日本シルクロード文化センター主催
シルクロード講座とシルクロードサロン
第17回:2010年12月11日(土)13:00〜16:00
シルクロード講座:
「中国西北シルクロードの旅」
          講師:野口 信彦(日本シルクロード文化センター代表)
シルクロード・サロン:交流会
場所=「みんなの広場」(小田急線和泉多摩川駅から歩いて5分)

第17回の様子(報告:周東)

12月11日(土)第17回のシルクロード講座&サロンが開かれました。師走に入り慌ただしい時期ではありますが、天気にも恵まれ、21名の参加で、和やかに今年の締めを行いました。

講座は、第16回のとき手違いで報告できなかった野口信彦当会代表の「中国西北シルクロードの旅」。8月のモンゴルツアーに引き続き企画した「西夏・銀川〜カラホト〜河西回廊〜西寧」を訪ねた旅の報告です。

写真や資料を駆使した話に、慣れぬ旅行社のおかげで、したくても出来ないようなハプニングの連続のエピソードが加わって、参加者からの質問も弾みました。この報告は27ページのレポートになっていますので、ご希望の方は野口さんまでご一報下さい。(メール:silkroad-j@mtj.biglobe.ne.j、03−3480−4478)

サロンは交流会。それぞれシルクロードとの関わりや、これまで行った旅の紹介をしあって、新たな輪が広がりました。

この日午前中には、日本シルクロード文化センターの定期総会も開かれ、2011年度の講座&サロン、講演会、ツアーなどの活動方針を決めました。それぞれの内容は、おってホームページでお知らせします。

【講座の概要】

中国西北シルクロードの旅(2010年8月26日〜9月3日)

寧夏回族自治区=西夏・銀川、内モンゴル自治区=カラホト、甘粛省=河西回廊、青海省=西寧を訪ねて

野口 信彦

遼と西夏と宋

まずはじめに、長澤和俊編の『シルクロードを知る事典』(東京堂出版 2002年)から、遼と西夏と宋の諸関係を見てみたい。

遼はモンゴル系の契丹が建てた国である。建国者の耶律阿保機(やりつあぼき)が、モンゴル高原からトルキスタンに通じる交易路によって、家畜・宝石類・皮革などを取引して利益を上げていた。

現在の甘粛省の河西回廊も、遼にとって重要な交易ルートであったが、そこを新興の西夏が支配したので、1050年、遼は西夏を攻めて打撃を与えた。以後、西夏はもっぱら宋に対応するため、遼とは争わない態度を取った。そのため、遼は河西回廊の交易ルートを確保することができた。

遼が契丹文字、西夏が西夏文字、金が女真文字をつくったのは、中国周辺民族が漢文化に対する独自の民俗文化の高揚をめざしたものである。 遼は仏教を保護し、慶陵(遼の歴代君主の墓)に優れた美術の成果が示されている。西夏でも仏教文化が繁栄したため、敦煌やカラホトから見いだされる美術には、チベット仏教の影響が認められる。

西夏の歴史

西夏の歴史は、1038年から1227年までのわずか189年である。オルドス西部から北流黄河、甘粛省一帯を支配したチベット系タングート族の国家である。中国では西夏といったが、自身では白高大夏(白高は銀川西部の聖山・賀蘭山をさすとの説がある)。

7〜8世紀に青海と四川辺境の牧農地域から北流黄河の霊州、オルドスの夏州に移動した集団が母体となり、9世紀に功あって唐から李姓を賜った。

990年、契丹から王号を得た李継遷は1002年、宋から自立して「絹馬貿易を絶ったが、塩の密貿易で経済基盤を固めた。続く李徳明は興州(現在の銀川)に都を定め、宋との絹馬貿易を再開して国力を蓄えた。次の李元昊は興州を興慶府と改め、38年、宋に対して自ら皇帝と称した。

国内では国号・官制・兵制・年号などの体制を整え、すでに入手していた甘粛地方の東西貿易ルートを掌握していただけでなく、漢字・契丹文字などの要素からなるタングート(西夏)文字を創設して仏教文化を開花させるなど独自性を高めた。

44年には宋の臣という形をとったものの、毎年、銀・絹・茶など実利を得た。12世紀初め、女真(金)が契丹を破り宋の華北へと進出する過程でこれと結び、東西貿易を担うウイグル商人らを抱え込んで利をあげたが、チンギス・ハーン率いるモンゴルの攻撃を受け、1227年に滅亡した。

西夏王陵

銀川から見える山々は賀蘭山脈。モンゴル語では「ヒャーラン(4歳馬)」という。標高は1130mから1200mほど。賀蘭山脈の山麓にある西夏王陵は東西が4・5km、南北が10kmある。大きさでは中国最大級といわれている。王陵城には王と皇帝の9基の墳墓があり、その他多くの陪葬墓がある。北端には3棟の大きな建物の跡、瓦を焼いた跡もみられる。

西夏王(西平王)は李元昊(りげんこう。景宗、在位1032〜48年)以降の10人の皇帝を含めて12代にわたる。だが王陵が9基しかないのは、1代目のときからチンギス・ハーンの攻撃を受け、その後、フビライ(在位1260〜94年)に滅ぼされたため、10代目以降の王陵がないからと考えられている。すでに出来上がっていた9基の王陵には、それぞれに祭司を行うための建物がある。

西夏博物館を見学してから、私は胸を高鳴らせながら王陵に近づいて行った。私が歩いているこの地に李元昊が立ち、チンギス・ハーンの騎馬軍が攻め込んできたのだと思いながら・・・・。

1号、2号陵の「けつ台は方形だが、3代目にあたる初代皇帝・李元昊の3号陵は円形である。方型は大地を意味し、円形は天を意味するという。 1号、2号陵は地上の王、3号陵の「けつ台は天と通じる皇帝の墓であることを表わしている。3号陵の霊台の手前に、直径10メートルくらいの土を掘り起こしたような跡がある。これは、モンゴル軍が墓を暴いた跡らしい。

モンゴルはチンギス・ハーンが西夏との戦いで傷つき、やがて甘粛省の清水河で死んだため、西夏にたいしてはことに深い恨みを抱いていたために、王陵を徹底的に破壊したといわれている。その破壊や宝物さがしは後代まで徹底して執拗に続けられたという。

言い伝えによると、西夏を興した李元昊の遺体は地下26メートルの所に安置され、頭は黄河に、足は賀蘭山に向けられていたという。墓が暴かれたとき、300年もたっているのに埋葬時のまま、生きていたようだったといわれている。それをモンゴル兵が恐れて何日もかけて遺体を焼いたといわれている。でもそれは西夏の側の歴史観であることは間違いない。

祁連山脈

南山山脈と祁連山(きれんざん)は甘粛省西部と青海省の省境を東南から北西方面に走る山脈である。これを祁連山脈ともいう。山脈は西北でアルチン山脈に連なり、東南に青海湖、西南にツァイダム盆地がある。敦煌や張掖(ちょうえき)など河西回廊の諸オアシス都市は山脈の北方にあたる。

山脈は長さ800km、幅約300kmに達し、いくつかの小さな山脈からなり、広く万年雪に覆われ、大きな氷河もある。また4000メートルを超える高峰がいくつもあり、最高峰の疎勒(そろく)南山は6303メートルある。そういえば、ウイグルの地カシュガルも疎勒といった。疎勒は仏教用語である。

山脈中には大きな河や谷がいくつもあり、豊かな牧草地となっており、このような河谷は牧畜民の生活の根拠地となっていた。そのため祁連山の名は、古くから遊牧民の匈奴や月氏の名とともにシルクロードの歴史の舞台に現れる。

「祁連」とは元来、匈奴の言葉で「天」を意味する。また前漢の将軍霍去病(かくきょへい)が河西地方を占領する(紀元前121年)前は、この山脈に匈奴の基地があった。このように、甘粛省の河西回廊から祁連山脈一帯は、前漢の若き将軍霍去病が活躍し、匈奴が疾駆した地域である。

前漢の最大の仕事は、北と西の巨大な匈奴を打倒することであった。それがゆえにはるか西へ落ち延びた大月氏との同盟を果たして匈奴を挟撃しようとの構想を抱いて張騫を派遣し、シルクロードが開拓されたのである。その主要な舞台が祁連山脈だったのである。

現在、山脈一帯にはチベット人や古代ウイグル王国の末裔、河西ウイグルの裕固族などが生活し、それぞれの自治県が置かれている。また地下資源の開発が進んでおり、山脈東部の大通河の河谷地帯では石炭が採掘されている。開発すればまだまだ多くの地下資源が存在しているはずである。そして、環境と山野の破壊、そして沙漠化、さらなる漢人の大量流入が待っている。

砂に消えた幻の城・カラホトへ

謄格里(テングリ=雪の精霊)砂漠をひたすら走る。
内モンゴル自治区アラシャン盟エチナ旗にある幻の王国・西夏王国の遺跡カラホトは、エチナの街から約40km、エチナ川の下流にある。水源は祁連山脈となっている。

西夏の人びとは独自の西夏文字を開発し、優れた仏教芸術や文化を残したが、14世紀後半から15世紀にかけて、カラホトとともに歴史の闇へと姿を消す。現在ではこの地域においても、地球規模の気候変動と民族抗争の果てに黒河の流れに異変が生じ、カラホト周辺の砂漠化が進んでいったことがわかってきた。

一方で今、カラホト近郊のオアシスでも黒河の枯渇のため砂漠化が急激に進み、故郷を追われる人びと「環境難民」があとを絶たない。水の枯渇、そしてそれが引き起こす民族とその伝統文化の消滅。かつて西夏の民を襲った悲劇が今また繰り返されようとしている。

カラホトは、東西に約440メートル、南北に約370メートルの不規則な四角形をしている。カラはモンゴル語で黒い、ホトは城という意味である。 東西にそれぞれ門があり、城壁の内側はかつてひとつの街を構成していた。城内には仏教寺院の遺跡が無数にあり、西夏王国では仏教が特に尊ばれていたことが分かる。西北の角にある仏塔はチベット式でカラホトの象徴となっている。

西夏の時代、ここは黒水鎮という行政区で、燕(えん)という軍司が置かれており、通称、黒将軍と呼ばれる司令官が守っていた。モンゴルの圧力が強まり危機を感じた西夏は、都があった銀川から800kmも離れた辺境のこのカラホトに宝物などを運び込んだ。カラホトではそれら西夏の重要な文物などを大きな井戸に隠した。宝の存在を聞きつけたモンゴル軍は、怒涛の進撃で押し寄せてきた。黒将軍は全軍で城外へ討って出て全滅した。かくして西夏の歴史は、ゴビ灘の彼方に謎を残したまま消え去っていったのである。

作家井上靖の原作を映画化した「敦煌」(1988年)のなかでも、李元昊の西夏軍に反乱を決行した朱王礼(西田敏行)が、わずかな騎馬で李元昊の軍に討ち入って果てたシーンがダブって思い浮かべられる。その西夏の李元昊もモンゴルに攻められて全滅したのである。歴史は無常である。

カラホトが完全に消滅したのは、西夏滅亡後、およそ100年をすぎ、モンゴルが明の攻撃を受けて破壊されつくした1372年のことであった。以来、650年近く風と砂にさらされ歴史の表舞台から消えたままである。

私たちがカラホトを訪ねた日は、気温が高いにもかかわらず涼しく乾燥した風が吹きながれ、晴れあがった日であった。
いままで私は敦煌以西には積極的に出かけてきたが、どういうことか寧夏回族自治区、内モンゴルには足が向いていなかった。私たち以外にはだれもいない。吹きわたる涼やかな風。荒れ果てたカラホトのわずかに残っている城址。今まで数々の歴史と多くの栄枯盛衰を見極めてきたようにそびえたっている仏塔。この場の空気と風が何とも言えない心地よさで私を包み込んでくれる。来てよかった。そして再びこの地を訪れようと思った。

旅とは、そして悠久の歴史と自然は、あらゆるものをきれいに洗い流して浄化してくれる。

ロシアの軍人探検家・ピョートル・K・コズロフ

このカラホトを発見したのは、カラホトを最も愛したロシアの軍人探検家・ピョートル・K・コズロフ(1863〜1935年)である。コズロフが残した最大の成果は、なんといっても西夏が残した膨大な西夏文字文献の収集であろう。これら質量ともに世界最大級のコレクションは、ロシアのサンクト・ペテルブルグにある。

この遺跡の調査に関しては間違いなくコズロフがもっとも有名であるが、イギリスの探検家オーレル・スタインも、コズロフによる探検から6年後の1917年に第三次中央アジア探検でカラホトを訪れ、8日間にわたって調査を行った。その成果は『極奥アジア』第1巻第13章にまとめられ、カラホトの詳細な実測図や発掘品の写真が収められている。

だが私は、手放しでコズロフやスタインをほめたたえることはしない。当時の国際情勢をたどってみれば、東西トルキスタンからチベットへかけて植民地を拡大したいロシアは、イギリスと「グレートゲームを展開しつつ、モンゴルから河西回廊を経てチベットを我がものとするための偵察を兼ねていたのである。

コズロフ、スタインの活動から得た情報では、城内は東西で大きく性格が異なっていたらしい。城内の西半分には瓦が多数散乱していることから、瓦葺きの寺院や官庁街が多かったと考えられる一方、東半分には瓦が見られず、天井に木を渡して粘土で屋根を葺(ふ)いたものとなっている。城内の建物はほとんど全壊して粘土と化し、そのなかにわずかに遺構が残っているにすぎない。

西夏文字とは

さて、西夏を語るには「西夏文字」を語らないわけにはいかない。
西夏文字とは、西夏王国の皇帝・李元昊が、西夏独自の新しい文字体系の創案を建国事業の一つとし、野利仁栄(やりじんえい)らの学者に作らせたものである。従来の漢字文化から独立することをめざしてつくられたため、漢字とは異なる文字体系であるものの、創案の過程には漢人も参画していたと思われる。そして1036年には国定文字として公表された。

西夏文字の研究は最初、フランスではじまったが、本格的に研究が進展したのは、ロシアのコズロフによるカラホト発見以後である。コズロフ収集品の中には、西夏語と漢語の対訳単語集である『蕃漢合時掌中珠』や、西夏文字で漢語の発音を示した『同音』等の字典類など、西夏語、・西夏文字の研究にきわめて有用な文書があった。

また、翻訳が盛んだった西夏では、漢語やチベット語の仏典や、『論語』『孝経』『孫子の兵法』など中国の古典を西夏語に翻訳したテキストも豊富に存在した。これらの文書が、西夏語を解読・研究する上で大いに役立ち、ロシアのイワノフスキーやネフスキー、中国の羅福成といった人びとが西夏文字の研究を精力的に進めていった。

西夏文字研究者・西田龍雄の業績

しかし、西夏語・西夏文字の解読と研究を決定的に前進させた人物といえば、日本の西田龍雄氏をおいて他にいない。
西田龍雄の研究によれば、西夏文字の数は六千百数十字にのぼり、表意文字を主体とするところに特徴があるという。漢字の「山」や「川」といった象形文字はほとんどなく、ある概念をいくつかの意味単位に分析し、それぞれの意味をあらわす文字要素を組み合わせることによって一つの文字を表現する。このような文字要素は全部で350種、組合せの方式は44あることが確認されている。

西夏を建てたタングート族も、もともとは吐蕃と吐谷渾の両遊牧民族にはさまれて四川省の西部辺りに雑居していたチベット系の小部族であった。そこには民族意識の高まりがみられる。このような民族意識の高まりにつれて、漢字に対抗して新しい文字をつくりだすことは、自分たちの文化の独自性を示す象徴とみなされるようになり、文字の考案は宋周辺諸国では一種のブームになっていった。

自分たちの文字をつくりだそうとした民族はなにも西夏だけではない。遼は契丹文字を、金は女真文字をつくった。
こうしたブームをつくりだした遠因には、唐代中国北方に大帝国を築いたトルコ系のウイグルの影響があったことを無視できない。ウイグルは唐末に北方のキルギスの侵入を受けて壊滅してしまい、その瓦解によってウイグル人は東西に分散した。私たちがエチナから一挙に張掖に向かったとき、裕固族の地域があったが、ここが東のウイグルの末裔が居住しているところであった。歴史を感じさせる。

青海省

青海省は中国西北部に位置する省級の行政区画のひとつで、中国内陸部としては最大の湖「青海湖」がある。河西回廊から青蔵高原に向かっての高原と祁連山脈が連なる地形が素晴らしい。

青海省はこの美しい自然と豊かな鉱山資源で知られている。この地下資源はまだまだ開発されるだろうが、それゆえに美しい自然が破壊され、漢化が急速に進むであろうことは目に見えている。いやもうとっくに漢化は行きつくところ、極限にまで行っているのだろう。最近のこの地域における大地震や土石流による被害などの自然災害は、ほとんどがこのような山間地域に起こっているが、その根本原因は、政府や企業による見境のない乱開発による自然破壊が原因となっている。

青海省の領域の大部分は、当時のチベット人自身の区分でいう「アムド地方」に属し、アムド地方の西部から中央部分を占めており、東南部に位置するキクド(ジェクンド、玉樹)一帯のみ、カム地方に属している。また、モンゴル人はこの地やモンゴル系住人を「デート・モンゴル」(高地モンゴル)と称している。

青海省の領域を枠組みとする地方行政単位の成立は、清朝の雍正帝は1723年から1724年にかけて、当時、この地方を含むチベット全土を支配していたオイラト系モンゴル人のグシ・ハン一族を征服、彼らの支配下にあった七十九族と呼ばれる諸部族を、ニエンチェン・タングラ山脈を境に南北に分割した。青海四十族とチベット(西蔵)三十九族に二分したのである。

清朝は青海モンゴルや四十族などの諸侯を、西寧から支配し、この枠組みは中華民国にも引き継がれ、青海省の基礎となった。中国の現行の行政区画としての西蔵と青海は、直接的にはこの分割を起源としたものとなっている。
面積は72万平方kmで、総人口は約520万人と報告されている。そのうち漢族を除く民族はチベット、回族、士族、サラール族とモンゴル族など53の民族を数え、その人口は236万人、人口の約45%を占める(2000年調べ)。だが、この省は中国全体でも貧困の度合いが強いところである。

青海省では多民族が共存しているがゆえに、漢語、チベット語、トルコ語系のサラール語とモンゴル語などが広く使用され、多様な言語文化と宗教文化が存在しているが、なによりも宗教文化の発達が地域社会の最大の特徴である。

漢族の間では伝統的に道教と仏教が信仰されているが、それ以外の民族では、チベット仏教とイスラム教が普及しており、青海地域の宗教文化を代表するまでに隆盛を誇っている。

チベット仏教圏は、それを基軸に文化的・政治的交流が展開していた場となり、チベット、モンゴル、満州族など3民族がこの世界に属し、時代的にはチベット仏教がモンゴル人や満州人に浸透した17世紀から、西欧列強によって仏教世界の統合性が崩れ始める19世紀末に至るまでである。

イスラームは、中国から西アジアに至るシルクロード沿いの草原や砂漠の遊牧民やオアシスの農耕・都市居住者の生活様式と文化的アイディンティティを支える役割を果たしている。

青海省の省都西寧

西寧市は青海省の省都であり、人口約205万人。青海省全人口518万人の40%に当たり、漢族、回族、チベット人、モンゴル人などが住む。標高はおよそ2000メートル。8月の平均気温でも最高気温が24度C,最低気温が11度Cとなっており、夏でも涼しく、みな長袖を着ている。市域の主要部は、歴史的に河西回廊の一部分を構成してきた。

西寧は、紀元前121年、前漢の霍去病将軍が市域に軍事拠点・西寧亭を築いたのがはじまりである。「漢の西を寧(やす)らげる」という意味になる。
前漢末に青海郡が設置され、五胡十六国時代には南涼の国都となった。
隋代に西平・河源の二郡となり、唐代後半には吐蕃に占領された。
宋代に収復され西寧州が設けられたが、後に再び西夏に占領された。
清代には西寧府が置かれ、甘粛省に属している。雍正のチベット分割以後、清朝の支配下に入った青海地方の青海モンゴル人や、チベット系、モンゴル系の遊牧集団「四十族(玉樹四十族)」は、この地に配置された西寧辧事大臣によって掌管されていた。

タール寺訪問

タール寺は市内から高速道路で南西へ約25kmくらい行ったところにある青海地方最大のチベット仏教寺院である。最大宗派であるゲルク派(黄帽派。このゲルク派からダライ・ラマやパンチェン・ラマの系統が生まれた)の開祖ツォン・カパ(1357〜1419年)の生誕地に、1560年に創建されたといわれる。

20世紀半ば、あの悪夢のような「文化大革命」でほとんどの寺院が破壊され、多くの僧侶たちが殺害・追放されたが、1980年代の「改革開放」政策以降、宗教活動が再開され、寺の再建が進み、96年に全面的に修復された。

しかし、最近発刊されたチベット人写真家が撮影した文革時の写真集『殺劫(さつごう)―チベットの文化大革命。ツェリン・オーセル著、ツェリン・ドルジェ写真、藤野彰、劉燕子訳、集広社刊、2009年』によると、ポタラ宮も含めてほとんどのチベット仏教の寺院の中身は、文革で破壊され、略奪され、1998年末の改革開放政策のあとにやっと修復されたものばかりだということが判明した。仏像などは観光客目当てのニセばかりものだということが分かった。あまり真相を暴露しても面白くないだろうが、事実は事実である。

タール寺は、宗教と政治の中心地として青海地方一帯に影響力を持ち、最盛期には4000人の僧侶がいたという。しかし、ここも僧侶の姿をした兵士の数のほうが多いのだろう。ポタラ宮は50年前には5000人いた僧侶が、3年前には16人だと聞いた。あとは僧侶の姿をした兵士であった。みな、文化大革命や反乱などで殺されたり、追放されたのである。

寺院は標高2650メートルの山の斜面に沿って建つ。11メートルのツォンカパの大霊塔(通称・大銀塔)を納める大金瓦殿、バター彫刻で知られる上蘇油花院、九間殿、小金瓦殿などがある。チベット語の「クンブム(十万仏)」は、大金瓦殿の前のライラック(一説では菩提樹)の一枚一枚の葉に、仏が現れるという信仰に由来する。

寺域に入ると、近隣からやって来たチベット人の巡礼者たちに混じってモンゴル人の巡礼者もいる。民族服でない普通の衣服を着た人たちもいる。先日までの旅先であったモンゴルに行って見えたものは、チベット仏教に深く帰依している人が極めて多く存在していたことである。このあたり一帯は昔からチベット、モンゴル、タングート、ハサク、サラ族などさまざまな人びとが暮らしていたところである。

タール寺は、バターで作った供物の飾りで名が高い。色づけしたバターで、仏像や故事来歴などをまるで彫刻にように作り上げる。どこの寺にもこうした供物はあるが、ここタール寺のそれは、ひときわ立派で美しい。外国人はバターでできていることを知って驚くが、それを知っているチベット人たちでさえ、見惚れていく。

巡礼たちはそれぞれの仏塔の前で真言を唱えていた。年老いた人、子ども連れ、東京の街中でも見受けられるようなフアッションの若い女性などが、寺院を時計回りにまわる。「五体投地」も珍しいものではない。もともと「チベット」という名前には「歌と踊りの海」という意味があった。チベットは昔からいくつかの地方名で呼び分けてきた。アムドは北東チベット、現在の地図で甘粛省の一部を含めた青海省の大部分と、四川省の北部に当たる。

[参考文献]
『中央ユーラシアを知る事典』平凡社刊、2005年
『シルクロードを知る事典』東京堂出版刊、長澤和俊編、2002年
『週刊朝日 シルクロード紀行』朝日新聞刊 2006年
『西夏簡史』寧夏人民出版社刊、2001年

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