第7回シルクロード講座「モンゴルが人類史に与えた歴史的役割」

2009年12月12日
日本シルクロード文化センター  野口 信彦

モンゴルなど遊牧騎馬民族はどのような世界を創ったか

遊牧騎馬民族が人類文明を創りだし、人類の歴史を切り開いてきた。
紀元前7〜8世紀、人類史初の遊牧騎馬民族スキタイ・サカからはじまって、匈奴が後年、ゲルマン民族の大移動の要因となり、ユーラシア大陸の東西において古代から中世へ移行する契機となったのも遊牧騎馬民族であった。
そしてモンゴルの登場が人類史の発展を決定づけた。

モンゴルは、どのような世界帝国だったか
13世紀の4半世紀でローマ帝国が400年かけて獲得した以上の土地と人々を征服
中央ユーラシア各地の高い諸文明を征服。
その征服した人びとの数、併合した国の数、占領した土地の面積、いずれをとっても征服者として歴史上のあらゆる追随者を大きく引き離している。
太平洋から地中海まで、そしてシベリアからインドの平原まで、さらにベトナムからハンガリー、朝鮮半島からバルカン半島まで征服。
最盛期のモンゴルの版図は、アフリカ大陸の面積に匹敵し、北米大陸より広い。
現代人の過半数はかつてモンゴルが征服した国々に住んでいる。
今日の世界地図になおしてみれば30ヶ国、30億人を擁していた。
当時のモンゴルの人口は100万人前後にすぎず、招集できる兵士はわずかに10万人前後でしかなかった。

モンゴル帝国と大元ウルス――ユーラシア大交流の時代
13世紀のはじめ、こうしてモンゴルが官費で運営するユーラシア循環ルートを利用して人と物の東西大交流が進められ、モンゴルを中心にユーラシア大陸と北アフリカの各地がゆるやかながらも一つに結びつけられる史上空前の状況が出現した。
チンギス・ハーンのモンゴル帝国は、彼が従えた土地とその周囲の文明を結びつけ、融合させ、新しい世界秩序を形成していったのである。
それまでのモンゴルは部族同士の関係しか知ることがなく、アジアや世界を知る方法はなかった。
チンギス・ハーン以前には、中国でヨーロッパの情報は少なかったし、ヨーロッパでも中国のことはあまり知られていなかった。また両区間を旅した者もいなかったが、チンギス・ハーンはそのふたつを外交と交易で結び、文明を交流させ発展させた。

チンギス・ハーンは、奴隷や封建制度を打破し、新しい社会制度を創った。
シルクロード沿いのオアシスが史上最大の自由交易地域に組み込まれ、減税の恩恵を受け、医師・教師・僧侶・教育機関は免税の特権を受けた。
国勢調査が行われ、人類史上最初の国際郵便システムがつくり上げられた。戦いの戦利品を兵士に分け与えた後は、広く分配して、商業の循環に役立つようにはかった。
チンギス・ハーンは国際法を定めるとともに、それまでの支配者がすべての上に立つという不文律を破り、支配者から身分の低いものまで、すべてに平等な「法律」が適用させるようにした。
さらに、敵国を含むすべての公使や使節団に外交特権を認めるという、それまでの社会には前代未聞の慣例、現代に通じる慣例までを設けた。

アレキサンダー大王
33歳のときにバビロンで不審な死を遂げたが、部下たちによって一族は皆殺しにあい、広大な領地は山分けにされてしまった。
ユリウス・カエサル(シーザー)
元老院の議場で仲間達に刺し殺され、それまで征服したあらゆる成果がぶち壊された。
ナポレオン
地球上で最も隔絶された孤島でさびしくこの世を去った。
チンギス・ハーン
70歳近い長寿を全うした上、家族と友人たちと忠実な武将や兵士たちに看取られながらゲルの中で天に昇った。

モンゴルとチンギス・ハーンが世界史と人類に与えた貢献

西から東への往来も増えた。
1246年、ローマ法王インノセント4世の親書を高僧プラノ・デ・カルビニが、フランス王ルイ9世の親書を持ってモンケにまみえた僧侶ギョーム・ド・ルブルクが、そして『東方見聞録』の著者として知られたヴェネチアの商人マルコ・ポーロが。彼らはいずれもタタールの平和を享受しつつシルクロードを自由に旅した人たちであった。
東から西への交流も増加した。
チンギス・ハーンの西征に従ったキタイ人の耶律楚材やチンギス・ハーンの求めに応じてその幕営を訪れた道士の長春真人などがいる。
元代の中国では、飲食物の調理には西方の香料が、そして葡萄酒も愛用され、宮廷ではイスラームの音楽が奏され、ペルシア絨毯が珍重されていた。学校ではアラビア文字が教えられ、西方の医薬品も輸入され、イスラーム地理学も中国人に多くの知識を与えた。
これにもまして大きな意義を持ったのは、イスラーム世界の天文・暦学に関する知識の導入であった。元代に使用された天文観測器具の中には、西方イスラーム世界の観測器具に関する知識をもとに製作された観測器具があり、暦学方面ではジャラール・ウッディーンの「万年暦」もその頃作成されたのである。まさに“世界の文明は遊牧騎馬民族が切り拓き、モンゴルが発展させた”といわれるのも、当然なことといえる。

モンゴルの世界統治は、世界をどのように変革したか

チンギス・ハーンの世界征服のあと=東は日本海を含む朝鮮半島から西はロシアのモスクワ、ウクライナのキエフからアナトリア高原、イラン、イラクに及ぶ大帝国をつくりあげた。この時点ですでに史上最大の版図に達し、さまざまな人びとを包み込む多種族の混成国家となっていたが、それだけにとどまらなかった。孫のクビライが足かけ5年の帝位継承戦争(1260〜1264年)に勝利し、全モンゴルを代表する大ハーンとなることによって、かつてない歴史の状態に踏み込むことになったのである。そしてなによりも、クビライはモンゴル全領域のうち、自らが直接領有することになったアジア東方について、それまでのようなゴビ以北の外蒙草原と華北とを「国家根本の地」として、草原地帯と農耕地帯とを接合した新型の国家建設を推し進めた。
ユーラシア世界史を動かしてきた二つの大きな流れがここで合流し、歴史を貫く基本構造は根本から大きく旋回したのである。

それまでの中国はその歴史の大半を通じて、大きな文明国ではあったが決して統一国家ではなかった。教養のある層は文語、古典文学、書画、その他の高度の文化を共有していたが、一般庶民は常に変わる国境線に悩まされ、次々と代わる王朝と支配階級に統治され、さまざまな言語に接していた。そのようななかで少なからぬ人びとは、単一の王朝のもとで暮らすことを想像するようになっていった。それを実現したのがクビライだったのである。
明代・清代そして現在の中国においても、ほとんど首都であり続けている「北京」は、このときクビライの世界帝都として、20数年かけて造営された大都の後身である。
さらに天津の前身である直沽(ちょくこ)、さびれた港町であった上海が浮上がしたのはこの頃からであった。これ以降、中国の歴代王朝の首都はずっと北京だった。
その理由は、長安より北京のほうが遊牧民族の侵攻に備える指令基地としての機能を果たせるからである。沿海部に近く、南への大運河が通じており、遊牧地域への前進基地としても活用できたからである。

陸上帝国から海上帝国に、ユーラシア交通網の完成

13世紀末、東シナ海からインド洋を経て中東にいたる海上ルートの全体が、平和裏にモンゴルの手に握られることとなった。ここに人類史上初めて中央ユーラシアの陸と海を循環する交通網が確立したのである。
国家の体制、クビライとその血統が直接率いる宗主国の「大元ウルス」を中心に、 西北ユーラシアのジョチ・ウルス(通称・金帳カン国、もしくはキプチャク・カン国)、中東方面のフレグ・ウルス(通称・イル・カン国)、 中央アジアのチャガタイ・ウルス(通称・チャガタイ・カン国)があった。

モンゴルは国際協調と経済優先の平和路線に転じた。
1268年、クビライは日本にたいして降伏を要求する使節を送った。
1274年には、高麗と中国の歩兵2万7千人と無数のモンゴル騎兵を運ぶために、約900隻の船からなる大艦隊を召集した。
台風の襲来で急造の船はほとんどが破壊され、約1万3千の兵士が死んだ。
2度目の侵攻は、「日本の国王がモンゴルに出向けば、今度はクビライが日本の統治者として国王に任命する」というものだった。
1279年にふたたびクビライの使節が到着すると鎌倉幕府は彼らを処刑した。
今回侵攻するモンゴル軍は、「東路軍」(高麗軍とモンゴル兵、漢人などの連合軍)を編成し、その後方からは6万の水夫が乗り込んで10万の兵員を輸送する3500隻の大艦隊「江南軍」が中国本土から援軍として向かうことになっていた。
1281年5月に出航した東路軍は、台風に遭遇して推定10万以上の乗組員が死んだ。

クビライの日本侵攻は失敗

インドネシア方面への侵攻

近代のモンゴル概況
モンゴル高原からジュンガリアを含んだ満州族の清朝が崩壊。
1924年に成立したソ連以外で初の社会主義国モンゴル人民共和国は、実質的にソ連に植民地化されていたが、ソ連崩壊のあおりを受けて92年に「モンゴル国」とその名称を改めた。
ロシアと中国の二大国のはざまにあって一応の独立国家を維持し、総人口は270 万人この地域は15世紀から16世紀にダヤン・ハーンやその孫アルタン・ハーンが制圧して以来、東部から移動してきたハルハ族が主体となっていた。
北部には、ブリヤートが多く、この大半は1920年にはロシアから南下してきた集団であり、反革命分子とみなされてスターリンの大粛清の犠牲となったため系譜が断絶している。社会主義の夢と理想をぶち壊したスターリンは、おそるべき数の人びとを殺害したからである。
一方、西部にはオイラト・モンゴル系のドルベド、バヤト、トルグート、ウールドおよびミャンガン、ザハチンなどのモンゴル諸集団やカザフ、ホトン、ウリヤンハイなどの諸集団が集中している。

中国では
新中国の成立に先立つ1947年、最初の少数民族自治区として内蒙古自治区が設置された。ここは1936年に49の諸公が集まって清朝に服従したことに由来する地域的単位なのである。
内蒙古自治区では、農耕化や牧畜の定住化などによる砂漠化、高等教育の機会を得るために漢語が重視されて、モンゴル語を喪失するといった問題が顕在化。

さらにモンゴル国に北接するブリヤート共和国では、ソ連時代からロシア化が著しく、ペレストロイカ以降、文字や言語などほんらいのモンゴル文化を復興する動きが強まっている。またヴォルガ河下流域に住むカルムイク人は1630年頃に移動したトルグート・モンゴルが1771年、イリ方面に帰還する際に現地に残った集団である。

このように、ソ連崩壊後の民主化の流れはモンゴル民族主義を高揚させ、各種行政区界を越えたモンゴル系諸集団の交流を促している。 その中心的存在としてモンゴル国が注目されたこともあったが、現在では援助依存率が世界5位といわれるまでの被援助国となり、リーダー役を果たすことは困難だろうといわれている。また中国や韓国からの資本進出が目覚しく、漢族や中国籍モンゴル族、また韓国人にたいする暴行事件が多発する傾向がみられることは残念なことである。

1911年、中国に辛亥革命が起こり、中華民国と同時にモンゴルも独立を宣言したが、まもなく中華民国の初代総統・袁世凱軍に攻め込まれ、漢・蒙の両軍は大砂漠で激突を繰り返した。
モンゴル人民共和国の成立は1924年。
1992年の第12回大会人民フラル第2回議会で国名を「モンゴル国」に改称したのである。
中国領の内蒙古自治区においては、いわゆる文化大革命期の1966年に「内蒙古人民革命党」事件がデッチ上げられ、5万人のモンゴル人が処刑・殺害され、40万人が逮捕されるなど血の粛清が行われた。それ以外にもモンゴル民族の統一国家をはかったいくつかのグループが弾圧された。中国共産党は文革後「内蒙古人民革命党事件は陳伯達のデッチ上げであり、冤罪である」として、そのほとんどの名誉を回復した。だがこれは陳伯達1人に罪を着せてすむ問題ではなかろう。ロシア・シベリアにもモンゴル人による「ブリヤート自治共和国」があり、中国はこれに内蒙古自治区を加えた3つの国がひとつになる運動を警戒しているのである。

モンゴル・歴史年表

1206年 テムジン、モンゴルを統一しチンギス・カンを称する。
1211年 チンギス・カンによる中国遠征、金(きん)と開戦。
1219〜25年 チンギス・カンの中央アジア遠征。
1227年 西夏を滅ぼす。その3日前にチンギス・ハン死亡。
1229年 オゴデイが2代目皇帝に就きハンを称する。
1235年 首都カラコルムを建設する。
1246年 第3代グユクが即位、わずか2年で急死。
1251年 後継者問題で紛争の後、第4代モンケが正式に即位。
1260年 クビライがハンに推挙される。同時期アリク・ブケもモンゴル高原でハンに推挙され、帝位継承戦争が起こる。
1267年 クビライが大都(北京)建設に着手。
1271年 クビライが国号を「大元」とする。