2007年4月28日〜5月5日

野口 信彦




モンゴルの風土と気候

 モンゴルは高原の国。年間の平均気温は0℃前後、夏は12℃〜20℃とすごしやすい。

 しかし、冬の1月は平均気温がマイナス15℃。首都ウランバートルで最低マイナス48℃が記録されたこともある。

 

 モンゴルの民族

 モンゴル高原には有史以来さまざまな遊牧騎馬民族が誕生しては滅亡してきた。

 匈奴、鮮卑、柔然、突厥、ウイグル、契丹、そしてモンゴルである。

 モンゴルは6世紀前後、中国では唐の時代に台頭してきた。

12世紀半ばにモンゴル高原中央部に進出、

1206年に史上空前のモンゴル帝国を現出させ、中央ユーラシアのほとんどを統治するという世界帝国となった。

 モンゴルの統治下となったモンゴル系の諸部族、トルコ系、さらに南ロシアなどのステップルートから連れてこられた諸部族がモンゴル化した。

「モンゴル族」    =人口の90%。人口は約200万人

「ブリヤート族」   =ロシア・ブリヤート自治共和国に約50万人

「カルムイク族」   =ロシア・カルムイク自治共和国に約20万人

「モゴール族」    =アフガニスタンに約1万人

「モンゴル系少数民族」=モンゴルにはカザフ族、ドルポト族、バヤド族、ダリガンガ族、アルタイには、ウリヤンハイ族、ザバチン族、ダルハート族、トゥルグート族、オールド族などがいる。

「中国各地」     =ダフール族、バォアン族、モングォル族、東部裕回族などがいる。

 

 モンゴルの宗教

 チベット仏教が圧倒的に多い。日本の仏教と同源のもので、その点でも日本と共通の文化を有している。

 各種の遊牧民族から宗教を信仰しており、モンゴル帝国の隆盛期に定着した。だが、帝国は宗教には比較的寛大で、イスラム教やキリスト教なども許容した。

 チベット仏教は民間宗教とも融合して根強い信仰心を根づかせた。

 人びとは家畜の繁殖、家内安全、一族の繁栄を願い、ナーダム祭のときに、乳製品などの供物を添えて祈る。

 社会主義体制のもとでは、仏教は徹底的に否定され、全国各地にあった寺院の大部分が破壊された。わずかに総本山であるガンダン・テグチレン寺院だけは活動を続けることが許可された。

 1970年代から次第に復興が始まり、民主化後は特に、復興されるべきモンゴル人意識の一部として寺院の再建が各地で行なわれた。91年にははじめてのキリスト教の聖書のモンゴル語訳が売り出されている。

 

ザイサン・トルゴイ(ザイサンの丘)

郊外へ車で10分のザイサンの丘。

モンゴルの90年代前半の民主化以前、ウランバートル(ロシア語で「赤い英雄」という)には、8万人のロシア人が高級を食みながら顧問として滞在しており、すべての分野を取りしきっていた。それ以外にも中ソ紛争の関係で25万人もの軍が配置されていた。

丘の頂上の円形の構築物にはソ連軍とモンゴル軍が共同の敵=ファシズムと戦う姿が描かれている。この種の物は旧ソ連圏には大量にある。「70年のソ連のくびき」は長かった。  ソ連による支配の期間にはスターリンの大量粛清があった。党と政府あるいは一般市民までもが何の理由も知らされないままに虐殺されたのだ。こういうことが20年近く前まで現実に存在していたのである。

この丘の上にはチベット仏教の象徴的な存在であるタルチョがはためいている。

見遥かす山のかなたには大量のゲルの群れがある。5年前の大雪のあとに羊などの家畜が大量に餓死し生活を維持できなくなった遊牧民たちの多くがウランバートル近郊に集まってゲルを張った。

見渡す右の方向には日本人の若いコーチが教えているという野球の練習場が見えた。

10年前の記憶はあまり定かではないが、モンゴルは財政被援助額が世界の5番目という貧しい国だが、たしかに少しずつ発展しているとみえた。

 

チベット仏教寺院ガンダン寺

モンゴルとチベット仏教の関係は長くて深い。このガンダン寺は1809年の建立。1910年代には観音堂ができたが、1921年の社会主義化のあとにここの観音菩薩像はソ連軍によって持ち出されて銃弾になった。銃弾になる銅像だったからである。その後、第二次大戦中、ポーランドから半分に削り取られた観音菩薩像が発見されたという。

遊牧民たちは季節ごとに家畜の飼料である牧草のある場所を移動しながら生活する。それは貧富の区別なく同様である。したがって仏教が根づく要素はないように思える。だがモンゴルにチベット仏教が根づいた。お寺は、草原・山岳地帯やゴビ(砂礫)地帯に全盛時で700を超える寺院が建てられたという。遊牧民の多いモンゴルでは、唯一の定住建築物である寺院は研究、出版あるいは教育機関の役割を必然的に担った。さらにこの寺院から仏教書やあらゆる書物が生まれ出てきたのである。

90年代の民主化前にはモンゴル人男性の半分が出家していたが、それは学校に行くのと同じことだったのである。

 さらに入門した彼らはまず師匠について教育から仏教そのもののことまであらゆる事柄を学ぶ。師匠は仏と同じだといわれる。チベット仏教を「ラマ教」というが、これは師匠=ラマを尊ぶからだという。現在でも師匠=親や先輩を尊重するのはこのことから出ている。親や教師あるいは先輩を尊敬することはどこの世界でも同じであろう。それがなされなくなってきている原因を明らかにして克服することが今は必要なことであろう。

 しかし、チベット仏教が日本と違うのは、その教義を修めるには生涯を掛けるつもりでないとつとまらないという。日本の仏教者がアジアの仏教国に行って各国の仏教関係者が驚くのは、日本の僧侶たちは妻帯して大酒を飲み、大金でみやげ物を買い漁り、なかには紅灯に沈んで朝まで帰らない者もいるというので、いったい彼らは宗教者かと大いに疑問をもたれているのである。これはある宗教関係者の中国ツアーに通訳として同行した外国人研究者から直接聞いた話しである。

 民主化後、各地で仏教寺院や行事が復活している。モンゴル仏教最高の指導者だったジェプツンダンバ活仏は八世を最後に途絶えていたが、その後、インドにあるチベット亡命政府のダライ・ラマは九世活仏を認定し、99年夏、70年ぶりにモンゴルに入った。現在ではモンゴルのチベット仏教は瀕死の状態に陥っているチベットの仏教のなかでももっとも活気のある国となっている。

 

ゲル

日本人はモンゴルといえばすぐにゲルを想起するだろう。遊牧民は大家族のため、いくつかのゲルに分かれて暮らす。一番いいゲルには、おじいさんとおばあさん。次にいいゲルにはその息子夫婦と子どもたちが暮らし、それ以外の親族がまた別のゲルに暮らし、物置用のゲルもある。ゲルは、中国語ではパオ(包)といい、カザフ語ではユルタという。

 

スフバートル広場

 広場の正面には建築中だという「チンギスハーン記念館」が見え、中央には巨大なチンギスハーンの坐像がある。足元には7人の将軍といわれるもののうちの2人の像がある。左右の端にはチンギスハーンの2人の息子オゴディとモンケが立っている。

 広場の左右には建築大学や宗教大学や少年宮あるいはビルの壁には相撲の白鳳の大きな写真が掲げられている。なにかの広告なのだろう。

 貧民の子スフバータル(18941922年)やチョイバルサン(18951952年)は、クーロン(ウランバートルの旧名)在住のロシア人革命家の指導を受け、1921年6月、モンゴル人民革命党を結成し、7月6日、赤軍の援助を得て、ウンゲルン軍を破った。7月11日、クーロンに革命政府が樹立され、旧・外モンゴルは独立した。国号をモンゴル人民共和国とし、人民憲法を採用するのは活仏が還化した24年のことである。

 

美術史博物館

 市内観光の最後は美術史博物館である。若い青年のそっけないガイドの声も聞かずに勝手に歩きまわる。10ドル払って写真だけを撮る。もっとモンゴルの美術に長じていれば、欣喜雀躍、大いに研究できたであろうものを、認識と知識不足がゆえにほとんど素通りしてしまったことが悔やまれる。

 

 文化・音楽

 いよいよ草原に向かったが、途中で馬頭琴の民族芸術家のダワさんが私たちの乗ったマイクロバスに同乗する。我々のために演奏してくれるというのだが、わざわざここから連れて行くこともあるまいに、とも思う。彼よりも奥さんのほうが国内では有名でCDも何枚も出しているとのこと。だから収入も奥さんのほうが多いので頭が上がらないようである。こういうことは私にはすぐに分かるのである。2人とも日本には30回以上は行っているという。

 

テレルジ・ツーリストキャンプ場へ

 テレルジ・ツーリストキャンプは市内から日帰りで往復できるキャンプである。

 市内から一歩、郊外へ車を出すと国立公園になる。自然保護の規制が厳しい地域だが、途端にツーリストキャンプが目白押し。10年ほど前にわたしが行ったときは、道の途中にコンクリート製の実物大の恐竜の模型があったが、私たちのキャンプはそこのまだ手前だという。手前とはいっても自然の真っ只中である。ただし、ツーリストキャンプのゲルや小さな家屋などの施設を除いてのことだが・・・・

 午後3時頃につく。8時半の夕食時間までは、同行の仲間たちと「キャンプ到着記念祝賀会」になってしまった。わたしはゲルを何度も経験しているが、彼らにとってはやっとたどり着いた憧れのゲルなのであろう。

 夕食後がダワ君のミニ演奏会。馬頭琴の演奏で馬が速く駆けるときの蹄の音やいななきまでが入る。日本歌曲「ふるさと」も演奏してくれた。オープンしたばかりのキャンプの数少ない女性ばかりのスタッフも集まってきて一緒に聞き入る。夜はまだ真冬なのでストーブのぬくもりが嬉しい。

 「今年07年11月には大阪のNHKホールでコンサートがあるが,今決まっているスケジュールはそれだけ」という。またわたしたちの日本シルクロード文化センターで呼ぼうかと思う。

 午後11時ころ就寝。だが夜中に寒くて眼がさめた。スタッフの若い女性が3時間おきに薪をくべに来ることになっていたが、とうとうわたしがトイレハウスと間違えてあけてしまった部屋に彼女が眠っていたのを起こしてしまった午前5時半まで、彼女はぐっすりと眠ったままだった。目覚まし時計の電池が外れていたという言い訳だった。おかげでみな寒い思いをした。

 

星と月と太陽と

 まず、この日が「メーデー」の日だということをガイドさんが知らなかったことが驚きであった。

寒くて震え上がった夜をしのいで、月明かりで少しだけ明るくなった外に出てみると、まさにミリオンスターである。満点の空に星が煌めいていた。月明かりが次第に明るくなるとその星々も一つずつ静かに宇宙の饗宴から姿を消していく。

 夜中にこのメモを書いてから一眠りした朝、ゲルから一歩足を踏み出すとすでに強烈な太陽が出ており、辺りは輝くような陽光に満ちていた。温度は高くはないが輝く太陽がわたしを襲ってきたようなのである。

私たちがここウランバートルに来る日の午前中は砂嵐で一寸先も見えなかったというが、空がわたしたちを歓迎してくれているようだ。まだ初春か晩冬であろう。地面にはわずかばかりの草がうっすらとしか生えていない。ヤギはそれを根こそぎ食べてしまうが、羊は草の上の部分だけを食べるという。ここモンゴルの5月はまだ初春なのである。

 私たちのツアーがまだ観光シーズン前だということは知っていた。観光客で満ち溢れている草原より、誰もいない、まだ厳しい寒さの残っているこの季節のほうがわたしは好きだった。

 

 遊牧民のゲル訪問

 朝8時半朝食、10時出発というゆっくりした時間で遊牧民のゲル訪問。夫婦に2歳の男の子のいる家庭。

 遊牧民のゲルに着いたときには若い男たちが荒馬を乗りこなして観光用に使えるように調教しているところに出くわした。若い男は私たちが見ているからであろう、早がけで荒馬を追いかけ、見事な手さばきで馬の首に縄をかけ、みなで押さえつけながら乗馬してロデオをする。一度は振り落とされたがやがて馬をおとなしくさせた。見事なものであった。後で聞くと彼はここのゲルの主人の弟だった。近くには昨日生まれたばかりという仔馬がお母さん馬にぴったりと寄り添いながらチョコチョコと歩いている。すぐに歩かないと狼に食われてしまうからである。ゲルにはきのう生まれたばかりのような2歳(?)のかわいい男の子。牧民たちはやはり昨日、ここにきてゲルを立てたという(ゲルは「建てる」ともいえるが、まさに「立てる」である)。

ゲルはみんなで立てれば30分ほどで立つ。夫の弟や男たちもいる。馬40頭、羊20匹、牛6頭、ヤギ16匹を持っている。ここは国立公園なのであまり多くの家畜を連れていると国立公園内に入れないのだという。しかし、彼らは観光客への「乗馬体験」などで多くの収入を得ているのだろう。

 まず主人がわたしたちを歓迎するために「嗅ぎタバコ」をすすめる。鼻が弱いわたしは嗅ぐフリだけにしたが、まともに吸うと咳き込む。大切なのはその嗅ぎタバコを入れる箱が効能のある宝石製だという。よく吟味してから、この石は体のどこに効用があるなどを確認してから買うのだそうだ。彼は12人兄弟の上から6番目。両親の写真があったが、お母さんの写真の胸には二つの勲章がある。社会主義時代、4人生むと勲章がひとつもらえたという。いかにもソ連式である。これを「お母さんの勲章」という。しかし、12人生んでなぜ、勲章が二つなのかは、質問したが結局分からなかった。彼は次から次へと自慢のものを披露する。「馬の汗を取る板」、「速い馬の尻尾」、「馬の口にはめるくつわ」など。また、ゲルに入るときには右足から入って敷居は踏まないことなどを奥さんから聞いた。

これは新疆や中央アジアの遊牧民と同様の決まり・マナーだが、わたしたちも子どもの頃、同じことを何度も聞かされた。「家の敷居を踏むと、お父さんの頭を踏むことになる」といわれた。わたしたちはそのようなことを聞かされながら、自然にやって良いことと良くないことを覚えていったのである。なによりも、大好きなお父さんの頭を踏むなどとんでもないことだと思ったものである。訪問先の人を尊敬することは大事なことなのであり、これは親や先人たちの子どもたちへのしつけであり、知恵でもあった。決して“古いこと”と侮ってはいけない。

今の少なからぬ子どもたちに欠けていることあるいはそのように子どもをしつけることのできない親の責任は大きい。良いことは良いことであり、悪いことは悪いことなのである。古い新しいということは問題ではない。ここから本当の「麗しい日本」「美しい日本」が再生されていくのだ。

 また、ゲルの中で女性が座るときには左ひざを立てて右ひざを床につけて座る。男性はその反対のひざを立てる。日本の畳での正座と違って、ゲルでの生活では正座はできないからである。あるいはゲルから出るときは出された食べ物をひと口食べてから、しかも右回りで出るのだということも教わった。さらにこれは知らなかったが、ゲルの中央にある柱の中間を通ってはいけない。これは夫婦の仲を裂くことになるからだという。

ひと口食べてからゲルを出るということも、出されたものはお行儀よく食べることと、右回りで出ることは仏教の教えにかかわるマナーであろう。ヒマラヤやチベットの山中でも、仏教の塚を通り過ぎるときは右回りに回るということを教わった。ボン密教はその逆まわりである。

 

 男尊女卑について聞いた

 モンゴルは1921年に社会主義体制になってからソ連のいい影響として「男女平等」を教わった。今のモンゴルは大学生の80%は女性だとのこと。昔、各ハーンの妃にはかなりの権利があったようで、昔から女性を大事にしてきたから今でも家庭でも女性を大事にする。家庭では早く帰ってきたものが男であっても料理を作るという。

1993年に国が民主化されて多くの政党が出現して多種多様の政策を打ち出した。男女平等の影響で、夫婦共働きが増えた結果、妻の経済力が高まって、家庭内での意見が違って離婚が増えたという。そうかなぁと思う。そういうときには、愛情はどこに行ってしまうのだろうか。これは親の教育方針にもかかわっている。

家畜をたくさん持っていると男が働かなくてはならない。「男は教育がなくても生活できる。しかし、女性は教育がないと生活できない」という考えが根強いという。これはかなり短絡な思考である。また、市場経済制度に移行してから以降、女性は学歴を活かして何とか働いて金を造るが、男はダメ。男は給料の3分の2は家に入れるが、残りは酒を飲んでしまうという。女の力が強くなっている。だが、男は勇気がなくなって酒を飲んでしまい、妻とのいさかいも多くなり、不倫にも走る。だから離婚が増えているという。まるで判で押したような典型的な離婚風景である。

遊牧民のゲルの中での話しだが、以上のような話はそこの奥さん以外に、わたしたちのガイドである32歳のママさん・バヤンバルカさんと女性のキャンプ長。一見、インテリ風であり、いかにも政党の活動家という雰囲気をもっている女性3人の話でもある。考えてみるとみんな女性だった。だから、“強い女”の話、ダメな男の話になるのだ。“男は敵だ”のウーマンリブ時代を思わせる。

さらに離婚問題の話が続く。現在、初めて結婚すると100万トゥグルク(日本円換算で約10万円。平均給料の10倍以上の金額である)を政府からもらえるという。これを悪用する者も出てくる。互いに示し合わせて結婚し、お金をもらった直後に離婚するのだという。この制度ができてから多くの「受益者」が出て予算が足りなくなり、現在ではストップしているとのことである。まるで笑い話である。どこの世でも悪いことを考えるものがいる。

しかし、人口が少ないとはいえ、政府が税金を支出して結婚を奨励するのもおかしな話だ。来年08年にオリンピックを控えている北京では赤信号で道路を横断するとか信号無視などの交通違反をすると200元(平均月収の10%前後)の罰金というように高くした。懲罰でお金を取るのでなく、人命を尊重する考え方の普及が大切なのだということに、北京当局は気づいていない。モンゴルの現状もそれと変わらない政策になっているのではないだろうか。

また、政治の民主化が進むと夫婦でも支持政党の違いで意見が分かれ、それが原因で離婚も増えているのだそうだ。

わたしがその例を話しながら逆に彼女たちに質問した。「結婚や離婚というものはあくまでも個人の自由の問題であり、今そのような政策があるということは、まだ社会主義の負の遺産が残っており、なんでも上から命令するという、悪しき習慣が残っているのではないですか?」と。するとキャンプ長のインテリ風女性がわたしに質問してきた。「ではあなたはこのことをどのように処理すればいいと思いますか」と。わたしは国の政策の及ぶ範囲と個人の自由の問題は、これは民主主義の問題であり人々の生活の根本にかかわる問題であるから、国が口を出したり、金を出すべきではないと説明した。あとからキャンプに帰るマイクロバスの中でガイドのバヤンバルカさんに「彼女は人民革命党の人ではないのですか?」と聞いた。今、モンゴルでは多くの政党が現れているが、依然として影響力の強い人民革命党が政権を握っている。この結婚にお金を出すことに民主党は反対しているのだという。彼女はおそらく民主党の人で人民革命党のこの政策に反対する論拠をわたしに求めたのではないかという。しかし、このような政権党との政策論争に打ち勝つための論拠を外国人に聞くというのも自らの理論武装が極めて不十分なことの証左ではあるまいか。

チンギス・ハーンの偉大な精神はどこへ行ったのであろうか。

 

 33の寺の破壊

 モンゴルが社会主義体制になってから、社会主義のいい面を強調するためにも、「宗教阿片」論を強めて33の寺を破壊したという。先述したが8万人のロシア人がほとんどすべての分野の顧問として就任しており、間接的な支配構造を作り上げていたのである。

 今、モンゴルでも日本と同様に子どもたちの間にテレビゲームが大流行しているという。だから当局は市内のテレビゲームを売る店のチェックをするとのニュースが先週、テレビで放映された。国中の子どもたちや親の抗議にあっているというが、やはり、ここにも社会主義時代の「権威主義」的な行政が色濃く残されている。

 

 義務教育について聞いた

 昨年まで小学生の就学年齢は8歳だったが、今年から7歳に早まった。子どものいる家庭では、遊牧民は子どもを全寮制のところに入れるか、学校の近くに遊牧地を移動するという。それもできない場合は親戚に預けるようである。小学校は4年制、中学は5年制で高校は3年。

 大学の入学率を聞いたが、ほぼ100%だという。なぜなら国立大学は12あるが、私立大学が48もあるのだそうだ。乱立だという。だから質の悪い大学もあるというが、問題点は大学生の80%が女性だということである。そこで先ほどの家庭での子どもの教育の問題になっているのである。現在では240万人の人口で大学がそんなに多くてどうするのだということが国民的な議論になっているとのことである。

 1921年の人口が60万人。そのときの僧侶の数が10万人だった。どこでこのような話になったのか分からないが、その当時は僧侶の中に性病が大流行してソ連が各地の病院を作ったという。とんだ、なまぐさ坊主天国である。

 最近、日本の歴史教科書をまねてモンゴルでも作ったという。テレビでも見たサムライの武士道を扱っているという。

ともかく私が見聞した範囲では、モンゴルは今、試行錯誤しながらも新しい何かを作り出そうとして懸命の努力している、と表現できそうである。

 ゆったりとしながら、午後は実物大の恐竜の像のあるところまで往復2時間の乗馬体験。モンゴルの草原は悠々としていた。午後4時ころゲルに戻ってゆっくりと昼寝。

 

遊牧民と都市勤労者との年収格差

遊牧民は4月、羊の毛やカシミヤによってかなりの収入が入るという。8月には乳製品が売れ、サラリーマンの年収よりはるかに多いという。「今ではおばあさんがパソコンを使ったりするほどの豊かな生活になった」ともいう。しかし、寒冷地の北部は南部より収入は少ないとのこと。また、ほとんどの家が2〜3台の車を所有しており、IT関係は日本やインドに近づいており、ロシアより進んでいるともいう。わたしにはそれが宣伝用の言葉なのか本当なのか確認するすべがない。ともかく家畜が多ければ豊かになれるということのようである。

しかし、牧民は冬になるとケーズ(馬の腸詰)ばかり食べるようになるし、7月までは家畜は殺さずに、馬乳酒ばかり飲むことになる。月収は10万トゥグルク程度という。これがどの程度の生活水準になるのかは分からない。

しかし、都市勤労者は収入が少ないので、少なくとも二つ以上の副業をしているという。そうしなければ生活がなりたたないのだという。

 

帰路はウランバートルの駅から国境を越えて国際列車で北京まで行く。約30時間の旅であった。国境では5時間もの客車の入れ替え作業で待たされたが、すっかり気のあった仲間たちで、楽しい汽車の旅になった。

 

機会があれば、もっとモンゴルを勉強してから再びのモンゴルを実現しよう。



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