日本シルクロード文化センター

第2回シルクロード講演会報告
2008年11月8日(土)新宿で開催した「シルクロード講演会in中村屋」は、40名の参加で成功裏に終了しました。

集いは、伊藤則子日本シルクロード文化センター副代表の司会、同副代表三浦二郎の開会のあいさつで始まりました。
ウイグル舞踏 プログラムの最初に、2人の美しいウイグル人女性留学生と巧みな踊りを見せる男性ウイグル人による、ウイグルの民族舞踊が披露されました。

続いて、共催団体の(株)ピコ の代表取締役戸井川裕美子さんの挨拶、同社社員のタシ・ヌルムハンマドさんによるシルクロードツアーの写真入紹介、野口日本シルクロード文化センター代表によるチベットツアーの紹介がありました。参加者は美しいシルクロードとチベットの写真に魅せられながら紹介を聞いていましたが、早速、「参加したい」という申し出がありました。

次に、この集いのためにはるばるカナダから出席された、グリ・アルズグリ先生の講演アルズグリさんの講演がありました。テーマは「世界から見たシルクロードのロマンとウイグルの現状」と題して、参加者も舌を巻くほどの巧みな日本語と完璧なレジュメを基にして話されました。 お話の内容(レジュメ)は別掲していますので、ご覧ください。

講演後、会場の参加者の皆さんとアルズグリ先生と日本シルクロード文化センター代表の野口信彦とによる質問と意見交換が「鼎談」方式で行われました。
アルズグリ先生の日本語能力を賞賛する発言に続き、様々な質問と意見が取り交わされました。なかでもアルズグリ先生が強調された「シルクロードを『線』ではなく、『面』としてみること」、「シルクロードを西から見るとどうなるか」などの、新しい視点にたいする同感の意見が出されました。

野口代表は、北京オリンピックを契機に国際的な話題になった、ウイグルやチベットの、いわゆる「分離独立運動」に関する意見を述べました。内容は下記の論文に基づいたものです。
「新疆における分離・独立運動の課題」      野口信彦
 自由と独立を求めるウイグル人にとって今、必要なことは、ガンジーやダライ・ラマのような非暴力に徹した運動であろう。国家の最強の暴力装置である100万の軍に真に対決できるのは、数人の「テロ」では決して解決しない。徹底した非暴力主義が必要であろう。これには大きな困難と長い忍耐、及び国内外の世論と支持を得る粘り強い活動である。
 さらに必要で重要なことは、中国国民(漢民族)の支持と世界世論の支持がなければ運動が前進しないことも明らかであろう。また現在、最も求められているものは、運動の中心となる組織政党の存在と運動の行く道を明確に指し示す綱領の存在も不可欠であろう。なぜならば、世界各国に存在しているウイグル組織が、必ずしもまとまっているとはいえないからである。
 一方、日本国内において留意すべき点がある。
 それは、隣人である中国との友好協力を望むのではなく、ウイグルやチベットの側に立つような姿勢を見せながら、中国の転覆を望み、日本国内の人権と平和と民主主義を願う勢力に露骨に反対する右翼暴力団の関与や民族主義勢力が「チベットやウイグルに人権を!」という主張をしていることである。残念ながら、現状では、当の在日ウイグル人やチベット人は、「これらの人たちは自分たちの運動を支持する人たちであるから歓迎する」として、共同の歩調をとりやすい。これでは「自縄自縛」に陥るばかりである。
 2008年4月、中国の胡錦濤主席と日本の幾人かの首相経験者らとの朝食会の際、安倍晋三元首相が「東大大学院生のウイグル人が新疆で不当に逮捕されている」ことについて、その釈放を求めた。この要求自体は当然のこととして理解されるが、彼の真意はそれほど単純なものではない。わたしがウイグル人にその「意味を理解してほしい」ということは、日本の政治状況と政党間の関係などについて、必ずしも熟知していないウイグル人に求めるのは酷かもしれない。しかし、中国政府に反対するウイグル人が、中国に反対する思想を持つ安倍晋三氏に「感動した」ということは、日本の民主主義と人権を守る運動とともにウイグルの人権を求める運動にも混乱をもたらすだけである。
 問題の本質は、彼ら(安倍晋三氏ら)は決して、真にウイグル人やチベット人の人権を守ることや独立を支持しているのではなく、国内外の中国に反対する運動に同調して日本国内の民主主義的な運動をも破壊し、混乱させようとすることが真の目的なのである。
 彼らは、かつてのような軍国主義日本が「大東亜共栄圏」を標榜して、中国・朝鮮や東南アジアにおいて2千万人に及ぶ殺戮による犠牲者を生んだ軍国主義思想を受け継いでいる勢力なのである。彼はかつての軍国主義の復活を望んでおり、日本民族の平和と民主主義を破壊し、基本的人権を損なって来た過去の歴史を踏襲する勢力の代表的な人物の1人なのである。
 日本や世界に在住するウイグルやチベットの方がたは、ご自分の進むべき道を誠実に進むことが大切であろう。しかし、わたしたち日本人としての基本的な立場は、日本において、人権と民主主義を守り発展させることそのものが、ひいてはアジアと世界の人びとの人権と民主主義を守り、「民族同化政策」によって抑圧され差別されている民族の解放の運動を促進する道であると確信している。それは客観的には各民族の自決を支持し、独立をめざす運動を激励し、世界各国の人びとの人権を守り、自治を拡大する運動を側面から支持することにつながると確信している。
 これが「心情的な理解者」である、わたし(野口)の態度であり、決して互いの内部問題に介入したり、内部干渉をしない「具体的な協力者でない」わたしの責任ある態度である。」


「世界から見たシルクロードのロマンとウイグルの現状」
グリ・アルズグリ

シルクロードとは
  • シルクロードは、東西南北を結ぶ交易ネットワークであり、諸文明圏を結ぶ最重要ルートであった。
  • さらに、シルクロードが平和とともに発展したという意味で世界の注目を浴びた。
  • そのシルクロードとは、19世紀のドイツ人地理学者リヒトホーフェンが中国旅行記を執筆した際に発案した言葉であり、ドイツ語でザイデンシュトラーセン=絹の道といった。後に、イギリスの探検家オーレル・スタインが英訳して「シルクロード」となり、それがいまでは世界中で、実に多種多様な意味と範囲で使用されるようになった。
  • シルクロードは、沙漠の道、草原の道、海の道だとして、線で表現することが多いが、それは決して「線」ではなく、「面」としてのルートであった。シルクロードは東西のルートだけではなく、南北にも延びており、多くの支線を含めて、都市と都市・村と村・オアシスとオアシスなど無数の綱の目のように形成された文明の交通路であった。
  • 前漢の時代、武帝が張騫をシルクロードに派遣したために、張騫がシルクロードの開拓者だといわれている。張騫は、すでに交易がされていたシルクロードを歴史に記したということであろう。しかし、それを広く世に広めたという功績は大きい。
  • シルクロードを別の言葉で言うと「中央ユーラシアの文明流通路」である。
  • 貿易を主としていたソグド人は、交易の民だけでなく、中国本土にも進出するととともに、軍事力を誇る北の遊牧民とも結びついたソグド系突厥として、外交・軍事・芸術・文化面にも多大な影響を与えた。
  • シルクロードを中心に多彩な人々が生き、その主役はオアシスの人々・ソグド人・突厥やウイグルの人たちだった。
  • 中国におけるソグド学の研究は1980年代から本格的に探求されたが、それは旧ソ連に引き続いて日本の研究者による業績の上に乗った形で進められている。
  • シルクロードの主役の一つであったソグドのキャラバンによって、絹のみならず、金銀器をはじめ様ざまな物品が往き来した。
  • シルクロードは宗教東漸の道でもあった。イスラーム以前のシルクロードは、仏教・マニ教・ゾロアスター教・キリスト教など、西方から多くの宗教が伝わってきた。なかでも、仏教は広範囲にわたって深い影響を与えた。しかも、ソグド人によってもたらされたマニ教も、特にトルファン地域ではもっとも盛んになった。
  • ウイグル人・チベット人・モンゴル人などは、現在において国籍上は中国人となっているが、中華民族ではない。数千年の歴史を持つ誇りある民族である。
  • シルクロードは多民族・多言語・多文化世界であった。
  • トルキスタンというのは、ペルシア語で「トルコ人の国、トルコ語を話せる人々の土地」という意味になる。
  • 漢族の諸民族に対する態度は、かつてアメリカが日本の広島・長崎に原爆を投下したことを思い出す。中国政府のウイグルやチベットに対する態度は、当時アメリカが日本に対した態度と同じといえる。当時、アメリカからみれば、まるで文明のない世界の人に対するような蔑視を持ち、日本を実験動物にしたのだともいえる。その証拠に、おなじ白色人種のいるドイツに原爆を落とさなかったことがあげられる。
    それと同じくウイグルのロプノールの核実験場は、1964年から46回にわたって核兵器の実験地となっており、数万人の兵士や住民の犠牲があり、現在でも多くの障害者やがん患者などの疾病者が生まれている。
西域文明発展の三つの段階

第1段階=「萌芽期」
年代は紀元前2世紀〜紀元4世紀にあたる。主に楼蘭文明と于闐(うてん。現在のほぼホータン地域に当たる)初期文明を代表としている。この時期、西域にはまだ統一された文字は生まれておらず、タリム盆地の諸国は主に漢字、カロシュティ文字、ブラフミー文字、ソグド文字などの外来文字を使用していた。紀元前2世紀、匈奴が西域の覇者となり、この時期に西域文化は中国北方草原文化の影響を強く受け、高昌故城近くの車師大墓からは多くの匈奴文化の芸術品が出土している。西暦2世紀末、タリム盆地に仏教が伝わる。それ以降、西域文化はガンダーラ、バクトリア等の地域のヘレニズム文化の影響をうける。ヘディン(S.Hedin)が楼蘭LB仏教寺院遺跡で発見した木彫像や、スタインがミーラン仏教寺院遺跡で発見した壁画には、明らかにヘレニズム文化の要素がみられる。

第2段階=「最盛期」
年代は西暦5〜8世紀。主に于闐末期文明、疎勒(現在のカシュガル地域に当たる)文明と亀茲(ほぼクチャ地域)文明を代表とする。中国の僧侶が西方へ仏法を求めて訪れたのは、最初はインド本土ではなく、于闐であった。玄奘はインドから持ち帰った経典をうっかりコータン川に落としてしまった。彼の持ち帰ったサンスクリット語の経典は、実際にはコータンで再び収集したものであり、これによっても中国仏教が于闐仏教の影響を強く受けていたことがわかる。美術の方面でも、唐朝の大画家の尉遅(うっち)乙僧は于闐人であった。彼の絵画技法は唐代の中国画風に影響を及ぼしただけでなく、朝鮮半島と日本美術に対しても重要な影響を与えた。
仏教が中国に伝わった後、亀茲は西域仏教を伝える重要なセンターとなった。中国仏教史上において一代の名僧といわれた鳩摩羅什は亀茲の人であった。前秦の建元九年(373)、苻堅は鳩摩羅什の名声を敬慕して、将軍呂光を派遣して亀茲を討ち、鳩摩羅什を涼州(現在の甘粛省武威)に迎えた。それ以後、鳩摩羅什は涼州で17年間にわたって布教した。後秦の時に、姚興は再度、軍隊を派遣して涼州を討伐し、鳩摩羅什を国師の礼を以って長安に迎えた。西域各種の言語で書かれた約98部の経典が、鳩摩羅什の主宰の下で漢訳された。そのうちの52部が現在も残っており、『大蔵経』に収められている。

第3段階=「変遷期」
主にトルファンなどの回鶻文化とカシュガルなどのカラハン王朝文化を代表とする。この両王朝の出現は、タリム盆地の突厥化、イスラーム化の歴史の始まりであった。トルファンは、東西交通の要路に位置しており、多くの民族が集まり住んでいるだけではなく、多くの中央アジア、西アジアからきた外国人が存在していた国際都市でもあった。それに従ってインドの仏教、西アジアのゾロアスター教、シリアのネストリウス派キリスト教、ペルシアのマニ教などがトルファンに入って来た。20世紀初め、ドイツのトルファン探検隊はトユク千仏洞で中世の図書館を発見したが、そこには17種類の文字と24種類の言語で書かれた各種の宗教文書が所蔵されていたという。
9〜11世紀、西域の民族と文化に大きな変化が起こる。疎勒、于闐などの地の印欧語族の民族は、チュルク語系民族によって無情にも歴史の舞台から放逐され、西域の仏教文化はイスラーム文化に取って代わられた。これらのできごとは皆、チュルク系民族が中央アジアのセミレチエ地方とカシュガルに建てたカラハン王朝によるものである。このイスラーム教を信仰する王朝は、仏教国于闐に対して40余年にわたる「聖戦」をしかけ、ついに1006年に于闐を滅ぼした。多くの学者は、敦煌蔵経洞の封鎖は、カラハン王朝の于闐攻略と直接関係があると考えている。これ以後、カシュガルはイスラーム文化の重要な伝播センターになった。11世紀に完成した『突厥語大詞典』は、カシュガル出身のチュルク語学者マフムード・アル・カシュガリーがバグダッドで完成したものである。
漢代における西域三十六国の先住民は、主にトカラ語、サカ語(スキタイ語)などの印欧系語族の民族によって構成されていた。西域で最初に流行した3種類の文字――漢字、カロシュティ文字とブラフミー文字は、西域人にとって、全て外来の文字であった。文字を文明社会の尺度とするならば、西域文明の誕生は西暦4世紀を遡ることはない。もっとも早く自民族の言語を、ブラフミー文字を使って表した西域人は、タリム盆地南西の于闐人である。彼らは西暦4世紀頃にブラフミー文字で于てん塞(ホータンサカ)語を書き表すことを始め、それによって于闐文を創造した。その後、西域北道の亀茲人と焉耆人もブラフミー文字で民族の言語――亀茲語(Tokharian B)と焉耆語(Tokharian A)を綴るようになり,西暦7世紀頃に亀茲文字と焉耆文字を創造した。
西暦840年、ウイグル人の祖先――回鶻人がモンゴル高原から西の中央アジアに移動してきて、トルファンなどの地に高昌回鶻王国を築きあげた。回鶻人はもともと突厥ルーニック文字を使用していたが、トルファンに移って以降、次第に中央アジアのソグド文字を使って民族の言語を表すようになり、西暦9世紀頃に回鶻文字を創造した。回鶻文字の中国北方遊牧民族に与えた影響は非常に大きく、モンゴル文字は回鶻文字から生まれており、満州文字はそのモンゴル文字から生まれている。

仏教の東漸とセランド(西域)の六つの文化圏
シルクロードを見る見方について、中国・朝鮮・日本は、シルクロードを東側から見るが、私が西側から見ると、以下のような六つの文化圏に分けることができる。

(1) カシュガル(疎勒)文化圏
タクラマカン砂漠の西にあり、西域北道と西域南道の西の交差点に位置している。トウムシュク・マラルバシ、ヤルカンドまでの三角形の地域を中心とし、パーミル高原とタシュクルガンに至る広い地域を示す歴史的場所。
この文化圏にある歴史的な場所「アッパク・ホジャマーザル」に、仏教の様子が見られる。

(2) ホータン(和田)文化圏
タクラマカン沙漠の南縁に位置し、西域南道沿いのグマ、カラドン・ダンダンウィリク・ケリヤ・ニヤ、チェルチェンまでの地域を中心にした広大なオアシスを示す。この地域は、一番初めに仏教文化を受け入れたため、仏教寺院や遺跡址がたくさん残されている。
もともと仏教遺跡寺院であった、コックマリム(庫克瑪日木・賛木廟)石窟とイマムアスム(伊瑪木阿斯木)古墳は、現在、イスラム教の聖地となっている。

(3) クチャ(庫車)・カラシャハール(焉耆)文化圏
タクラマカン沙漠の北、天山南麓中央部に位置し、西域北道の中間にあるアクス、クチャ(亀茲)・カラシャール(焉耆)・ショルチュク地域を中心とした場所を示す。
仏教美術のふるさとなる「亀茲国」と仏教文化の「花」となる飛天はこの文化圏の象徴である。

(4) ロプノール・ローラン(楼蘭)文化圏
タクラマカン沙漠の東西に位置し、トルファン・ホータン文化圏にまたがり、西域北道と西域南道を結ぶクロライナ(楼蘭)・ロプノール・ミーラン(米蘭)、チャルクリク地域を中心としたロプ沙漠地域を示す。
この地域の代表的な場所であるザグンロク(扎滾魯克)古墳群とチェルチェン(且末)に残る仏教の足跡とトグラクムラ(托乎拉克)莊園_チェルチェン(且末)は、仏教文化の跡として残っている。

(5) トルファン(吐魯番)・ハミ(哈密)文化圏
タクラマカン沙漠の東、タリム盆地とジュンガル盆地の中間に位置し、西域北道と西域南道の東の交差点、草原の道と西域北道沿いのトルファン・ハミから敦煌(沙州)までの地域及びチョル・タグ沙漠を中心とした場所を示す。仏教国となったトルファンに残る仏教寺院「吐谷溝(トヨク)」は、現在イスラム聖地となっている。さらに、ハミ(哈密)にあるイスラムの墓「ケイス墓」にも、仏教の様子が見られる。

(6) 敦煌文化圏
敦煌文化圏は、ロプノール・楼蘭文化圏とトルファン・ハミ文化圏の東に位置し、草原の道(ステップルート)、西域南道と西域北道が合流する場所である。南はアルトゥン山、西はミーラン・楼蘭地域、北はハミ、東は玉門関につながり、柳園、現在の敦煌、安西地域を中心とする場所。


「年表」現代までのウイグル(pdfファイル)

2008年第2回講演会のお知らせ

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