に何回も来ているからカジノで遊んでいますから、自由に遊んで来てください」といって、バクチにはしってしまった。わたしたちは、まずはともあれ、小さな船に乗ってカナダ滝の滝つぼ近くまでいくことにした。船は縦に横に大揺れに揺れて、ビニールのカッパを着ていても、胸元から水が滝のように(?)はいってくる。日本から持参したスーパーのビニールをカメラにかぶせて撮影したが、文字通りの瀑布である。滝のカーテンが写っているだけであった。しかし、思いもよらぬカナダの旅が実現して、思いもよらぬナイアガラの滝を身体と心に浴びることができた。これは、今年5月に、思いもよらぬギザのピラミッドの真下に立ったときの感慨と共通したものであった。

 

帰路、わたし達を案内してくださった中西さんは、ことのほか上機嫌のようで市内の「日系文化会館」や「ジャパンタウン」に案内してくださった。

日系文化会館では、日本滞在14年の経験を持ち日本人の奥さんのいるジェームス・ヘロン館長にも面会することができた。

翌日、ワイフを日本への帰国便で見送ったあと帰宅すると、かの中西さんから電話がかかってきて、ひとり住まいの彼女の家にホームステイしている日本人の若者たちに、是非、野口さんからお話をしてあげてほしいとの電話があった。夜遊びの好きなわたしは、「ハイ!」とばかりに即答した。

なにやらわからぬ外国経験を持った彼らとの話では、相当、刺激になったようで、12時頃に帰宅してからも中西さんから電話が入り、次はもっと多くの若者たちに話をしてやってほしいとの要請があった。

どこでも、どんなことからもチャンスをつかみ、作り上げていくことが大切だと改めて痛感した次第である。



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