2007年3月

野口 信彦




2007年3月、懸案だったシルクロード関連の本『シルクロードの光と影』の出版やそれを祝う集いなどの一連の活動にめどがたった頃、ウズベキスタンへの旅に出た。

初めてのウズベキスタンへの旅といいたいところだが、実際は二度目である。1990年夏、勤務していた日本勤労者山岳連盟の創立30周年記念の登山活動をカザフスタン側の天山山脈で行なうための事前の現地調査に6月、首都アルマトゥに向かう際、どういうことか、遥か先のウズベキスタンの首都タシュケントに降り立ったのが最初である。しかしこのときは、単なる乗り継ぎのための訪問だったが、市内のバザールを見て「ここは民族の坩堝(るつぼ)だ!」と思ったくらいであり、問題意識を持って訪れたのは今回が始めてである。

シルクロードを研究する者、なぜ今頃、中央アジアのウズベキスタンが最初の訪問になるのかと思われるだろうが、そこは醜女(しこめ)、いや“ジジイの深情け”。新疆シルクロードへの想いがつのるあまり、30回近い訪問となって中央アジアにまで足を伸ばす余裕がなかったのである。それが安いパック旅行が夕刊に掲載されていたのがきっかけとなってウズベキスタンに初見参することになった。初めてのときはパックでも良い。次からは「研究旅行」にすればよい。

ウズベキスタンの外交政策の基本=圧倒的なロシアの影響を極力減らす方向にある。ロシア人が減っていることがその表れだろう。

2001年9月の同時多発テロ事件後、国内の空軍基地に米軍の駐留を認めるなど、ウズベキスタンはアメリカとの関係を強めてきた。2005年5月のアンディジャン騒擾事件を受け、事件への対応に批判的な欧米各国との関係が決定的に悪化し、上海機構に対する依存を強めつつ、ウズベキスタン政府の立場を支持するロシアや中国との関係強化を図っている。ウズベキスタンはアフガン戦争を契機に、対米、西側諸国への傾斜が顕著である。しかし、04年4月ころから再びロシアに接近、最近、中国との政治経済関係強化にも積極的である。

ウズベキスタンへは日本からの直行便があり、近年、観光客が増えている。いうまでもなく私もその一人である。だがしかし、わたしのようなシルクロード研究の一環として訪れる人は少なく、40代の独身女性は、「もう世界中へ行ったから、あまり関心のなかったここに行くことにした」とか「ほかに行くところがないのと、安かったのでウズベキスタンを選んだ」という人がいたのには驚いた。アリバイ作りのために世界各地を歩き回っているような人たちがいたのである。百名山に登りきることを目標に歩いている人より難がないといえるのかどうか・・・

2005年11月、米軍の撤退が完了する一方、ロシアと同盟関係条約を締結した。また、2006年1月、ユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟。6月にはCIS集団安全保障条約機構(CSTO=中央アジアの地域機構)への復帰を決定した。

5万人ほどの軍隊があるが、反テロ作戦の一環としてドイツ軍がテルメズ飛行場に駐留している。ミリタリーバランスなのであろう。

少々ウズベキスタンの概略をご紹介しよう。

ウズベキスタンの面積は45万平方キロで日本の1・2倍あり、人口は2660万人(ウズベク人77・2%、ロシア人5・2%、タジク人4・8%、カザフ人4%)となっている。首都タシュケントの人口は215万人となっている。

 

民族=最近の検討では、もともと「民族」という言葉ほどあいまいな言葉はないと思っている。この言葉は明治維新後に日本がつくった造語なのである。日本が作った単語には、資本主義、社会主義、資本家、共産党、剰余価値などの社会科学に関する言葉が多い。現在の中国では、ほぼそのまま使われている。21世紀の現在、「民族」という概念は100年前から比べても考えられないほど飛躍的に発展・変化している。弱者を敗北させて強者が引いた国境を何百年も変わらずに守れというほうに無理があろうというものであろうが、2005年の調査ではウズベク人80%、ロシア人5・5%、タジク人5・0%、カザフ人3・0%となっている。しかし、最近は民族主義のたかまりのもとでロシア人が少なくなっているという。GDPは138億ドルであり、主な産業は農業(綿花・穀物)と天然ガス、織物、鉱業(金)などである。バスで国内を通行していても、直径5センチほどの天然ガスのパイプがどこまでも続いている。

地形は多様だが、人々の古くからの中心的な定住地は、川沿いや盆地のオアシスである。有償支援812億円。国内にカラカルパクスタン自治共和国がある。

統計では一人当たりのGNIが2004年時点で460ドル(約55000円)となっている。私たちのツアーのガイドをつとめたディリー君(27才独身、アラブ人とウズベク人のハーフ、私たちの帰国直後に来日した)は「私の給料は週休が15ドルだから、両親と妹を抱えているので、この収入では絶対に生活できない」といっていた。上手な日本語をこなし、ほかにアルバイトを数多くこなしているという。

一方、中国・新疆のウズベク人について考えてみよう。かつて1944年の新疆における東トルキスタン共和国政府樹立の民族革命時には、ウイグル人などと連合した革命軍の中核的な部分として指導的役割を果たしたことがある。そのウズベク人による指導的な役割は、かつての新疆でもそうであったし、現在までの中央アジア各国においても変わってはいない。

内政をみてみると、1991年12月、ソ連の解体にともなって独立がかなった。初代大統領に選出されたカリモフ大統領は、もともとソ連共産党が任命したウズベク共産党の第一書記だったが、1995年12月の国民投票によって任期(5年、1人2期まで)を2000年までに延期した。2000年1月に再選を果たし、その後、2002年1月の国民投票による憲法改正で任期を7年間に延長(任期は2007年1月まで)した。自らの提案で、である。

同大統領は「漸進主義」(市場経済への段階的移行)のもと、政治的安定を重視する路線を採っていたが、2004年12月に二院制移行選挙を実施。議会では伝統的に「人民民主党」と改称した旧共産党が大勢を占め、大統領を支持していたが、二院政移行以後は、新大統領の新党「自由民主党」が第一党となった。一種のクーデターで自己の威信の確立と権力保持のための延命を図ったのだろう。

イスラーム急進派の活動は禁止されており、クルグズスタン(現在はキルギスをこおように呼称することが国際的な決まりごとになっている)、タジキスタンとの国境付近におけるイスラーム武装勢力の動きを警戒している。

1989年のフェルガナ事件(ウズベク人とメスフ人の衝突)、1990年のオシュ事件(ウズベク人とキルギス人との衝突)等の民族間対立の他、1999年2月、2004年4月と7月にはタシュケント市などで爆発事件が起こった。

2005年5月、フェルガナ盆地アンディジャン市で武装勢力による刑務所等への襲撃や住民による反政府デモが起き、治安部隊が鎮圧の際に一般市民に発砲、数百名の死者が生じたとされている。

 

 ウズベキスタンの略史を記しておく。

紀元前4世紀頃

紀元前250年頃

1〜3世紀頃

6世紀中葉

7世紀頃

8世紀以降

9世紀後半〜10世紀

13世紀

14世紀後半〜

15世紀

15世紀〜16世紀

18世紀〜19世紀

1860〜70年代

1867年

 

1918年

 

1920年

 

1924年

 

1989年6月

1990年3月

1990年8月31日

1992年12月

1995年3月

2000年1月

アレクサンダー大王による侵攻

グレコ・バクトリア王国成立

クシャーン朝による支配を受ける

トルコ系遊牧民族・突厥の侵入、次第に住民のトルコ化が始まる   

この頃、ソグド人の活動が最盛期を迎える

アラブ勢力の侵入、イスラム教の受容

サーマーン朝成立(文芸・学問の発展)

モンゴル帝国の支配を受ける

ティムール帝国成立。帝国の首都をサマルカンドに定める。

 

遊牧ウズベク集団の侵入、シャイバーン朝の成立

ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンドハン国の支配

ロシア帝国による中央アジア征服

ロシア帝国、タシュケントにトルキスタン総督府を設置し、植民

地統治を開始

ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国成立

ブハラ人民ソヴィエト共和国、ホラズム人民ソヴィエト共和国が成立

中央アジアの民族・共和国境界画定によりウズベク・ソヴィエト

社会主義共和国成立

フェルガナ事件(ウズベク人とメスフ人の民族間衝突)

カリモフ大統領就任

共和国独立宣言、「ウズベキスタン共和国」に国名変更

カリモフ大統領再選

国民投票によってカリモフ大統領の任期を7年に延長

カリモフ大統領再選

 

 

西トルキスタンの社会主義化とその後の民主化の動き

帝政ロシアは19世紀末には三ハン国の征服を終わり、パミール方面で清朝と対立したが、1895年、清朝の譲歩によってほぼ現在のような国境が定まり、1898年、ロシア領トルキスタン省が成立した。清朝では新疆省が成立。

 帝政ロシアの西トルキスタン支配は、他の帝国主義列強の植民地経営と同じく、領土拡大の野心のほか、この地方を安い綿花などの原料の供給地とし、ロシア本国産の綿花、雑貨の独占的な輸出市場にしようとするものであった。反面、地方行政、生産組織などを変更せず、特権階級は農民からの搾取にはしり、管理はヨーロッパ・ロシアの2〜2・5倍の税を取り立て、教育は行わず、文盲を増やす政策を採用した。

 最大の問題は、征服後、軍人や官吏、商人、農民、コサックなど多くのロシア人が侵入してきて、ウズベク人の土地を奪うなど、侵略者として横暴を極めたことである。彼らはこの地方の農民を困窮させ手工業者を没落させた。そのため、しばしばウズベク人の反乱が起こったが、そのたびにロシア軍によって残酷に弾圧された。

 1860年頃から石炭や石油の発掘が始まり、1888年にはトランス・カスピ鉄道がサマルカンドまで延長された。その結果、徐々に近代農業が生まれ、新しい労働階級が現われたが、その大部分はこの地方に流れ込んできたロシア人であった。

 1917年、ロシア革命が起こると、ウズベク族は反革命独立運動を起こした。しかしソヴィエト政権がこれを鎮圧すると、民族主義によるウズベク族の自治が認められた。

 1920年にはロシアの保護国であったブハラ、ヒヴァ両ハン国が廃止された。そしてこれに代わってホラズム、ブハラの民族自治共和国が成立した。

さらに1924年、トルクメニスタン、ブハラ、ホラズムが共同してウズベク自治共和国が生まれ、ほかにトルクメン、タジクなどの自治共和国が認められ、同1929年、いずれも共和国となった。

 これらはいずれもソ連の崩壊後、それぞれウズベキスタン共和国、クルグズスタン(キルギス)共和国、タジキスタン共和国そしてカザフ共和国なった。これらの国々はそれぞれ独立したが、社会・経済体制から来る混乱が起き、ゲリラが活動し、いまだに混乱は収まっていないところがある。

 

イスラーム原理主義との対応

いわゆるイスラーム原理主義の問題では、カリモフの政治姿勢をさらに強硬なものにした。彼のこの問題への態度は、大規模なテロやゲリラ事件が起きる前から激烈であった。1998年5月には国会演説で「原理主義者」に触れ、「連中の頭を撃ってやらなければならない。もしあなた方が決心できないなら、必要とあらば私自身が撃ってみせよう」と述べた。99年にタシュケントで爆弾テロ(イスラーム過激派の犯行といわれるが、98年の更迭人事に恨みを持った政府関係者の手引きがあったとの説もある)が起きると、イスラーム運動家に限らず広く反対派へのいやがらせや拷問が行なわれた。

「原理主義」に対抗しながら、カリモフはイデオロギーをいっそう重視するようになった。さまざまな危険思想がイデオロギー的空白を埋めるのを防ぐために、ウズベキスタン独自のイデオロギーを持とうというのである。これは「民族独立理念」としてまとめられ、学校教育にも導入されている。ここでの「民族」と「国民」の区別はあいまいであり、マハッラなどのウズベク民族の伝統に言及しながらも、民族に関係なく全国民が祖国を愛し、祖国のために働くべきであることが強調されている。

カリモフは基本的には、個人的な利益や虚栄に走ることが比較的少ない合理主義的な指導者といえる。しかし反対派やイスラーム運動家、さらには部下に対してはあまりにも過酷な態度をとることで、必要以上の反発と犠牲を生んできた。また周辺国に対して大国主義をむき出しにするだけでなく、2000年10月にタリバーンを承認する可能性を言明するなど、しばしば外交方針を変え、国際社会を困惑させてきた。2001年の米国同時多発テロ以降、ウズベキスタンは「対テロ戦争」の拠点のひとつとなり、国際的な責任が大きくなっている。それだけに、カリモフ政権の強硬姿勢は、功罪ともに冷静に評価されるべきであろう。

 

2001年は、ウズベキスタンにとって大きく飛躍するきっかけとなる年であった。

2001年、母と子の年」と名づけられたこの年(ウズベキスタンでは1997年以降、年ごとに名称を定め、その年のテーマにしている。一般的に中央アジア各国ではそのようなやり方が多い)、女性に対しての保障が大きく変わった。

例を挙げると、妊娠中の女性は病院にかかる費用が無料になり、給料がアップし、日ごろ子育てで忙しい人をコンサートに招待するなど女性の待遇を見直すことを決めたのである。まだまだ男女平等、男尊女卑の解消という段階にまではいかないが、徐々に改善されつつあり、女性の社会進出も増えつつある。とはいえ新疆の少数諸民族と同様に、女性の解放度が一気に進むというわけにはいかないのが現状である。

 

青年の国

今、ウズベキスタンの人口は、40%が15歳未満の少年となっている。ウズベキスタンは、青年の国なのである。因みに、モンゴルにおいても人口の70%が25歳以下の青年となっている。ソ連共産党の流れを汲む現在の中央アジア各国の独裁的な指導者たちも、中央アジア各国の将来が、青年によって支えられようとしていることを知っている。カリモフ大統領は、若者に向けてこんなメッセージを発した。「私は、あなたたち若者にこの国を任せます。これからの未来はあなたたち次第なのです」と。自らの退任後の身の保障を取りつけようとしているのであろうが、それなりに慧眼ではある。そのためにも、今、ウズベキスタンでも若者への教育に力を注ぎ、未来へ向かってまい進している。

 

 タシュケント=石の街

 

2007年3月9日 ウズベキスタン航空で成田から関西空港経由でタシュケントに向かう。新疆では何度かウズベク人に出会っていたが、飛行機の中で見る客室乗務員のウズベク人女性は容貌本位で採用されているためかヨーロッパの風貌が色濃い。

時差4時間だが約8時間の空の旅。日本時間で午後7時半、ウズベク時間で同11時半。恐ろしく騒がしく、まずい中華料理屋で夜食を済ませてウズベキスタン・パレスホテルに入る。翌朝、目覚めて窓から外を見るとシルエットが浮かび上がっていたのはアリシェール・ナヴァイー名称オペラ劇場。ここは日本軍がアジア太平洋戦争敗北ののち中国東北部でソ連の捕虜となった旧日本兵が国際条約に違反する強制移住をさせられて、はるばる数千キロ離れたここタシュケントで建設工事に従事させられた劇場である。1960年代の大地震の際にもこの劇場だけはしっかりと生き残り、ウズベク人から日本人の確かな仕事ぶりが再評価されたとの逸話も残っている。公園の中央にある噴水も旧日本兵の手になる。

タシュケントはウズベキスタン共和国の首都。国の人口は2500万人だが、タシュケントの人口はその1割の約250万人。中央アジア最大の工業都市である。シル川から北に流入するチルチク川の渓谷に築かれた古代オアシス国家が、南のソグドと北方草原の遊牧民・天山北路を結ぶシルクロードの要衝として繁栄した。その古代都市時代の名は「チャチ」と呼ばれたが「シャーシュ」などとも記された古代都市であった。

タシュケントは、トルコ語のタシ(石)と、イラン語のカンド(町)に由来するとも、イラン語タズカンド(アラブ人の町)によるともいわれている。中国には5世紀ころから知られているが、隋代には、石国はシル川のそばの四方10里あまり(約4・5キロ)の都城と記され、王が父母の焼骨の回りをめぐり散華する仏教的な行事を行なっており、西突厥に支配されていた。玄奘三蔵はここを訪れた7世紀はじめ、当時の数十の城の長(おさ)はみな西突厥に従属していたといっている。

 西突厥滅亡後も同じモンゴル高原にいた遊牧騎馬民族の突騎施(とっきし)の支配を受けていたが、8世紀にアラブ軍が侵攻してくると、シャーシュ王はトルコ軍と提携して対抗したが破られ、トルコ人に対するイスラームの砦とされた。751年、唐の西域都護・高仙芝に石国王が捕らえられると、石国はソグド人とアラブ人に助けを求め、アッバース朝のズィヤード軍と高仙芝の唐軍がタラスで戦い、唐軍が敗北したことは歴史上名高いことである。歴史上名高いということは、この敗北で捕虜となった唐軍のなかの紙つくり職人がいて、初めて西域以西に紙がもたらされたことであった。アジアに比べて当時まだ文明の遅れていた西域とヨーロッパへのこの紙の伝来は、人類文明の発達の上で画期をなす出来事であった。

サーマーン朝時代、シャーシュの首都はビンカト(現タシケント)であった。現タシケントの東北部にあるアク・テペは古代の都城跡で、四隅に塔のある城壁に囲まれ、回廊がとりまき、三階建ての居室が連なっている。モンゴル後はバナーケトに中心が移ったが、ティムール以後、特に16世紀にはイスラーム寺院や廟、学校が作られて学芸が興隆し、カファルシャシ廟、タケルタシ・マドラサなど、今もその遺影が見られる。19世紀後半、ロシアの支配下で、タシケントはシル川地域とトルキスタンの中心としてよみがえった。

 一代の英傑・ティムール

 

中央アジアやウズベキスタンを考える際、どうしてもティムールを抜きにして考えることはできない。

チンギス・ハーンの次男チャガタイが中央アジアのイリ川流域に創建したチャガタイ・ウルス(ウルスは所領・国の意味)は、その後、マー・ワラー・アンナフル(中央アジアのアム川とイリ川との間の中間地帯の桃源郷の意味)に拡大したが、14世紀半ばには東西ウルスに分立した。このうち西方ウルスでは、チャガタイ・アミールと呼ばれる有力部族の統率者たちが、チャガタイの子孫に代わって実権を握った。稀代の英雄で建築王でもあったティムール(1336〜1405年)は、そのようなチャガタイ・アミールのひとりであった。彼はサマルカンド南方のキシュ(シャフリブズ)近郊で生まれ、チンギス・ハーン時代からの伝統を誇るバルラス部族の出身であったが、彼が登場したとき一族は零落していた。

しかしティムールは、旧来の部族原理にとらわれない新しい家臣団を組織しながら、有力なチャガタイ・アミールたちを巧みに味方につけてアミール間の抗争を制し、1370年にサマルカンドに政権を打ち立てた。70年代を通じて彼は中央アジアのホラズム、モグーリスタンへの遠征を繰り返した。他方、チャガタイ・アミールたちの反乱が相次いだため、アミール・コックを処刑したり政権内の役職に任命したりし、またアミール・コック以下の部族の解体を強行して、彼らの勢力削減につとめた。またティムールはチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫をハンに推戴して傀儡化するとともに、チャガタイの子孫ガザン・ハンの娘をめとってキュレゲン(女婿)を名乗り、チンギス家の権威を借りて支配の正当性を主張した。

一方、ティムールはイスラームの権威をも利用しようとした。政権樹立にあたり、かれはサイィード・バラカをはじめとするサイィード(預言者ムハンマドの子孫)たちの同意を取りつけ、イスラームの権威者からのいわば「お墨付き」を獲得した。サイィード・バラカはその後もティムールに大きな精神的影響を及ぼし、彼の死後、ティムールは一族が眠るサマルカンドのグーリ・アミール廟にその遺骸を改葬したほどであった。

ティムールは1380年から1405年の死の直前まで、旧イル・ハン朝の領土を征服するため西アジア遠征を繰り返す一方、二度にわたりジョチ・ウルスに遠征して草原地帯を支配下におこうとした。その結果、ティムール帝国の領土は中央アジアから西アジアにかけて飛躍的に拡大した。ティムールは帝国各地から多数の職人、建築家、学者などを都のサマルカンドに集め、五年戦役(1392〜96年)の直後にはサマルカンドで大規模な建設事業に着手した.

彼は子孫たちに帝国各地を所領として与えたが、巧妙に配置換えを行い、帝国の分裂を招かないようにつとめた。最後に彼は、旧モンゴル帝国の東方領を征服するべくモンゴル高原・中国北部方面への遠征に出発したが、遠征途上、シル川流域のオトラルで病没した。

ティムール帝国は後継者争いと内部分裂によって、成立後137年を持って滅亡した。

ティムール帝国の崩壊後、マー・ワラー・アンナフルにはシャイバーン朝の「ブハラ・ハン国」が成立し、16世紀末までアブール・ハイルの子孫が統治した。その都は当初、ティムール帝国を継承してサマルカンドにおかれたが、1557年にアブドゥッラー二世(在位1583〜98年)がブハラを奪うと、国政の中心は完全にブハラに移った。16世紀末にシャイバーン朝に代わって成立したチンギス・ハーンの子孫(ジョチの十三男トカ・チミュルの子孫)によるジャーン朝(1599〜1756年)、さらに18世紀後半に成立したチンギス・ハーンの子孫ではないマンギト朝(1756〜1920年)の治下でも、ブハラの都としての地位は変わらなかった。

他方、アム川下流のホラズム地方には、シバンの子孫ではあるがアブール・ハイルの子孫ではないイルバルスが、いわゆる「ヒヴァ・ハン国」(1512〜1920)を樹立した。この国家ははじめウルゲンチに都を置いたが、17世紀後半にヒヴァに遷都した。18世紀後半からはチンギス・ハーンの子孫ではないコンギラト朝がシバンの子孫に代わって権力を握ったが、1920年、マンギト朝とともにソヴィエト政権に併合され、社会主義体制のもとに組み込まれた。

 

青の都・サマルカンド

 

3月10日早朝、タシュケントのバカでかい駅から汽車で約4時間の旅。かつてのティムール時代の首都サマルカンドに向かう。

かつて、歴史の絵巻物であった中央アジアの華ともいわれるサマルカンド。紀元前4世紀、アレクサンドル大王の侵入以来、8世紀のアラブ侵入と圧制を経験し、13世紀、チンギス・ハーンが占領して完全なる廃墟と化したこの地は、まるで不死鳥のようにそのたびごとに蘇ってきた。ティムール時代の首都であった。

こんにち、サマルカンドを歩くと眼に飛び込んでくる美しい建築物。そのすべてがティムールによって作り上げられたものだといってよいだろう。かつて、ティムール時代のサマルカンドは、その建築物に使われた「蒼」によって“空の青さが見えない”といわれるほどであった。

一代の英傑であるとともに建築王でもあったティムールが造り上げたサマルカンドは、“青のドームの都”とも呼ばれ、イスラームの世界でも“東方の真珠”と称えられてきた。8世紀のアラブによる侵攻と1220年、モンゴルのチンギス・ハーンによる徹底的な破壊の跡によみがえったサマルカンドは、600年を過ぎたいまでも私たちを惹きつけてやまない。

古都サマルカンドは、チンギス・ハーンの遠征軍によって徹底的に破壊され、人口も激減したが、ティムール朝時代に見事に復興し、かつてない壮麗な都市に生まれかわった。サマルカンドは土塁と深い濠で囲まれ、郊外に広がる果樹園の中にも、ティムールの宮殿や壮麗な建物があった。食品も工芸品も豊富に生産され、市場は昼夜にぎわっていた。人口はティムール時代に15万人を越えた。アラブ人、ギリシア人、アルメニア人など諸国の商人も多く往来し、中国の絹やインドの香辛料、ロシアの皮革などが取引されていた。

ティムールは、商店街をつくるために、サマルカンドを貫通する道路をわずか20日間で建設させ、ティムールの妻と母のために、モスク(ビビー・ハヌィム・モスク)の建造を自ら監督したという。美しい庭園も数多く造った。ティムール在世中に、彼の孫のムハンマド・スルタンが建設した神学校(マドラサ)は、後にティムール一族の霊廟(グル・イ・エミール)となった。ティムールの孫のウルグ・べク(在位1447〜49年)も公共浴場や庭園など多くの建造を行い、なかでも神学校はこんにちにまでその美観をとどめ、また天文台は特筆すべきもので、ウルグ・ベク自身の手になる天文観測記録は、デンマークのティコ・ブラーエのそれと並んで、望遠鏡発明以前におけるもっとも精密なものと賞賛されており、人類文明の発展に偉大な貢献をしたといえる。

ティムール帝国が、サマルカンド政権とへラート政権に分裂したのちは、へラートでチャガタイ・トルコ文学のミール・アリー・シール、細密画のビフザードなどが活躍したのに比べ、サマルカンドは精彩を欠き、1503年、ウズベク人に占領され、その繁栄もひとつの時代を終わっていくことになる。

サマルカンドは紀元前4世紀にアレクサンドロスによって破壊されたソグド人の古代都市であるマラカンダと同じ街である。世界で最も古い都のひとつといわれているサマルカンドは、4世紀以降に復興を果たしたが、7〜8世紀になると中国の唐王朝にも支配された。ここはゾロアスター教が隆盛を誇っていた時期もあったが、8世紀にはアラブの侵攻を許し、12世紀にはモンゴルのチンギス・ハーンによって徹底的に破壊された。だが、サマルカンドは不死鳥のようによみがえり、現在では街全体が世界遺産に登録されている。

 

ビビ・ハヌム・モスク=ビビ・ハヌム・モスクは、ティムールの妻ビビハヌムにちなんで名付けられた。彼女の父がハンの名門だったためにティムールは「ハンの娘の夫」という権威ある地位についたのであり、彼の命令によってサマルカンドの大聖堂として建造された中央アジア最大のモスクである。この巨大なモスクの建築のためにティムールは征服した各地から建築家や芸術家などを投入し、自身が西への遠征中に完成させた。帰国後、このモスクを一目見たティムールは、入り口の高さが低いことに失望して、さらに高い入り口に建て替えさせたという。

 

ビビ・ハヌム・メドレセ廟=神学校であるが、もともとビビ・ハヌム・モスクの門と競うほどの大きさがあったので、ティムールの命令によって小さく改装されたという。同じ場所にコの字型に三つの大きな建造物が建っている。

 

グル・アミール廟=1404年建造の廟でソ連支配の時代には、ここを倉庫にしてクルアーンを読めないようにしたという。

 

 ティラコーリ神学校金に覆われた建築物。

 

 グル・エミール廟=ティムールは中国への遠征の途中に急死したため、ここグル・エミールに埋葬された。グル・エミール廟には、ほかにも3人のティムールの子孫の墓がある。ティムール一族の墓は美しく壮麗なドームの中にあり、大理石の墓石で葬られていた。

 サマルカンドは14世紀に再建され、ティムールの新しい帝国のシンボルとした。ティムールはサマルカンドを首都とし、大規模な建設事業を開始した。巨大な入り口、高く聳(そび)える青いドーム、洗練されたマジョリカ風の装飾などの新しい建築構造は、中央アジアだけでなく中央ユーラシアの首都として威容を誇っていた。

 

 アクサライ=アクサライは「白い家」ホワイトハウスという意味になる。

 

 レギスタン広場=この広場は14世紀になって街の中心地になった。レギスタンは「砂地」の意味になる。以前はここに運河が流れていたのである。広場はティムール時代に商売人と職人の中心地となりウルグ・ベク時代は宗教的な中心地となった。その時代には巨大なドームのあるメドレセと修道院が建設されていた。

 

ウルグ・ベク・メドレセ=1471年から20年をかけてつくられた。その巨大な入り口には約15メートルのアーチがある。ここには天文台が建設された。このメドレセには100人の学生のために50の僧房があった。

 

 シェルドル・メドレセ=獅子と鹿の模様を描いた門があるが、イスラームは偶像否定のはず。これはまちがいなくゾロアスター教の影響であろう。 

 

3月11日  ティムール生誕の地シャフリ・サブズの街

 

サマルカンドから車で約3時間。ティムール生誕の地シャフリ・サブズへ。ザラフシャン山脈を越えて南下すると、約73キロでシャフリ・サブズに着く。ここは1336年にティムールが生まれた街である。

 

アク・サライ宮殿跡

 ティムール帝国を樹立したティムールは、25年の歳月をかけて、白亜の大宮殿アク・サライを建設した。当時、この地を訪れたスペインの使者クビラホによると、宮殿は壮麗無比、ただ息をのむしかなかったというが、16世紀にブハラ汗国のアブドラ・ハン二世によって破壊され、現在残っているのはアーチが崩れた主門のみである。

 しかし中央アジア最大のこの門は残存する部分だけでも38メートル、アーチがあった頃は高さ65メートルと推定されている。門柱の間隔は24メートル、門柱の前面と内側には青のタイルがところどころ残り、この壮麗な門を備えた宮殿とはいったいどんな大規模なものであろうかとかつての姿を想像してみると、ティムールの強大な権力と華麗な建造物への執念を感じさせられる。

 ティムール執政の後半、ブハラ汗国のアブドラ・ハン二世の侵攻によって敗色濃厚になった頃、このあたりは金持ちだけが住む場所になっていたが、ある金持ちが「ティムールは神なり!」と叫んだとき、ティムールは彼の首を刎ねたという。神格化されるより敵と戦うことの大切さを強調したかったのだろう。

わたしもこの塔の内部にある階段で上がってみた。出発前のあれこれの雑事を処理することに追われて、体づくりも怠っていたので、翌日から筋肉痛に悩まされたが、広い公園の中にあるこのアク・サライは、破壊される以前にはアーチがかかっており、そこには女性専用のプールがあったという。

ここシャフリ・サブズのイスラームはスンニ派が80%、20%がブハラのシーア派という。

ドルッサオ建築群やドルティロヴァット建築群などにはイスラーム教にはありえない獅子や鹿の絵が描かれている。これは明らかにゾロアスター教の影響であろう。イスラームが入り込む前は、ペルシアやソグディアナはゾロアスター教(拝火教)の世界だったからである。

 

 ワインのテイスティング 

 最近は安くなったのと嗜好が変わってきたので以前ほど外国で酒を買うことに執着しなくなったが、ワイン工場を訪れてテイスティングを経験した。甘いのから始まってコニャックまで10のワイングラスに注がれたワインをテイスティングするのである。今は日本でもここよりおいしいワインはたくさんあるので、強いて買うほどのこともないと思っただけである。が、お土産用にコニャックを2本買った。

ここでの最大の収穫は、古代のワインのボトルの欠片(かけら)が展示されており、当時の絵も展示してあったことだが、これがソグド文字であり、描かれていたものもいわゆるソグド人だったのである。研究心が昂じて、途中で無理とは分かっていたが、添乗員とガイドに「博物館に行きたい」といったが、やはり無理であった。よしよし、今回は私のウズベキスタン・デヴューだから、あまりわがままを言わないでおこうと、珍しくおとなしく引き下がった。シャフリサーブスから車で約5時間。ブハラへ。

 

ブハラ(BUKHARA)

 

ブハラは2500年前から存在している世界有数の都市のひとつである。

ブハラとサマルカンドにはモスクやマドラサ(イスラームの高等・中等教育機関)、墓廟などイスラーム期の建造物を中心に数多くの史跡名所があり、そうした今も眼に見える壮麗な歴史的遺産と、さらにシルクロードにまつわる茫漠たるロマンがこれらの都市に人びとを惹きつけるからだろう。まずは二つの都市の共通点を見てみよう。

パミール山系に源を発するザラフシャン川流域はオアシス都市が集中し、中央アジアでも有数の肥沃な地帯である。上空から見ると数多くのオアシスが存在するさまはあたかも白い砂の上の緑のベルトのようだと表現される。その緑のベルトにあって、ブハラとサマルカンドはひときわ豊かなオアシスの中心である。

ザラフシャン川の流れに支えられて、ブハラもサマルカンドも紀元前からオアシス城郭都市として発展した。9〜10世紀にいたるまでオアシスの農耕を支え、手工業を発展させ、そしてユーラシア大陸をまたにかけた国際交易の担い手であったソグド人が暮らした領域は、ソグディアナと呼ばれた。サマルカンドはその中核であり、ブハラはその西の端である。二つの都市はインド、ペルシア、中国、そして北方の草原地帯の遊牧民を結ぶ国際交易の中継地点として、つまり「シルクロードの十字路」の機能を果たしたのである。

ブハラとサマルカンドはまた、トルコ系のウズベク語を話すウズベク人が主要民族とされるウズベキスタンにありながら、ペルシア系言語であるタジク語がこんにちまで人びとの生活の中で使われていることでも共通している。

実はこの問題には、中央アジアにおける民族別国境画定の正当性を問い直し、ひいては両都市の帰属をウズベキスタンからタジキスタンに移すべきだという主張につながる側面もあり、今なおウズベキスタンとタジキスタンの間にさまざまな波紋を投げかけている。中央アジアの定住民地域で歴史的に繰り返されてきたペルシア語とトルコ語のバイリンガリズムの伝統が、今も息づいているのだと、今日の段階ではとどめておきたい。

ブハラは「聖なるブハーラ(ブハラーイ・シャフリーフ)」というペルシア語の雅称をもつ。ブハラは歴史的に中央アジアのイスラーム学の中心であり、ムハンマドの言行録(ハディース)編纂で世界的に名高いアル・ブハーリー(810〜870年)らを輩出している。ブハラにはおびただしい数のモスクやマドラサが造られ、世界各地から人々が訪れたという。ソ連時代に入ってこれらの数は激減し現在に至っているが、ソ連時代〜現代を通じて機能し続けるミーリ・アラブ・マドラサが、そのよすがを伝えている。

古代ブハラは、サマルカンド同様、ソグディアナの一中心都市で、現在のウズベク共和国のザラフシャン川下流の諸オアシス都市を含む大国家であった。その首都であるブハラは、現在に至るまで人びとの生活の場としての都市の位置を変えていないので、古い遺跡は残らないが、広大な城壁の一部、古代から有名な要塞、丸屋根バザールのタキ・ザルガラン、仏教寺院遺跡の上にあるゾロアスター寺院、その上にイスラーム寺院が建てられたマゴキ・アタリモスクなどが残っている。

6〜7世紀、ブハラ市は自衛軍を持つ強固な政治・商業都市で、シルクロード沿線の都市として繁栄していた。709年、クタイバの率いるアラブ軍に征服されてからイスラーム化し、9世紀末期にはサーマーン朝の首都となり、商業とペルシア文化復興の中心として繁栄した。

13世紀にはモンゴルの侵攻を受け徹底的に破壊され蹂躙されたが、14〜15世紀にはイスラーム神秘主義ナクシュバンディー派の聖都となった。さらに16世紀には、ティムール朝を滅ぼしたウズベク族のシャイバニー朝(以後ブハラ・ハン国)の都として政治・文化の中心であった。今も残る建築群はこの時期のものである。

ブハラはブハラ・ヒヴァ建都2500周年(1997年)の祝典を契機として、主な歴史的建造物が集中的に修復された。ソ連時代の長い間修復中で、一部が失われたままだったものがほぼ完全な形になったのだが、なぜか「古色」が失われてしまったと嘆く人も多い。これは新疆シルクロードも同様である。観光本位に建物を塗りたくったようなものが多いから・・・。

ブハラのアルク(城塞)の城壁、サマルカンドのグーリ・アミールやビビ・ハヌムなど、あたかも真新しい建築物のようにピカピカなのである。ここには史跡保存に対する意識と方法の違いが現れているようである。

 

博物館都市・ヒヴァ(KHIVA)

 

ブハラからキジルクム砂漠を抜けて8時間かけヒヴァに向かう。この日は朝早くホテルを出てからほとんどがバスの生活になるので、快適なバスでの生活をする身支度を整えて覚悟して乗車する。といってもゆるいゴムのズボンとスリッパを用意するくらいだが・・・

途中、アムダリヤ(ダリヤは川の意味)近くのチャイハナでウズベキスタン料理のプロフとラグマン。これは新疆ウイグルのポロとラグ麺と同じである。ただ、ラグ麺は麺の上に具が載っており、混ぜ合わせのツケ麺のようになっているが、ここのラグマンは多少、違っているだけである。砂漠の夕焼けはえもいわれぬ美しさであり、デジタルカメラのシャッターをたくさんきった。のちほど、撮影した映像の削除をしていて、結局、すべてを削除するという失敗をおかしてしまった。

アムダリヤでは、「やっと来たぞっ!アムダリヤ!」と何度も胸の中で叫んでいた。まるでミーハーだが、実感であった。この胸中を理解できる人が果たして何人いるやら・・・・このアムダリヤは今ではカスピ海に注いでいるが、昔はアラル海に注いでいたという。当時、ホレズム王国の都はメルヴにあったが、流れがヒヴァに変わってメルヴの街が寂れたという。このメルヴにはインドの仏典がメソポタミアの壺に入っていたともいわれている。まったく歴史を感じさせてくれるものである。

バスの旅のさなか、突然、ガイドのディリーが「皆さん、これから一時的にトルクメニスタンの領域に入ります。バスの窓から絶対にカメラを外に向けないで下さい」と話し始めた。トルクメニスタンは先ごろ大統領が急死して、次の大統領が「選挙」で決まったばかりだが、この国もソ連時代の共産党第一書記が民主化への移行に合わせてそのまま大統領に居座り、しかも憲法をかえて自らを終身大統領にするというとんでもない男のいた国なのである。鉄道に沿った道路の関係で、あるいはアムダリヤの湾曲の関係でか、文字通り、バスは一時的にトルクメニスタン領土内を走るのである。カメラをそっと取り出して、ファインダーに眼をあてないで一枚だけ写した。いや本当は3枚だけ・・・。

ヒヴァは、アム川下流域に古代から栄えたホラズム帝国の首都である。全長6・1kmの外城と全長2・2kmの内城の二重の城壁で街を囲み、都市を守ったという。

内城はイチャン・カラという。13世紀、ペルシアの攻撃によって灰燼に帰した跡である。内部にはケルテ・ミナルの塔がある。まるで容量の大きなコップを逆さにして二つに切ったような大きなものである。

ここ20のモスク、20のメドレセ、6のミナレットのあるヒヴァは1967年には内城の旧市街全体が歴史博物館に指定され、1993年には街全体が世界遺産に登録された。

「中央アジアの真珠」と呼ばれるヒヴァは6000年前から人が住んでおり、「中央アジアの三つの真珠」のひとつといわれてきた。

青の街サマルカンドやブハラとはまったく異なったヒヴァの街は私の目を釘付けにしてしまった。城壁の上にある王の居室の真下は、犯罪者の刑場となっていた。言われてみれば納得できるが、強盗や殺人の犯罪者よりも税を納めない者のほうが重罪の死刑になったというのである。税によって帝国が成り立っているからである。刑は「生き埋め」「首切り」や「城壁の上から落とす」というものだったそうである。不倫をした女は、大きな三匹の猫と一緒に袋の中に入れられ、まわりから棒で叩くという。痛がる三匹の猫は袋のなかで暴れ狂い、爪で女を傷つけて、7〜8時間もかかって絶命するのだという。絶対的な男尊女卑のもとでは、不倫は絶対に許されない重罪だったのであろう。

女性たちは寝るときもいつでも宝石類を身につけている。なぜなら、夫が妻に対して「タラク」という言葉を三回続けて発すると、その妻はその場で離婚されたことになり、一刻の猶予も与えられずに家から出なければならないという。だから、いつ離婚を申し渡されても良いように、寝るときも唯ひとつの財産であるすべての宝石類を身につけていたのだという。

若いディリー君も再三、口にしていたことだが、現在でも婚前交渉などがあれば、一生、結婚はできないという。私たちのまわりでは、その反対のことがあまりにも多いので、それほど倫理観が厳しいことは、いいことなのであろう。でも本当かなァ、という気もする。

アラブ人は8世紀にこの領域を征服し、ヒヴァもイスラームの世界の一部になった。9〜13世紀にホラズムにはホラズム王国がつくられ、このホラズム王国はティムール帝国の一部となって、16世紀初期にはティムール王国から分離してチンギス系のハンの管轄に置かれた。ウズベク人イルバルスによってブハラ・ハン国から独立したヒヴァ・ハン国が1592年、それまでの首都クニャ・ウルゲンチに代わって建てた首都で、中央アジアの諸都市ブハラやメルヴなどとアラル海の南から西北行し、カスピ海の北に出てロシアとを結ぶ国際的な交通路の中心であった。18世紀に一時、イラン軍によって荒廃したが、その後立ち直って1920年まで繁栄した。因みにメルヴは世界で最も西にある仏教遺跡のある場所だといわれている。

ヒヴァ(ヒワとも表記する)は内城イチャン・カラと外城ディシャン・カラで構成されており、外城には商人や手工業者が職業別の専区に住んでいた。内城に沿った丘にはハンの王宮クーニャ・アルク、内城の内部にはハンの私邸タシュ・ハウリ宮殿や多くのイスラムモスク・学校・墓廟、それに歴史家であったアブル・ガージー・ハンの墓、市場・隊商宿(キャラバン・サライ)などがあり、内城そのものが史跡で、ここに入ればいきなり中世にタイムスリップする。

この街にはアラル海から年間1800トンもの塩分が飛んでくるという。だから食物には塩は使わないという。

イスラム・ホッジャ・ミナレット

私たちの宿泊するアジアンホテルは、まさに城壁に面と向かって建てられているので、人通りの少ない道路を隔てた向こう側が、もう城内なのである。内部にはこの国で一番美しい45メートルのミナレットが聳え立っている。まるで火力発電所の煙突のようである。

 

アミンハーン・メドレセ

1850年建造のここは中央アジア最大の神学校であった。だが、現在はホテルとして使われているという。なんということだろう。

 

ジュマ・モスク

10世紀に建造されたヒヴァで最古の建築物だという。

夕刻、国内線で再びタシュケントへ向かう。

 

 再び、タシュケントの街へ

 

 空路、タシュケントの街へ帰りついた私たちは翌日から市内各地をへめぐった。

 街の印象をひと言でいえば、整然としたゴミの少ない街である。中国や新疆の街と比べると雲泥の差である。

 

アリシェール・ナヴァイー名称劇場

冒頭にご紹介した。

日本人墓地

しかし、そのあと墓地に案内されたが、強制的に連行されてきた日本人の墓地であった。数十名の墓があるが、墓地に残された記録によると中国東北部や朝鮮から連行されてきた日本人捕虜は数百名にのぼり、12ある州ごとに分かる範囲での死者の名前が記されている。はるかふるさとを思い浮かべ、父母・兄弟や友達たちを思い浮かべながら、辺境の地で散った彼らの胸中を思うだけで胸が詰まる思いであった。心からの黙祷をささげた。

意外だったのは、ここにドイツ人の同じような墓地もあったことだった。

 

ティムール広場

ここは以前、大きなバザールだったという。突然、撤去命令が出て美しい広場になったのだそうだ。近くのエリート度NO3のタシュケント法科大学には中央アジア5カ国から学生が集まるという。新しいデートスポットだそうだ。歴史のある総合女子大学もある。

 

銅像がある。ツアーリ専制時代、ここに建てられた銅像は、近代になってからこの地の最初の支配者であったロシアの総督でドイツ人でもあったカウフマン、そしてスターリン、のちにマルクスとレーニンがあり、今ではいうまでもなくティムールの銅像が建っている。

スターリン時代には約200万人が犠牲になったという。近くのアンホール川に刑場があり、汽車が轟音を立てて通過するときに銃殺し、血は川に流したと説明された。

 

独立広場

ここにあった図書館が国会議事堂になった。モニュメントの上には幸せを運んでくるというコウノトリがいる。美しい広場である。

 

クカルダシュ・メドレセ(神学校)

5000人が受験して80人の合格という難関を経てこの神学校に入学できるという。60人に1人である。今、150〜180人の学生がいる。

 

ジュマ・モスク

ここのモスクはソ連時代、イスラームへの信仰を妨げるために酒の倉庫にされていたという。2007年は「イスラーム文化の都」としてタシュケントが選ばれた。



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