中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
8.再びウズベキスタン
6月4日(木)

再びウズベキスタンにもどって、タシケントの街へ

サマルカンドからバスでタシケントに向かいました。

かなり走ってからトイレ休憩のため駐車場に入るとき、すでに駐車していたバスの近くに20〜30人の若い女性がいました。ひと目で日本の若い女性だと分かりましたが、そして「日本の女性はなんときれいなんだろう」と思いました。誰かが彼女たちに聞いたところによると、彼女たちは日本の航空会社の客室乗務員のみなさん。明日から始まる日本とウズベキスタンのサッカーの試合の観戦に駆り出されたとの事でした。時間があるのでサマルカンド観光に出かける途中だとのことでした。

私はひとことも話しかけませんでしたが、“うん、日本の女性はきれいだ”となんだか嬉しくなりました。こんなところで日本民族の誇らしさを感じても仕方がないのですが、でも考えてみると、スチュワーデスだからきれいなのは当たり前なんですね。

タシケントの街へ帰りついた私たちは、翌日から最後の市内観光に行きました。
街の印象をひと言でいえば、整然としたゴミの少ない街です。中国や新疆の街と比べると雲泥の差です。

タシケントはウズベキスタン共和国の首都。国の人口は2500万人ですが、タシケントの人口はその1割の約250万人。中央アジア最大の工業都市です。

シル川から北に流入するチルチク川の渓谷に築かれた古代オアシス国家が、南のソグドと北方草原の遊牧民と天山北路を結ぶシルクロードの要衝として繁栄しました。その古代都市時代の名は「チャチ」(ペルシア語)と呼ばれましたが、「シャーシュ」(アラビア語。漢語で石の町)とも記された古代都市でした。

タシケントは、トルコ語のタシ(石)と、イラン語のカンド(町)に由来するとも、イラン語タズカンド(アラブ人の町)によるともいわれています。中国には5世紀ころから知られていますが、隋代には、石国はシル川のそばの四方10里あまり(約4・5キロ)の都城と記され、王が父母の焼骨の周りをめぐり散華する仏教的な行事を行なっており、すでに西突厥に支配されていました。
玄奘三蔵がここを訪れた7世紀はじめ、当時の数十の城の長(おさ)はみな西突厥に従属していたといいます。タシケントから中国に行った人はみな「石」姓を名乗りました。

西突厥滅亡後も突騎施(とっきし)の支配を受けていましたが、8世紀にアラブ軍が侵攻してくると、シャーシュ王はトルコ人と提携して対抗しましたが破られ、トルコ人に対するイスラームの砦とされました。751年、唐の西域都護高仙芝の唐軍がタラスで戦い、唐軍が敗北したことは名高い出来事となっています。

サーマーン朝時代、シャーシュの首都はビンカト(現タシケント)でした。現タシケントの東北部にあるアク・テペは古代の都城址で、四隅に塔のある城壁に囲まれ、回廊が取りまき、3階建ての居室が連なっていました。

モンゴル時代以後はバナーケトに中心が移りましたが、チムール期以後、特に16世紀にはイスラーム寺院や廟、学校などがつくられて、学術・文芸が興隆したとあります。カファル・シャシ廟、クケルタシ・メドレスなど、今もその遺影が見られます。19世紀後半、ロシアの支配下で、タシケントはシル川と西トルキスタンの中心としてよみがえりました。

2007年は「イスラーム文化の都」としてタシケントが選ばれました。

チムール広場
ここは以前、大きなバザールがあったといいます。強権で突然、撤去命令が出て美しい広場になったのだそうです。近くのエリート度No.3というタシュケント法科大学には中央アジア5カ国から学生が集まるといい、新しいデートスポットだそうです。歴史のある総合女子大学もあります。

チムールの銅像
ツアーリ専制時代、ここに建てられた銅像は、近代になってからこの地の最初の支配者であったロシアの総督でドイツ人でもあったカウフマン、そしてスターリン、のちにマルクスとレーニンがあり、今ではいうまでもなくチムールの銅像が建っています。
スターリン時代には約200万人が犠牲になったといいます。近くのアンホール川に刑場があり、汽車が轟音を立てて通過するときに銃殺し、血は川に流したと説明されました。

独立広場
ここにあった図書館が国会議事堂になったそうです。モニュメントの上には幸せを運んでくるというコウノトリの大きな像があり、美しい広場です。

クカルダシュ・メドレセ
このメドレセには、5千人が受験して80人の合格という難関を経て入学できるといい、60人に1人の合格です。今、150〜180人の学生がいます。

ジュマ・モスク
ここのモスクはソ連時代、イスラームへの信仰を妨げるために酒の倉庫にされていたといいます。

日本人捕虜の墓地
日本人捕虜の墓地 タシケント市内のヤッカ・サライ墓地の中には、第二次大戦後、旧日本軍兵士・軍属がシベリアに強制連行されて、ここタシケントまで移送されてきて亡くなった日本人の墓地があります。数十名の墓がありますが、墓地に残された記録によると、中国東北部や朝鮮から連行されてきた日本人捕虜は数百名にのぼり、12ある州ごとに、分かる範囲での死者の名前が記されています。

はるかなふるさとを思い浮かべ、父母・兄弟や恋人・友達たちを想い浮かべながら、辺境の地で散った彼らの胸中を思うだけで胸が詰まる思いでした。心からの黙祷をささげました。1945年から46年にかけて、その期間、病気や疲労などが原因で死亡した80人ほどの日本人がこの墓地で眠っています。
意外なことは(というより、当然なのかもしれませんが)、ここにドイツ人の同じような墓地もあったことでした。

日本人捕虜が建設に従事した「アリシェール・ナワイー名称オペラ劇場」
アリシェール・ナワール名称オペラ劇場 「アリシェール・ナワイー名称オペラ劇場」。
アジア太平洋戦争敗北ののち中国東北部でソ連の捕虜となった旧日本兵が、ソ連の国際条約に違反する強制労働をさせられて、はるばる数千キロ離れたここタシケントで建設工事に従事させられた劇場です。
1960年代の大地震の際にもこの劇場だけはしっかりと生き残り、ウズベク人から、日本人の確かな仕事ぶりが再評価されたとの話も残っています。公園の中央にある噴水も旧日本兵の手になります。

深夜、成田行きの便で5日午前9時ころ帰国
タシケント空港を出て、やがて飲み物が出て食事。
それから1時間すぎたのか2時間すぎたのかは、よく分からないのですが、飛行機が大きく右旋回すると1万メートルの眼下にダイアモンドのように美しく光り輝いている街の灯が見えました。
タシケントからの飛行時間と機内のマップに表されている航空ルートから判断すると、ここはどうやら新疆のウルムチの上空です。
飛行機がほぼ直角に旋回したせいか、上空を直線で通過するよりも比較的長い時間、ウルムチと対面できました。30回以上40回近くも訪れたこの街も、こんなに小さく美しく見えるものだと1人で感心していました。

数千年も以前から、この眼下を幾多のキャラバンや軍勢が西征し、東漸してきたのです。それを実感しました。
しかし同時に、私がこの美しい街を上空から見たちょうど1ヵ月後の7月5日には、血の惨劇が起こりました。今では、怒りと悲しみの気持ちでいっぱいです。

やがて、トルファンの街の灯、蘭州、北京の灯と、まるでシルクロードをそのまま進んでいるようなルートでした。まもなく同行の当金彦宏さんから言われて見たものは、進行方向の左手前方から、美しく輝く朝日が昇ってくるところでした。その美しさもまぶたに焼き付いて離れません。

そうです。シルクロードは文明のあるところ、すべてが地球ネットワークです。
この空のシルクロードも、“もうひとつのシルクロード”だったのです。
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