青海・チベットの旅

  2007年6月6日〜15日
                             野口 信彦


世界で最も広く 高所にある高原 それがチベットである
アジアの最奥部にあって チベット文化の華開いた
その地は 10数世紀のあいだ独自の仏教文化を育んできた
だが、近年、すさまじい開発の進展によって古来稀なる自然が破壊されてきた
そして 人々の生活も風景も暮らしぶりも 歴史上未曾有の激変ぶりを見せているしかし、それでも、巡礼とともに生きる人々の出会いは、 遥かな昔に心を通わせてくれる。

           (渡辺 一枝の文より掲載。若干修正あり)

2007年6月6日

今回の「青蔵チベット鉄道の旅」の企画は今年の正月、私の所属する狛江山遊会での恒例の新年持ちつき大会での宴会の席でのこと。ある年配の会員から「野口さん、是非、チベット鉄道に乗るツアーの企画を考えてください」との要請があったからである。かねてからこの鉄道に関心のあった私はすぐさま企画を同じ日本シルクロード文化センターの会員で私の家の近くに住んでおり、青山で旅行会社を経営している戸井川女史に持ち込んだ。そして出来上がったのが今回の旅の内容である。しかし、大手の旅行会社が鉄道のチケットを買い占めていて、私が考えた西寧から乗車するチケットは手に入らなかったのである。青海省とチベット自治区との省境近くにあるゴルムドからの乗車となった。ここからは早朝に乗れば昼間のみの青蔵鉄道の乗車となり、午後9時すぎにはラサに着くということになった。しかし、結果的にこの間のドライブ旅行は思った以上の良き体験となった。車の運転の好きな私には、かえってこちらの内容のほうがよかったといえるかもしれない。

成田で8人、関西空港で7人が乗って北京で合流。次のフライトの関係でこの日は北京泊となった。それにしてもサービスの悪いホテルであった。

今回の旅は今評判の青海チベット鉄道を体験するということが主要なテーマだったこともあって、14人の参加という好評ぶりである。14人のうちわたしとの関係ではすでに旧知の間柄になっている人が6人もいた。しかも「日中友好新聞」で参加者を募ったこともあって、参加の方とは初対面からすでに打ち解けた気持ちで互いに接することができた。

今回の旅は、高度障害をできるだけ軽くして、全員が元気に帰国できることと仲良く楽しい旅にすることが私の主要な眼目であったから、幸先のいい感触を得たのである。

 7日

私は率直に言って、これまで青海省という地域にたいして新疆やチベットほどの関心を示すことはなかった。しかし、シルクロード研究の進む中で私の認識も進んで、いわゆる天山南路の各地が戦乱などで通行に危険を伴う場合には、“もうひとつのシルクロード”いわゆるシルクロードのバイパスとして、河西回廊から南に下って青蔵高原を西に進み西域の楼蘭やチャルクリクあたりに入って西域南道をホータン、カシュガル経由で進むルートがあったのである。その青海省の省都西寧の人口は約103万人である。

4世紀から、遊牧騎馬民族鮮卑の吐谷渾が青海地方を支配し、青海湖畔を使ったシルクロード中継交易で繁栄した。その後、7世紀はじめにチベットの諸民族を統一した吐蕃が、663年に吐谷渾を滅ぼし、9世紀中ごろまでチベット高原のほぼ全域を支配した。吐蕃時代にインドから導入された仏教文化は首都ツェタンから遷都した200km離れたラサを中心に栄え続け、17世紀から20世紀半ばまでチベット仏教の指導者ダライラマ宮殿だったポタラ宮は、1994年に世界文化遺産に登録された。2000年に仏教寺院ジョカン、01年には夏の離宮ノルブリンカが、追加登録された(この項、朝日新聞社発行の『シルクロード紀行No.39』より引用)。

北京から西寧へ2時間半の空の旅。西寧は標高2275mである。空港で荷物待ちのあいだに出口方面に向かってわたしたちを出迎えてくれるガイドを探しに行った。チベット人の女性ガイドは、あとで、通称「Nちゃん」と呼ぶことになったチベット人の女性ガイドは、驚くことに昨年06年6月まで和光大学に留学して日本語を学んでおり、住まいもわたしが産声を上げた江東区南砂町に青海大学時代の同級生の夫と住んでいたということだった。しかも講師とガイドという立場からバスの中で旅のことについての打ち合わせのほかに、わたしからさまざまな質問や意見を聞く会話(いわゆるチベットと中国間の諸関係・諸問題である)を試みた。きわめて漢化の進んだチベット地域ということもあって、中国に対する態度やダライラマにたいする考え方などが大きく後退しているのではないかという一種の危惧が、わたしにはあったからである。結果は、きわめて好印象を持つことのできたガイドであった。私の危惧とは反対にかえって中国やダライラマに対する考え方が純化されて、10年前よりも先鋭的になっているような感じがしたのである。もっともまだ、彼女一人からだけの感触だけなのでこの先どのような展開が待っているかは分からない。

青海省の省都西寧の街は中国のほかの都市と変わらない盛況ぶりだが、しかし、ここは半世紀前までは大チベット圏。車窓から見る街角にはチベット人、回族やモンゴルの人びとの顔が見える。特に眼を引いたのは回族の女性が新疆の回族と違って、みな頭に黒いスカーフをまとっていることである。しかもそのスカーフは後頭部から耳を覆って首を巻いていることであった。

もうすでに、みんなからNちゃんという愛称で呼ばれるようになっていた、そのNちゃんから西寧の状況について説明があった。

西寧市内ではチベット語は大学でしか教えない。農村地帯では小中学校では教える学校が多少はあるということであった。Nちゃんも西寧市内から140km離れた農村地帯の出身なのでチベット語を学ぶことができたという。自分の民族の言語を自由に学ぶことができないということは、たとえ、わたしと考えが異なる人がいたとしても、これは民族の悲劇であり、大きな問題であるということは誰でもが認めるであろう。

やがて彼女はバスの中ではあったが、準備していた純白の「カタ」を一人ひとりの首に巻いてくれた。チベットの習慣で遠来の客を歓迎する慣わしである。

平均給料も西寧で働く人の平均給料は2500元から2800元くらいだが、ラサは遠隔の地であり生活環境も厳しい地でもあるので、いわゆる過疎地手当てもあるのだろう、ラサの人びとは3500元前後だという。しかし、それは漢人の場合である。実際にラサで聞き取りをした際にはかなり違っていた。工場で働く女性は600元、銀行員は2000元から、軍隊の初任給が3000元で食堂で働く女の子は真かにつきの住み込みで手取りが500元〜800元というから、かなり窮屈な収入である(これは『シルクロード紀行』から引用)。

わたしたちの目的であるチベット鉄道の貫通についても、「わたしたちチベット人は鉄道を歓迎していません。私は昔はラサに住みたいと思っていましたが、今は漢民族人ばかりなので住みたくありません。最近、西寧の家々の窓に国旗が掲げられるようになって来ましたが、あれはチベット人が家を建てるために政府から金を借りるときの条件に国旗掲揚が義務づけられているのです。普通のチベット人は、もともと自分たちの国の国旗があったのですから中国の国旗を好きではありません。10年前はもう少し自由があったのですが今は何もいえません。みんな政府を怖がっています」と、ドライバーは日本語ができないということと、車内の友好ムードの中で、次第に政府批判が熱を帯びてくる。話はまだ続く。「西寧やラサの人々は中国に反感を持っていても、友だち同士でも政府批判を言いません。鉄道を歓迎しないということもあまり言いません。当局への密告が怖いからです。でもみな同じ気持ちだということも理解しあっています」。友だち同士でも心の奥底を言えないということは、多くの当局が多くのチベット人に密告の網を網羅しているのである。いわゆるスパイ網が張り巡らされているからである。

3月8日はお釈迦様の生まれた日。無論、青海省でも大きなお祭りになるが、チベット人がたくさん集まることを恐れる政府は、この日は学生を外出禁止にするとのこと。ラサでも学生がジョカン寺(大昭寺)などに行ったら退学になるとのことである。しかし、お寺に行くのはチベット人にとって空気を吸うように当たり前のこと。チベット人の学生は、工夫をしてお寺におまいりするとのことである。大学当局の通達を守る人はいないとのことであり、なかには五体投地をしてでも行く学生もいるとのことである。しかも最近では西寧からラサまで約2000kmを五体投地で行く人が増えており、早い人では4ヶ月も5ヶ月もかけて行くそうである。その篤い信仰心はいったいどこからくるのだろうか。

前日の北京の蒸し暑い34度という気温から一転して、西寧は20度前後。3000mを越えると、西寧の人々は分厚い外套を着ているようになっていた。おそらく10度前後になっていただろうと思う。

青蔵公路はかなり快適である。車窓から見える青海高原にはソラマメ、油をとる菜の花、ジャガイモやチベット人の主食であるツァンパになる青裸麦などがとれるという。しかし、数十キロごとにラサのソンツェンガムポに嫁入りした唐の皇帝の娘・分成公主の像がやたらにある。モンゴルでチンギスハーンの像をやたらに見たことと共通しているものがあるのだろう。

ガイドの話はまだ続く。

参加者からの一人っ子政策の状況についての質問から、Nちゃんは次のように答えた。「チベット人は都会で夫婦共働きの家の子どもは2人までで農村地帯は3人までとなっています。それ以上産むと罰金が科せられます。罰金は5000元です」。因みにまだ一人っ子政策が採用されていなかった頃の彼女は5人兄妹の3人目。なかには15人産んだという家の話を聞いて、みなびっくり。

日月山に登れ!

青蔵公路を走るわたしたちのバスは、やがて日月山という観光地に着く。バスを降りた途端にチベット人の服装をした漢人の女性たちのお土産売りの軍団がワッとばかりに私たちを取り巻いた。

日月山の標高は3520mになっている。

日月山といっても10メートルほどの小高い山である。文成公主が持参してきた2つの鏡、日鏡、月鏡をその山の上で割ったという故事に因んでいる。日亭、月亭の二つの四阿(あずまや)と、02年に建てられた文成公主の像がある。といっても彼女の像はこの青蔵公路にはたくさんある。いずれも観光客目当てのものなので、この場にそぐわない。

ここは吐蕃(チベット)の国王であったソンツェンガムポ(?〜649年)に政略結婚で嫁ぐ文成公主がこの地で漢土と別れを告げてチベットの地に入るために、付き従ってきたものたちと別れを交わした場所といわれている。

入場料は個人だと25元、団体だと17元。2人で歩いていた女性たちが係員から50元ずつの入場料を取られたという。Nちゃんが憤然として取り返しに行った。トイレも1元。高い。

高所での体の調子を見るためにゆっくりと小高い山の上に登る。タルチョがはためき、眼下に広がる大草原、もうここはチベットの世界である。観光用であろうか白いヤクがおり、ヤクの毛皮で作った黒いテントがあり、毛の長い羊が草を食んでいる。

さらに青蔵高原の道路をひた走るとバスは青海湖に着く。中国最大の塩湖である。

太古、青海湖は黄河とつながり、湖の水は東へ流れていた。紀元前13世紀頃に地殻変動が起こって湖の東岸が隆起し、碑のあるあたりから流れが逆流して、湖に注ぐようになった。中国のほとんどの河は海に向かって西から東に流れるが、西に向かう河は珍しい。

早速、土産売り軍団に取り囲まれながら船着場からモーターボートでいく。しかし、T女史が相変わらず自由気ままに写真を撮ったり、みやげ物売りに取り囲まれてなにやら対応していたりで来ない。意を決し彼女をおいてモーターボートを出発させる。遅刻常習者にショックを与えて少しまじめになってもらおうと思ったのである。他の仲間たちも納得顔であった。たいしたことのないクルージングであったが、T女史は一人で待っていた。

ここでS氏が「具合が悪い」と言い出す。そろそろ高度障害の出る頃である。用意していたスプレー式の酸素を吸ってもらう。

Iさんが「めがねをどこかに置いて来てしまった」と言い出す。結局、トイレの中にあったが、これも高度障害のひとつであろうか。彼女にとっては相当にショックだったようである。

Nちゃんのガイドはまだ続く。

「都会の結婚は自由恋愛が多いです。しかし、農村地帯はまだお見合い結婚が多く、結婚式当日まで夫の顔を知らないでいる場合が多いです」という。少数民族地域は新疆でもどこでも同じである。「農村地帯の結婚は15歳から16歳くらいに結婚する人が多かったのですが、今は少ないです。しかし、去年は私の実家の近くで結婚式がありましたが、男は16歳で女は15歳でした。きのうまで友だちのと遊んでいた女の子が今日結婚です。食事の作り方もわからないでいます」と早婚を批判する。

言語については、ラサの言葉はいわば現代チベット語になっているのであろうか、「地方の遠いところの人たちは、ラサの言葉が分からない人が多いです。アムドあたりになると中間地帯になるので、言葉が分かるのは半分半分くらいです」という。Nちゃんはラサのチベット人とは言葉が通じないという。

一方、3年前にダライラマが「動物を殺して作った毛皮の服は着ないようにしよう」と呼びかけたところ、チベットの人々はみなこの呼びかけを積極的に受け入れたという。ときどき毛皮を着ている人を見つけると、殴られることがあるという。Nちゃんは「それは仕方のないことです」と暴力行為であっても肯定する。

やがてバスは標高2800mのチャカに着く。やはり辺境の地である。ホテルはシャワーも出ないテレビもつかない。みなさんには、「ここと東京や大阪と比較しないで下さい」とあらかじめ釘を刺しておいた。そしてシャワーも浴びずに早々と寝た。

8日 チャカ塩湖

朝、チャカ塩湖に行く。ここ青海省もそしてチベット高原も太古、海の下にあった。

ガタガタの線路を行くトロッコにはわたしたち15人のほかに東海地方から来た、社団日中のツアー16人と一緒になった。「呉越同舟」である。観光が終わって宿泊したホテルに立ち寄ってトイレ休憩。するとその社団のツアーのリーダーらしき年配の人がトイレから出てきた私を見に来た。「野口先生という方はどんな先生なんですか?」とつぶやいたので、「わたしです」という。「そうですか?有名な先生なんですね」という。「そんなことありませんよ」というが「いつもテレビになんかで出てるんですか?」ともいう。テレビに出るほど阿呆じゃないよ、といいたいが、知らん振りをしていた。彼はなにやらつぶやきながら去っていった。なんなんだろう。そういえば、私たちのバスのフロントガラスに「野口信彦先生と行く青海チベット鉄道ツアー」と大書した紙の看板が貼ってあったのだ。

バスは果てしのない青蔵公路をひたすらゴルムドに向けて走る。約1000kmを2日間かけてのドライブである。

バスの中では次々と質問が出る。時々わたしが補足回答をする。あるいはわたしがNちゃんに質問して答えてもらう。会話が途切れると、私の研究テーマについて話す。「遊牧騎馬民族が人類文明と歴史を形成した」というテーマと「欧米崇拝志向」と「中華思想」の克服の課題である。そして、さしずめ私たちは、ロシナンテに打ちまたがったドン・キホーテが巨大な風車に立ち向かっていくようなものであるとも付け加えた。参

加者にピコツアーから送付された私の著書『シルクロードの光と影』を持参してきた浜辺女史からお借りして、Nちゃんと会ったことのない彼女の夫(彼女は「私の旦那」というので、「旦那」や「主人」という言葉は男尊女卑につながるのではないか、と問題提起をしていた)あてにメッセージを書いてプレゼントした。メッセージの内容は「あなた方がチベット人としての誇りを失わず、チベット人の魂を守って生きていかれることを祈ります」とした。

今回は青蔵チベット鉄道に乗ることを目的とした旅である。わたしはそれに大いに関心があるが、率直に言って、チベットのこの果てしない高原と空=蒼穹の天を見ているだけで十分に満足ができるのである。

標高2800mの高原だが、ゴルムドのお湯の出るバスタブのある風呂でゆっくりしてもらおうと、到着してから1時間後に夕食。翌日は1ヶ所だけの観光(チャルカ塩橋)を終えたら、午後は休息タイムとした。ミネラルウォーターは1日1本のサービスだったが、高度障害対策には大量の水を飲む必要がある。朝食時のほかに夕食時にも皆さんからの了承を得て1000円ずつ徴収した共通経費から支出することにして備える。しかし、部屋に入ると洗面所は三ツ星だけのことはあると思った。が、二階のこの部屋の外を見ようと思ったが、10センチ向こう側は、何かの建物の壁である。昼間でも電気をつけない限り部屋は真っ暗である。聞くと、壁に直面した部屋のメンバーは、ほとんどの人が部屋を替えていた。こういう自己主張はみな鋭い。わたしは、仕方がないと思っていてまだ替えていない。が、朝の5時半にフロントに行って「部屋を替える」というと、早朝なのできょとんとした顔をしていた。しかし、よくこんな部屋の構造にしたものだと思うし、それを客によく貸せるものだと思う。

夕食後、Nちゃんが「ホテルの向かい側でチベットの踊りをやっています」といったのでカメラをぶら下げて見に行く。踊りはチベットの踊りではあるが、踊っているのはみな漢人の女性ばかりであった。ここゴルムドは西部大開発で発展した漢人の街なのである。

ここゴルムドからラサまでの鉄道は2001年から敷設工事が進められてきた。そして、突貫工事の末に06年に完成したのだ。

ゆったりとチベットの蒼い空

旅3日目の今日はゆったりとした日程を組んで午前中、チャルカ塩橋に行く。ここは中国最大の塩湖で主に塩化カリウムやナトリウムを生産している。国道219号線がもうすでに塩の橋になっている。ここにはわざわざ日程を組んでいくほどのこともない。だが、Nちゃんにとってはこのことがお国自慢のようで、私が「あまり面白くないね」とわざと言うと、「そんなことはありません。この塩の橋はずっと続いていて歴史があるんですよ」という。私は「そうかい、分かった、分かったよ」だった。もう、私の娘と1歳しか離れていない彼女が愛娘のように思えてきたのである。だからNちゃんには逆らえない。しかし、往復の途中の道がなんともいえなく、良い。まったく飽きるということがない光景である。

チベットにはどこに行ってもタルチョがはためいている。タルチョは単なる“旗”ではない。それはすべての生きとし行けるものに代わって、幸せな輪廻転生の祈りを風に乗せて天まで運んでくれる天馬なのだ。

帰りの時間に一計を案じて、参加者の1人ずつから、今回の参加の動機やらを自己紹介してもらった。すると2人の女性は恥ずかしがって前へ出てこない。普段はぺちゃくちゃおしゃべりをしているが、こういうときになると物怖じして人前で話さない。“男尊女卑の加害者は男性であるが、もう1人の有力な加害者は女性自身なのである”という私の持論を証明してくれたようなものである。“女性よ、もっと羽ばたけ!”である。私が男だからといって男の味方をするわけではないが、今回の参加者のうち男性の職業を見ると、80歳になる兵庫県のお寺のご住職と72歳になる弟さんの俳人、76歳になる元自由法曹団の会長のi先生、福山市で法律事務所の所長であるH弁護士と職員のKさん、それに大学非常勤講師のG氏、わがシルクロード文化センターの会員でG氏を誘って参加されたS氏と我が家のご近所で宇宙航空関係の仕事についているS氏である。人前で話すことになれている人たちであるから、比較はできないが・・・・。

ゆっくりとした休息のあと午後4時半から、希望者に限ってだが、ホテルの会議室で私のパソコンによる「シルクロード講座」を組み入れた。全員が参加してくださった。「講座1」から「講座11」まで夕食をはさんで実施した。パソコンに入っているパワーポイントで画面に映しながらの講座である。無論、ビールや酒とともに、である。8時半ころの夕食後にも再開して、終了した時間は午後10時を30分以上も回っておりサッサとベッドにもぐりこんだ。

青蔵チベット鉄道乗車!

10日。やはり朝3時半に眼が覚める。風呂に入ろうと思いながら、パソコンに写真のキャプションを書き込んでいて入りそびれてしまった。今までは毎日150枚くらいの写真をパソコンに取り込んでいる。5時半に朝食で6時20分出発。10分ほどでゴルムド駅に行く。駅前には飛んでいるツバメを踏みつけるという汗血馬の像がある。

7時13分に汽車が来て同33分出発。蘭州からの汽車である。出発前に列車の先頭の機関車を撮影するために走る。駅員が怒鳴りながら私たちを制する。出発するとすぐに青蔵高原のゴビ灘が眼前に広がる。食事は乗車してからでないと予約できない仕組みになっているので、蘭州や西寧から乗車した乗客が先に予約していると食事時間が大幅に遅れるので弁当になった。それでもビールを飲む人が6人もいた。あれだけ警鐘を乱打した私もだが・・客車の内部は気密室である。

私は講師として、出発前にかなり高度障害、高山病についての警鐘を乱打してきた。みなかなり戦々恐々としていたようだが、結果的にはそれが良かった。

雪山が見えると「ワーッ」、動物が見えると「キャーッ!」である。私がひそかに熱望していたキャン(野ロバ)も見ることができた。

合計14時間余の汽車の旅である。私たちの箱の真ん中あたりでチベットの女性たちの歌声が聞こえ、チベットのおばさんたちが大笑いする声がする。振り返ると、何歳くらいになるだろうか60歳から70歳ほどのおばあさんが客車の座席のあいだで軽く踊りながら、澄み切った空に突き抜けるような高らかな声で歌っている。この地域の人々は、紫外線の強い直射日光で焼かれ、きわめて乾燥した風に打たれているので、みな実際の年齢よりはるかにふけて見える。だから実際の年齢は聞いてみないと分からない。大学の踊りの先生であるT女史が一緒に踊りだす。しかし彼女の踊りは専門家でありながら、まるで阿波踊りである。合唱団に入っているS氏さんがソロで歌い、みんなで「さくら、さくら」を歌い、日本とチベットの一大交歓会となった。澄み切った空といったが、実はモンスーンの時期なので空にはもやがかかっており、やがて瞬間的だったが雪も舞い降りてきた。

午後2時13分、いつの間にかチベット自治区に入っており、タングーラ(唐古拉)駅通過。この近くが青蔵鉄道の最高到達点である。車内の電光掲示板に5077メートルという表示が掲示されると、いっせいにシャッターを切る。みな妙に興奮していた。自身の到達した最高地点だからであろう。その「5077メートル」である。

やがて「頭が痛い」といって酸素を吸う人が1人2人と出てくる。これはラサに到着する前に全員が酸素を吸ったほうがいいと思った。客車に備え付けてある酸素を吸うようにすすめる。車内は気密室だがラサ駅に着けば、とたんに3700メートルの世界になるからである。地上の3分の2の濃度である。酸素は座席の下にあり、車掌から鼻に差し込むチューブをもらう。みな息をつくようにして吸い、「重い感じがしていた頭の中のモヤが晴れたようになった」という。

午後9時50分にラサ駅に到着。広い大きな駅舎である。チベットの正装を身につけた背のすっきりと高い女性が私たちを待ち受けていてくれた。日本名をYさんというチベット人ガイドである。出身はチベットの西の方、ブータンとネパールの国境に近い地域の出身だそうで少数民族中の少数民族のモンバ族ある。人口は2万人くらいしかいないという。鼻の通った眼力のありそうな女性である。26歳。蘭州で日本語を勉強したという。でも、日本で日本語を学ぶのと中国内で学ぶのとでは雲泥の違いが出る。

彼女もチベットの習慣である「カタ」をわたしたち一人ひとりにかけてくれた。

ホテルに向かうラサの街並みと道路は、10年前とはまったく違っている。それはそうだろう、改革開放政策のもとで、しかも「西部大開発」の大号令が掛けられているのだから、昔の面影が残っていてはならないのであろう。バスはやがて新装の三ツ星ホテルに入っていった。

聖都ラサ

ラサあるいはチベットを言うとき、必ずソンツェンガムポ王に触れなければならない。ソンツェンガムポ王には2人の妃がいた。ひとりは唐から嫁入りした文成公主であり、もう1人はネパールから来たティツゥンである。彼女はチベットに寺を建てることを考えたが、どこがいいのかを文成公主から中国の八卦で占ってもらった。結論は、羅刹女が寝そべったこの地の湖を埋め立てて寺を建て、羅刹女の動きを封じ込める。そのために両手両足の付け根と両膝両肘などの12か所に寺を建てよと提案した。こうしてチベットは羅刹の国から仏教の国に生まれ変わり、いつまでも平和な聖都として繁栄してきたのであるという。

この聖なるラサの都にチベット各地から巡礼者が集まる。ナンコルとパルコルは、毎日、巡礼者が絶えることがない。しかし、ナンコルは自動車道で寸断されているので、パルコルのみに集中しているようである。

チベットは、そしてラサは、1951年に人民解放軍が侵攻してきて激変した。文末の歴史概略を参照して頂きたい。

1999年、中国各地は党と政府が組織した中華人民共和国成立50周年、「チベット動乱」から40周年を記念して、ポタラ宮前広場で少数民族大会を開いた。この運動会の最中に、タシ・ツェリンという名のチベット人男性が中国の国旗を降ろして、独立時代のチベット国旗を掲げようとして逮捕された。彼はダイナマイトを体に巻きつけて自爆しようとしたが果たせず、数日後に頭へ受けた傷がもとで死んだ。このようにして現在のポタラ宮前の広場はチベット人の生活からかけ離れた存在となってしまっているのである。

ノルブリンカ宮殿

まず、最初にダライラマの夏の宮殿・ノルブリンカに入る。ノルブリンカの入り口付近は、10年前とはまるっきり違っていた。

ここは人民解放軍の侵攻当時には勇猛なカムパ族などがダライラマの南インドへの脱出を助けるべく戦って数千人の犠牲者が出た場所でもある。

世界文化遺産に追加登録されたノルブリンカ宮殿はラサの西の郊外にある。1740年代に建設されたこの宮殿は、チベット語では「宝の公園」となる。ここはかつて7世ダライラマの療養所だったが、200年あまりを経て現在の規模になった。内部の「新宮」はもっとも豪華で、寺院・宮殿・歴代ダライラマの夏の時期の執務室が集まっている。面積は36万平方メートル。わたしも10年ぶりにダライラマの執務室、寝室、玉座などに再開することができた。

蒼穹の聖城−ポタラ宮・僧衣を禁じられた僧侶たち

10年前は外国人観光客にたいしては高度障害を慮ってか、バスで一番上に行ってから階段を下りながらの観光であったが、今は違う。下から登るのである。駐車場から30〜40分も階段を登ってからやっと入り口である。なかには、階段を3〜4歩登ってから方で大きく息を整えている人もいる。80歳のお上人は息も乱さずに平然とした顔で階段を登っている。修業のたまものであろう。現在のポタラ宮は完全予約制で観光時間も1時間と決められている。入り口ではあらかじめ提出されていた名簿をパスポートで念入りにチェックする。なぜここまで厳重なチェックをしなければならないのだろうか。ひとつは当局によるチベット人の抵抗運動への備えであろう。しかしそれを考えるならば、ほとんどすべてのチベット人が崇拝してやまないダライラマのいた聖城であるポタラ宮を攻撃するいわれがない。外国人のテロを警戒しているのであろうか。高度障害の難関をかいくぐってここをテロ攻撃する余裕やメリットはないのではないか。私の観察では、ダライラマの偉大さやチベットの歴史をできるだけ小さな影響に抑え、しかもできるだけ少ない時間内の観光で済ませるという目的がもっとも大きいのではないだろうか。

歴代のダライラマの金色に輝く像や各種の仏像の前では仏僧たちがなにやらの作業をしながら座っている。近くには解放軍の兵士2人がいるが、10年前にはいなかった。仏僧たちには僧衣を着ることを禁じているという話をNちゃんから聞いた。彼らは黒い作務衣のような服を着ている。Yさんに質問すると、やはりガイドのマニュアルから外れたことはいいにくいのであろうか、「あの人たちは国から給料をもらっている人で、まだ仏教を勉強中の人もいます。仏僧ではない職員もいます」。と答える。するとすかさずどなたかが、「でも仏教を勉強しているのでしょう?であれば単なる職員だけではないのと違いますか?あの人たちも仏僧でしょう?」と関西弁でいう。

ここはラサの西の紅山にあり、7世紀はじめソンツェンガムポ時代に建てられ始めた。宮殿は13層からなり、高さ117・9m。紅宮と白宮の二つの主要な部分からなり、紅宮は歴代ダライラマの霊塔殿と各種の仏堂があり、白宮はダライラマの寝室や政府の執務場所などであった。

明石書店の『チベットを知るための50章』(石濱裕美子編著)では、ポタラ宮は別名を「垂直のヴェルサイユ」ともいわれてきたという。しかし、西洋が上でアジアが下というこの種の図式と志向には辟易する。この種の「欧米崇拝志向」あるいは「中華思想」克服を私のひとつの命題にしているが、なぜ、ヨーロッパの何かを、アジアより良いものにするのだろうか。なぜ、そんなにヨーロッパに媚びなければならないのだろうか。

ポタラという言葉はサンスクリット語で観音様の聖地を意味するポータラカをチベット語で音写したもので、ポタラ宮が建つマルポリ(紅い山)は、古来より観音菩薩の聖地であった。チベット開国の伝承では、守護尊観音菩薩がはじめてチベットに出現したのはこの丘の上であり、観音菩薩の化身で7世紀にチベットを統一したソンツェンガムポ王の宮殿も、この丘の上に営まれていた。

このマルポリの丘の上に壮麗なポタラ宮が登場するのは意外に新しく、17世紀のダライラマ5世の頃であった。長年にわたる内乱を終結させ、チベットが再び統一に向かった1634年、ダライラマ5世はチベットに恒久的な平和をもたらすために自らを観音菩薩の化身として、また、ソンツェンガムポ王の再来として世に示すべく、このマルポリの丘の上に宮殿を建てることを決意したのである。現在の白宮の原型となるこの宮殿は1647年に完成し、ダライラマ5世は1682年に他界するまでの間、この白宮の最上階の日光殿や観音堂の中で瞑想に入り、観音菩薩やソンツェンガムポ王のヴィジョンを得てチベットを支配するパワーを得たといわれている。

白宮の西側に建立された4階建ての宮殿は、外壁が赤く塗られたので紅宮と通称されている。その構造は、2階まで吹き抜けた広間を中央に置き、東西南北をダライラマ5世を顕彰する4つの堂が取り囲むものとなっている。西側の堂には1階から4階までを突き抜けてダライラマ5世の遺体を納めた大仏塔「閻浮提(えんぶだい=世界)の飾り」が鎮座し、北側の堂にはダライラマ5世の前世者を祀り、東側の堂には5世に至るまでの顕教の相承者が、南側の堂には同じく密教の相承者が祀られる。そして、2階に上がると、5世に至る医学の伝統の相承者が祀られた医学堂、3階には同じく暦学の伝統を相承したカーラチャクラ堂などが並び、最上階の4階にはダライラマの居間が12部屋作られていた。

5000人−500人−50人=の方程式

1960年頃の人民解放軍による「平和解放」という名の侵入以前には5000人いた僧侶が、解放軍とのたたかいとそれに続く弾圧、10年前にh1966年からの文化大革命を経て500人に激減していた。僧侶たちは殺されたか投獄されたか、生まれ故郷に帰ったか、どこかに逃げ散ったのである。驚くべきことにその僧侶たちが現在ではさらに50人に激減しているのである。なんということであろうか!

初めてポタラ宮前の広場で全員の集合写真をとった。念のために近くにいた男性に、私のカメラでの撮影を依頼した。終わって彼に10元のチップを無理やり手渡したが、カメラをチェックするとなんとシャッターが切れていなかったのである。

五体投地の目的地はジョカン寺

ジョカン寺は旧市街区にあり、西暦647年に建立しはじめた。吐蕃王ソンツェンガムポの菩提寺として、ネパール出身の妃チツゥンが建てたといわれている。寺は東側にあって西向き、本殿は4層からなり、屋根は黄色い瑠璃色に葺かれ美しい。寺の内部には貴重な文化財が数多く保存されている。寺の前には有名な「唐蕃会盟碑」がある。同盟の相手を「野蛮人」の言い方であらわすのだから、ずいぶんなものである。

2000年、ポタラ宮の歴史的建造群として、世界文化遺産に登録された。本尊は唐の文成公主が請来した釈迦牟尼像である。門前には五体投地で祈りをささげる人たちでいっぱいである。

ラサというと誰でもがポタラ宮が中心だと思うが、実は五体投地などでラサに向かうのは、みなまずこのジョカン寺に向かうのである。ここがチベット仏教の中心地なのであって、ポタラ宮はダライラマの居城だったということである。

パルコル

パルコルは漢字で八廓街と書く。ジョカン寺を正面にして、その周りをぐるっとまわるバザール街だと思えば、分かりやすいだろう。チベット人がチベット圏各地から汽車やトラックや五体投地や徒歩で聖地ラサを目指すのは、目的地がポタラ宮ではなく、ここジョカン寺なのである。その人たちはこのジョカン寺に来ると必ずパルコルをまわる。店舗も屋台の店もほとんどが各地から出稼ぎに来た漢人たちである。昔からここで商売を営んでいたチベット人たちはとうの昔に蹴散らされている。みな買い物に夢中である。

かぜのセラ寺

風邪を引いた。日本からの出発前、6月の花粉症と結膜炎の症状があって行きつけない狛江市内の医者にいって大急ぎで治したが、完治していなかったようである。

この日の観光はデプン寺とチベット博物館、セラ寺の観光だったが、デプン寺に行くための階段を駐車場から上がり始めて自覚した。息苦しくて、足腰に酸素が十分に入っていないことから来る身体の倦怠感に襲われていることに気がついた。「これは休んだほうがいい」と直感した。結局、バスの中で休んでみなを待っていた。風邪の症状だが、これは高度障害の一種であろう。Nちゃんが心配してくれて、お祈りしてから買い求めてくれた赤いリングのようなものをプレゼントしてくれた。「風邪が早く治りますように」と言いながら。「大丈夫だよ」といって、礼を述べた。心根の優しい娘さんである。

問答で知られるセラ寺だけはご紹介しておこう。

ラサ中心部から約8km北にあるセラ寺は、セラウツェ(色拉烏)山麓に建ち並ぶ大伽藍で面積が11・5平方メートル。ゲルク派の開祖ツォンカバの弟子の一人が、1419年に創建した。ラサ郊外の西にあるデプン寺と並んで、ゲルク派最大規模の僧院として栄え、最盛期には5000人以上の僧侶がいたという。20世紀初頭には、日本人の河口慧海や多田等観も修行に励んだという。午後には若い僧侶たちが中庭に集まって問答修業するさまがユニークである。

西蔵博物館

チベット博物館だが、いつごろできたのか、かなり新しい建物である。看板は漢字でのみ表している。もらった入場券によると、1999年に建設されて、面積は53959平方メートル。内部は、主館部、民俗文化館、事務所などに分かれている。

1950年頃、周恩来がニセの玉爾を持ち出してチベット代表団に調印させた「チベット平和解放」の協定書などがあった。当然のことながら、すべてが政府の思惑通りの博物館の構成になっている。新疆ウイグル自治区博物館よりもその狙いと構成は露骨である。あまり積極的に見る気はしなかったが、次回は時間をとってみてみたい。結局、パンフレットも手に入らなかった。

乾杯!

この日のディナーはネパール人夫婦が経営しているというレストランである。2階に上がると、ときどき見かけた日本人グループや白人グループがいる。私たちは「特別扱い」で一番奥のテーブルになったが、そこはこの店の死角で、披露されるチベットの民族舞踊がまったく見えない死角になっている。おかげで私たちの飲むビールはすべて無料ということになった。踊りはモンゴルで見たものとかなり共通しているもののようであった。

この日の夕食会の雰囲気はまるでチョモランマの登頂に成功したようだった。高度障害を乗り越えて登頂したポタラ宮があり、五体投地を目の前にした興奮がそうなったのであろうか、「野口先生が一番高山病を心配していたポタラ宮を全員が無事に観光できて本当に良かったですね」と何人もが私をねぎらってくださる。私は皆さんの高度障害を心配はしたが、みなそれぞれの自己責任だと強調してきた。皆さんご自身の成功ですよとお祝いの言葉に返答した。

句会騒動

夕飯が終わって買い物をしてから集合時間に集まって、ホテルに戻ってから句会をすることになっていた。それは今回の参加者の最高齢のS上人(80歳)の弟さんのSさん(72歳)が俳句の先生なので、かねてから「是非、句会を開きたい」との要望が寄せられていたのである。別の仲間からは、チベット鉄道の先頭の機関車を撮影していないから、バスを回してもらってもう一度行こう、という申し出もあった。しかし、それらのことはあくまでも個人の要望事項なのである。それで全体のスケジュールを曲げるわけにはいかない。しかもバスを回すだけでもかなりの経費がかかるのである。「個人的にやってください。私も協力しますから」といって採用しなかった。しかし、買い物に夢中になってつい、時間を忘れる人やT女史のように、ゴー・オン・マイウエーで何ものをも考えないで自分のことに熱中してしまう、集合時間遅刻常習者がいたからである。結局この日はホテルに戻ったのが10時前で、9時から予定していた句会はキャンセルせざるを得なかった。

S上人は兵庫県の宗教者平和の会のメンバーでもあるが、れっきとしたお寺の住職である。「原水爆禁止国民平和行進」に参加したり、お寺の屋根には広島の原爆ドームを模したものを建てたりと平和の意志に徹しておられる上人である。その智照さんが私に言ってきた。「野口さん、私は今回のことで、いつも遅れる人たちに皆さんの前で謝罪してもらいたいと思っているんです」と。「おっしゃりたいことはご自由に皆さんの前でおっしゃってください。ただし、誰かをさらし者にして皆さんの前で謝罪させるのは、これまで仲良くやってきた今回の旅にヒビを入れることになるので考え直して下さい」といった。結局この日はこれで終わったが、翌日、句会は開かれた。私は風邪気味ということもあって俳句を作ることは遠慮した。俳句の師匠は個人的なことであることを忘れてNちゃんにあれこれ買い物を依頼する。しかし、Nちゃんは自分の仕事でもないのに、コピーや句会の景品の買い物などで身を粉にして立ち働いている。彼女のこの自己犠牲をいとわぬ姿にみんなが感動した。

ツェタンの街とヨンブラカン

3時間半のバスの旅は、緑多きのどかな田園風景であった。ラサから約200km離れている。ツェタンの街は1400年から1500年頃に栄えた街で、標高はラサより50メートル低い3600m。ピコツアーや日本の観光案内ではラサより200メートル低いとあったが、事実は50メートル低いだけであった。

人口は約12万人という。チベットの首府が現在のラサに移るまでの首都であった。ヨンブラカンは小高い丘の上にある。メンバーの方々はまだ経験したことのないラクダやヤクあるいは馬に乗って登った。年配者の方々も2人の若い女性ガイドもはじめてなのでかなりはしゃいでいた。Nちゃんは「馬に乗るのは怖いです」と言っていたが、ラクダに乗ったI弁護士の後ろにつかまって怖がっていたが、到着して降りるときにはニコニコしていた。

私が馬から下りて階段を登り始めるとすれ違った香港からの観光客のうちの若い女性が突然、私と写真を撮りたいといってきた。呆気にとられていると彼女は勝手に私の左腕を取ってピースサインをしはじめた。写しおわると彼女は「謝々!」といって走り去っていった。「なんでだろう」とつぶやくと同行の仲間が「野口先生が格好いいからですよ」といってくれた。メタボリックなおなかの私が、である。でもこのあとの私はかなり気分よくすごすことができたのは間違いないところである。

ヨンブラカンという名のヨンはお母さんという意味になり、ラカンは小さな宮殿という名前になる。西暦2世紀頃できた寺である。

6月14日 ラサから北京へ

ツェタンの街からラサに戻って北京へ飛ぶ前に、途中の民家を訪問した。とにかく突然の見知らぬ客でも大歓迎するチベットの人たちは、バター茶やチャン(どぶろくのような酒)で歓迎してくれた。誰かが、巡礼の時には仏教の派の違いはどうしているのかと質問した。「私たちはみんな同じチベット仏教だから、派の違いは意識せずにどこのお寺でもおまいりします」というお母さんの言葉が印象的であった。しかし、それよりなによりも、彼女たちや近くから来た人たちの人気の的は私が持ってきたポラロイドカメラであった。自分の家まで帰ってから家族を連れてきて、もう一回写してほしいといわれる。結局、最後ということもあって、全部のフイルムを提供してNちゃんに写してもらった。

こうして私たちの青蔵チベット鉄道の旅とラサ観光の旅は終わった。

旅が終わって感じたことは、チベット仏教はいよいよその神秘性が増して、世界各地の人びとをひきつけてやまなくなってきている。このチベット文化をチベット人自身が自由に享受できるよう、心を合わせて進んでいただきたいと思うのみである。

チベット歴史年表

神話時代

チベット文明の誕生

BC127

古代の歴史 ショル石碑(ドリン)の建立

12401350

モンゴル帝国との関係

13681644

明朝皇帝との関係

16391911

清王朝との関係

18571911

英領インドとの関係

1947

インドとの関係

4910

新中国建国

501111

チベット政府「共産中国による侵略」を国連に提訴

510523

中国政府の周恩来首相は軍事的威嚇のもとに、チベット政府代表団に偽の玉璽を出して「チベットの平和的解放のための措置に関する17ヶ条協定」への署名を強要させた。

540429

インド政府と中国政府「平和五原則(パンチ・シーラ)」に調印。

清蔵公路、西蔵公路が完成。中国の援助でチベットからヒマラヤ越えで一挙に、ネパール〜インドをつくことができる道路だった。

561125

ダライラマ法王、インド釈尊入滅250年記念祭ブッダ・ジャヤンティに出席、ネール首相と亡命の可能性について協議したものの、周恩来首相がネール首相にチベット情勢の悪化を食い止めると約束したため、説得に応じて帰国。

590310

ラサで蜂起開始。中国はチベット人87.000任を殺害して放棄を鎮圧。ダライラマとともに80.000人のチベット人がインドに亡命。周恩来首相、チベット政府の解散を宣言。

5908

中国、インド・チベット国境に人民解放軍舞台を配置。インドも北部国境の軍備を強化。

5910

国連総会が「チベット人の基本的人権と特有の文化および宗教生活の尊重」を要請する最初の決議。

6002

南インドのマイソール付近の森林地域にあるバイラクッペで最初のチベット人農業入植地を建設。現在ではインド、ネパール、ブ−タンにおける入植地と福祉事務所は54ヶ所に上る。

6004

チベット亡命政府がインド北西部ダラムサラに移動。

6005

亡命チベット人学校の第一号がムスーリに開校。現在ではインド、ネパール、ブータンに87校があり、3万人の子どもが学んでいる。

600608

国際法律家委員会が始めてチベット問題に関する報告書をまとめ、中国が「チベット損の残虐な殺害」を行い、51年の17ヶ条協定を無視していると批判。続いて8月には第二号報告を発表し、「宗教的集団としてのチベット人を破壊しようとして、虐殺行為が行なわれている」と指摘。

6112

国連総会がチベット問題に関する決議第二号を採択し、チベット人に自治権を認める。

6211

チベット自治区の僧院と尼僧院の97%、それ以外のチベット人地域で98〜99%が無人化ないし廃墟化。

のちにチベット亡命英政府の宗教・文化省が集計したところでは、全チベット6259ヶ所の僧院、尼僧院のうち、破壊を免れたのは8ヶ所だけだった。

6305

中国人科学者、水爆設計作業のためアムド入り

6408

ラサでチベット人学生10.000人が中国に反対して抗議のデモ、多数が虐殺される。

66

毛沢東の発動した文化大革命により、チベットにさらなる死と破壊の波が押し寄せる。

7101

中国、チベット北東部アムド州のツァイダム盆地に初めて核兵器を配備。

7907

ケ小平、チベット解放政策を発表。

8406

チベット亡命政府、中国による侵略および占拠の直接の結果として、120万人のチベット人が死亡したと発表。

8806

ダライラマ、欧州議会でストラスブール提案を発表。この中でチベット3州を統合し、真の自治を享受するが、チベットの防衛、外交については引き続き中国が担当することができると提案。

8910

ダライラマにノーベル平和賞授与が決定。

9004

中国、チベットへの戒厳令を解除

9108

国連の少数民族差別保護と差別撤廃のための小委員会は「チベット情勢」決議を採択し、「チベット人特有の文化的、宗教的、民族的アイデンティティーを脅かす人権と自由の侵害に関する条フォーラムが相次いでいること」への懸念を表明。

9202

ダライラマは「将来におけるチベットの政治形態の指針と憲法の基本要点」を発表。この中でダライラマは、将来の自由なチベットにおいては、選挙によって選ばれた政府のために、権限を放棄すると述べ、チベットが自由を回復したときにはチベット亡命政府はキ亜産することを明らかにした。

9712

国際法律家委員会、チベット問題に関する第3号報告を発表し、「チベットにおける抑圧がいっそう、エスカレートした」と指摘。ICJは国連総会が59年と61年の決議にもとづいて議論を再開することや国連人権委員会がチベットの人権状況を調査するために特別報告者を任命すること、国連事務総長がチベット問題の平和的解決とチベット人の意思を確認するための国連が監視する住民投票を推進するための特使を任命することを勧告。

9803

チベット青年会議のメンバー6人が、ICJの97年報告の勧告を履行するよう国連に圧力をかけるため、ニューデリーで死に至る断食を決行。

9903

チベット青年会議のメンバー3人が、チベットにおける人権状況に関する対中国非難決議を採択するよう国連人権委員会に圧力をかけるため、ジュネーブで死に至る断食を決行。ハンストは26日目に国連と諸国政府の要請で中止。チベットの状況に関して評価が行われるとの公式の保証が与えられた。

 お断り=この表はインドのダラムサラにあるダライラマ政府作成の表です。