| 5.「聖戦(ジハード)」イスラームの目覚め |
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1944年夏、第2次東トルキスタン民族独立運動がイリ区において発生し、11月、イリ地方に「東トルキスタン共和国」が樹立された。これはイリ地方のウイグル族とカザフ族が、国民党の圧政に抗して前後して起こした革命だった。 イスラーム住民はこの革命を「11月革命」と呼ぶが、現在の中国においては「三区革命」と呼んでいる。それは革命の意味が違うからである。毛沢東は1949年6月にエホメッド・ジャン・カスミにあてた手紙のなかで、「あなたたちの長年にわたった奮闘は、全中国人民民主主義革命の一部である」と述べ、それを「民主革命」と定義した。しかし、エホメッド・ジャン・カスミ自身は1946年に、「我々は民族革命を行なった」と、第2次東トルキスタン民族独立運動の性格を「民族革命」と定義していた。 1944年8月、イリ区・ニリカ県のウラスタイ山のなかに、トルコ系イスラム住民による反政府武装ゲリラ・グループができた。17日にグループはウラスタイ山中に入ってきた警察隊を襲撃して10人の警察官を射殺し、9月にも鎮圧しにきた300人の軍と警察を撃退した。そして10月にはニリカ町を落城させた。ニリカ町の反政府ゲリラも彼らに合流した。この反政府ゲリラは最初からソ連の支援を受けていた。なぜ、ソ連が彼らの武装蜂起を支持したのか。それは、前年の43年はソ連がスターリングラードの勝利ののち、再び目を東方に向ける余裕ができ、新疆での影響力を取り戻すために、東トルキスタン民族独立勢力にたいする支援を本格的にはじめたと考えられるからである。蜂起したイスラーム系住民たちのソ連との関係の違いはさまざまであったが、中国の支配を排除するためという共通の目標のもとに結束し、ほとんどの人がソ連の支援を求めていたことは客観的な事実だった。これが33年の「東トルキスタン・イスラム共和国」との基本的な性格の違いであろう。 その理由は、地理的にソ連がもっとも近く交通が便利なことであった。とくにソ連と親しみを持ち留学の経験をもつウイグル民族の知識人たちは、中ソ国境の都市クルジャに集まっていた。次に、時期的に見れば、盛世才がソ連と反目していた時期であり、諸民族の盛世才にたいする反感は、親ソの感情に簡単に結びついた。また、なによりも、カザフ族、キルギス族、ウズベク族やタタール人はソ連領中央アジア加盟共和国と同じ民族であり、ウイグル人も彼らと血縁関係にあるということであった。 1944年10月から11月は、この独立運動は最高潮期を迎えた。ニリカ城の陥落のあと、11月7日、「クルジャ蜂起」が勃発し、12日に東トルキスタン共和国政府が成立した。この組織母体はクルジャの民族解放組織とニリカの反政府グループであった。そしてこの蜂起の指導者は、ソ連人のアブドキリム・アバソフであった。 この革命で特筆する事実は、蜂起軍の中心がソ連人だったことである。蜂起軍の総指揮官はソ連人のアレクサンドルであった。結論としていえることは、ソ連軍隊は直接、中国領内に出動して、戦車・大砲・飛行機などを動員して中国政府軍に壊滅的な打撃を与えたことである。しかし、重要なことはこの革命闘争が、より多くのイスラーム教徒を動員するために、イスラームの教義の権威を利用して、イスラーム聖戦というかたちで行なわれたことである。東トルキスタン共和国政府樹立の戦いは、まさにソ連によって支持されたトルコ系イスラーム住民の中国の支配からの民族独立をめざす「聖戦」であった。 やがて東トルキスタン勢力は、3つの戦線で新疆各地へと全面的に展開していった。 45年7月から、北部戦線においてはタルバハタイ区に突入し、続いてトリ県、ドルビリジン県、タルバハタイ区のチョチェクなどを次々と解放し、アルタイ区、ジンホを陥落させ、マナス河の西岸まで到達した。マナス河はウルムチまで134キロの距離であり、ウルムチをほとんど掌中にできる2日間の距離である。ウルムチの陥落は時間の問題となった。共和国軍がこのような成果をあげることができたのは、いうまでもなく、ソ連が指導力を発揮しなければ各地の民族主義勢力の統合もなく、ソ連の支援がなければ東トルキスタン共和国の勢力拡大も不可能であった。 |
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