2005年



「シルクロードクラブ・こまえ」
           中国語&ウイグル語講座をはじめます

今、地球はボーダーレス時代。といっても隣の大国・中国の
存在は無視できません。これからはアジアの時代だとも
言われています。

さる11月26日に発足した「シルクロードクラブ・こまえ」は、
はじめの一歩として、中国語とウイグル語の講座を始めます。

シルクロードを一度訪ねてみたいと想っていらっしゃるあなたへ。
向こうへ行ってウイグル語を少しでも話すと、大喜びされますよ。

まわりの友人とお誘いあわせて、受講されるようご案内いたします


第一期講座  2006年1月9日(月)から毎週月曜日(半年間)

ウイグル語  午後1時〜2時半

中 国 語    午後3時〜4時半

講 師    アルズグリ・グリ先生 元新疆大学中国語講師・
                      言語学者   
                      朝日カルチャーセンター講師

会場、問合せ
    「泉の森会館」狛江駅北口1分 03−5497−5444

費 用    1回=3,000円  月4回で 12,000円

主 催    「シルクロードクラブ・こまえ」

申込み   クラブ事務所 野口信彦宅 201-0003
                 狛江市和泉本町3−34−2
        電 話 03−3480−4478
        携 帯 090−8512−4701
        E-mail:silkroad-j@mtj.biglobe.ne.jp



第1回「シルクロードを知る集い」のご案内

日 時  2006年1月8日(日)午後3時〜5時
会 場  狛江市中央公民館第4会議室 

資料代 500円

講 演「シルクロードの民・ウイグル族の暮らし・生活・習慣など」
     
―アルズグリ・グリ―立正大学大学院マスターコース、
                   言語学者、
                   元新疆大学講師


ミニ講座@ シルクロードひと口メモ―
              「世界史を形成した遊牧騎馬民族」
  
―講師・野口信彦―「シルクロードクラブ・こまえ」代表、
               日本シルクロード文化センター主宰
               「読売文化センター新宿」講師
問合せ先 クラブ事務所 E−mail:sikroad-j@mtj.biglobe.ne.jp 
   野口 信彦 電話 03−3480−4478
           携帯 090−8512−4701



「シルクロードクラブ・こまえ」発足の集い成功のお礼とご報告
          
「シルクロードクラブ・こまえ」代 表・野口 信彦

秋もいよいよ深まり、落ち葉が街路を彩るころとなりましたが、皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます。

さて、11月26日には狛江市「泉の森会館」において、「シルクロードクラブ・こまえ」発足の集いを開催いたしました。

「シルクロードクラブ・こまえ」はこの日を持って正式に発足することができました。みなさまに心からの感謝を申し上げます。

目的・会則や06年度のシルクロードツアー計画などを添付ファイルでお送りいたしますので、どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。

第二部の「ウイグル民族歌舞団」の公演には、定員80名という狭い会場に、100人近い方々が駆けつけてくださいました。

ウルムチの新疆芸術学院の舞踏家たちの美しい踊りの次に、メキトのメシュレプの方たちの楽器と歌の演奏が始まりました。わたしが前のほうから会場を見渡しておりましたところ、何人かの方々が眼を潤ませ、中にはポロポロと涙を流していらっしゃる方がおられました。若い高校生君はまるでロックのライブ会場にいるように立ち上がって、体を動かし手を振りして喝采をし続けていました。はるばる埼玉県の坂戸から来られたウイグル人研究者と奥さんやその友人の女性たちも、いや会場に居合わせた多くのウイグル人も自分の民族の演奏がこれほどまでも喜ばれていることに感動の面持ちのようでした。

2年前の9月に単身でカシュガルから200km離れたメキトの集落で、午後から夜を徹してのドゥラン・メシュレプの演奏に立ち会っていたものとして、多少、感動が薄れているはずのわたしでさえも、不覚の涙が湧き上がりそうになりました。

万来の喝采で終了した演奏会のあと、出演したウイグル人のみなさんをすぐ目の前の牛丼屋さんで夕食をもてなしていたところ、会場から出てきた方々みなさんが、口々にわたしに声をかけてくださいました。「すばらしい演奏で感動しました」「大成功でよかったですね」「おめでとうございます」と。

わたしが40年くらい前にお世話になっていた大田区の馬込方面からやってこられた80過ぎのおばあさまは、「遺言でわたしが死んだら、野口さんにタクラマカン沙漠にわたしの骨を散骨してもらうことにしています。お葬式の曲もチャイコフスキーの『悲愴』かショパンの『別れの曲』にしてもらうつもりだったけれど、今日の曲を聴いて、あの人たちの歌に換えることにした。曲が始まった瞬間から、どういうことか涙がポロポロ出てきて仕方がなかったよ。あんたも苦労した甲斐があったね、おめでとう」と言ってくださいました。

発起人の打ち上げを近くの焼き鳥屋さん「ミートステーション」で開きましたが、その間にも数人の方から携帯に「よかった!感動した!」の電話を頂きました。

引き続いて開催している、わたしと息子と若い女性写真学校生による3人の写真展にも数人の方々から、ご苦労様、よかったね、感動で涙が止まらなかった、との声や電話などをいただきました。発起人のメンバーも集いが成功した喜びで顔がクシャクシャでした。
12月4日まで同じ会場で写真展を開いています。公演を聞いてくださった年配の方が翌日の27日朝に写真展の会場に見えて、「ウイグルという民族があれほどの深い文化を持っていたことを、ぜんぜん知らなかった。本当によかった」とわざわざいいに来てくださいまして、「もう1回、聞きたい」と別会場の公演の日程と会場をメモして行かれ、「来年は勉強してシルクロードの旅に行きたい」ともおっしゃっていました。

こんなに喜んで頂き、賞賛のお言葉を頂き本当にありがたいことです。苦労して「シルクロードクラブ・こまえ」を立ち上げた甲斐がありました。みなさまに心から感謝いたします。こんごもみなさまのお言葉とお気持ちを原点にして、いっそう努力を重ねる決意です。

なお、先述しましたが、12月4日まで写真展「シルクロード展in Komae」を開催しております。お時間のある方は、ぜひどうぞ遊びにお越しください。


                       2005年11月27日
           「シルクロードクラブ・こまえ」代表・野口 信彦


11月23日

いよいよ、「シルクロードクラブ・こまえ」立ち上げの日が3日後に迫ってきて、その準備に忙殺されています。と、そこへ会館側から「写真展をひらいとほしい」との要望が飛び込んできました。わたしはプロの写真家ではないのですが、数々のシルクロードへの旅の中で写した数千枚の写真があります。今年は息子とのシルクロードの旅も実現しました。彼は、一応、プロのカメラマン。それに今年、新疆に同行した若き写真学校生の女性・かない麻美。この3人の写真を出そうということになりました。
しかし、わたしはプロではありません。息子はプロとはいえ、シルクロードは初見参で、まだ納得のいく写真は撮れていないといいます。彼女はまだ学生。だから大げさに、写真展とは言わないことにしました。
会場は「シルクロードクラブ・こまえ」を立ち上げる同じ「泉の森会館」の2階ギャラリー。26、27日は都合でギャラリーの半分の面積なのですが、28日から12月4日(日)までは全面使用になります。
立ち上げとウイグル歌舞団の26日の公演に参加できない方でも、12月4日まではシルクロードの雰囲気に浸れますので、どうそ、お気軽にお越しください。



今、「シルクロードクラブ・こまえ」結成に全力を挙げています。

9月、1ヶ月以上にわたる新疆全域の旅を終えて帰国しとから、一挙に、狛江市にシルクロード関連のサークルを作ろうという機運がたかまり、友人たちに呼びかけました。

参集した方々の職業は、主婦・会社役員・プロの写真家・イベント・コーディネーター・大学院生スポーツ団体役員・詩人・元日本学術会議会員・語り部等々多士済々です。

立ち上げイベントの日にちは、11月26日(土曜日)午後2時からと決まったのですが、イベントにウイグル人の女性留学生の民族舞踊を入れたいと日本シルクロード倶楽部にお願いしたところ、たまたま来日する十二ムカームの民族芸術団が来るので、日程も空いているので送りましょうか、といわれてビックリ!

結果、11月10日に来日する総勢30人くらいが六本木ヒルズでのテレビ朝日の中継をトップに早めていただいて、狛江に直行することになりました。

きのう11月10日夜には、市内の「ジョナサン」で日本人、ウイグル人を含めて2時間以上にわたって、目的・会則・事業計画、ツアー計画などを,閑閑諤諤話し合いました。
今日、11日には京王プラザで「大シルクロード歌舞音楽祭一行」の歓迎パーティーが開かれ、私も含めて何人かが出席します。

どうぞ気軽にお越しください。 

        
「シルクロードクラブ・こまえ」代表・野口信彦





朝日カルチャーセンターで勉強しています。
                                  11月7日
                                  野口信彦

05年10月から[週刊朝日百科]として『シルクロード紀行』が創刊されました。
NHKテレビのシルクロード特集に合わせて設定したものですが、概ね、隔週に講座が開かれています。
その日時と内容は、次のようになっています。

10月3日――敦煌−砂漠の大画廊をめぐる
  17日――トルファン―三蔵法師、火州を往く の2講座を美術史家の勝木言一郎氏。
11月7日―−楼蘭―遺跡に眠るミイラたち
  21日―−ホータン、カシュガル―仏教からイスラームへ
  28日――クチャ―ラピスラズリの浄土    の3講座を和光大学の北 進一講師
12月19日―−ウルムチ・イーニン・カザフスタン・キルギス―シルクロード草原ルートの中心―           創価大学の林 俊雄教授が担当します。

勝木氏、北講師とも気鋭の若手研究者で、その博識ぶりには脱帽しています。
ただ、難を言えば仏教の側面からの内容が多すぎる気がします。
しかし、大変勉強になっています。



シルクロードーー世界遺産に  中国、関係国と申請        「日中新聞」05年10月25日

中国国家文物局の幹部は18日、中国はさらに文化遺産保護分野の国際協力を強化し、関係国と協調しながら、早期にシルクロードの世界文化遺産の申請をすると表明した。

シルクロードは東に中国の古都長安(西安)、西に南アジア、中央アジアを経由、欧州に直通、全長1万km超、中国域内に4千kmあまり。また、草原シルクロード、海上シルクロードといった歴史文化遺産もある。

申請は10カ国以上に及ぶため、シルクロード沿線各国からの協力が必要。中国はすでに31カ所の世界遺産があり、申請分野において豊かな経験を積み重ねているが、中央アジア各国は経験に乏しく、それに各国の政治・管理体制が異なり、相対的申請は長い時間が必要だと見られる。そのため、シルクロード申請作業グループを設立、研究と申請事務に責任を負う。宗教、芸術、考古旧跡、軍事要衝、農業水利工事、商業旅行宿駅、文化景観といった主題によって段階的に申請する。


☆ シルクロードが中国から中央アジア全域にわたって、世界遺産に申請することは画期的な出来事であり、ぜひ、実現させたい。

だが、現在の中国のシルクロード政策は、保護・維持・管理という側面より、商業的観光の強化促進という「利益追求型」、いうなれば、日本の中曽根内閣当時の、あの悪名高く環境・自然破壊と多くの企業の破綻を招いた「リゾート構想」そのもののやり方が強い。そのままのスタイルで中央アジアにも持ち込んでいけば、おそるべき破壊と破綻を招くことは明らかである。

中国政府もこの機を境に、シルクロードのロマンと豊かな歴史を保ち、麗しい景観をそのまま保つ政策に転換するよう勧告したい――野口信彦(05・11・2)
 




  シルクロードの歴史とロマン薫る   新疆・ウイグル族の民族歌舞団
 
  狛江で友情出演


   ――「シルクロード・クラブ こまえ」 発足記念の集い――


シルクロードの歴史とロマンを感じ取りたいと思う狛江市民のみなさんへ
中国・新疆ウイグル自治区のカシュガルの近くにある街・メキト
歴史のあるこの街の演奏家たちは今、世界各国をまわっており、各地で絶賛を博しています
新疆芸術学院の美しい舞姫たちも加わり、素敵なコラボレーションが狛江で実現することになりました

今、観光会社のツアー、テレビや週刊誌にまで「シルクロード」という活字が躍っています
わたしたちはシルクロードの歴史とロマンを伝え、語りあいたいと願っている市民サークルです
シルクロード関連の講習会、シルクロードの人たちとの交流やツアーなども実施したいと思っています
シルクロードに興味のある方も興味のない方も、この演奏を堪能し、至福のひと時をお過ごしください。どなたでもお気軽にお越しください。

  と き 11月26日(土)

  第1部2:00〜3:30 「シルクロード・こまえ」の発足会 
  第2部4:00〜6:00 民族歌舞団の演奏会
  ばしょ 「泉の森会館」(狛江駅北口を出て登戸側に80メートル)
  電話03−5497−5444
  
  入場料  2000円(「チケットぴあ」で4000円を友情料金で半額)
        学生 1000円 

「シルクロード・クラブ こまえ」発足の集い プログラム

☆ 写真で語るシルクロードの夢とロマン――代表・野口信彦
☆ 発足記念講演=新疆・シルクロードの紹介――アルズグリ・グリ
☆ シルクロードの写真展
☆ 2006年度のクラブの活動提案―偶数月例会、講演会、料理教室、
年2〜3回のシルクロード・ツアー など

「シルクロードクラブ・こまえ」はこんな活動を予定しています
@ シルクロードの歴史や文化、伝統などを学ぶ
A ウイグル族の伝統料理の講習、写真の展示会などを行う
B シルクロードに関する専門家の講演などを聞く
C シルクロードに関わるさまざまな機会を通して、交流を深めて友人をつくり、みんなの輪を広げていく
D シルクロードへのツアーを企画する
―06年5月連休は、西安〜敦煌〜汽車で〜トルファン各地へ―
―06年の夏休みは、タクラマカン沙漠縦断、中央アジア国境までなど
 E これらの活動を通して、新しい地域の仲間作りをすすめます
 F 年会費は2000円

問合せ先・参加申込み先(当日でも自由にご参加ください)
201-0003 狛江市和泉本町3−34−2
電話&fax:03−3480−4478   携帯電話:090-8512-4701
E−mail:silkroad-j@mtj.biglobe.ne.jp


パキスタンの大地震で緊急連絡
わたしと同じ「日本ヒマラヤ協会」の会員でパキスタンのイスラマバードで日・パトラベルというエージェントをしている、督永さんという友人からの地震の便りが入りました。労山の登山隊も毎年、お世話になっている会社です。転載します。災害復興のためのできる限りの支援をお願いします。
10月10日午後  野口 信彦


………………………………
> 10月8日(土)
> 怖かったぁ! 怖かったぁ! 
> 怖かった! 怖かったぁ!!

> 1分28秒もの長い横揺れ、震度5くらいだろうとは日本人たちの感想。
> 娘の勤めている政府ビルは、隣のビルとの隙間が10cmしかなかったのに50cmにも開いたというし、大きな書類を入れた本箱も倒れたと。
> オバハンの事務所でも鉄筋コンクリートの上に張ってあるレンガにヒビが入った。まだ余震が続いて、その度に心臓がドキドキする。

> オバハンは気づかなかったが、早朝から既に軽い地震があったと。余震は下から突き上げて来たり、横揺れだったり様々だが、本震より大きいのは来まいと、腹をくくっている。

> 地震直後の当地ニュースは混乱のきわみで、震源地はアフガンとの国境付近と報道したり、いろいろ。2時間後には首都イスラマバードから100km北部と訂正があったが、カラコルム・ハイウエー沿いの山村は中国々境のクンジェラブ峠まで1本道。おまけに現地は急斜面に建てられた石積み家が多く、救援物資の搬入はおろか、人命救助もままならない。

> インダス河沿いにはユーラシア大陸とインド亜大陸の縫合部があり、活断層が目に見える場所で走っている。約70年前にもコヒスターンを中心に大地震があり、数万人が亡くなったとも聞く。カラコルム・ハイウエーはクンジェラブ峠まで土砂崩れのため、全面封鎖。余震のせいで 土砂崩れはまだ続いている。
>
> ニュースなどで流れている、完全崩壊した高級マンションのマルガラ・タ ワーでは、軍隊が懐中電灯を手にして懸命の救助にあたっている。
>
> トクナガ


「シルクロード・クラブ こまえ」発足を準備中です。

 わたしは「日本シルクロード文化センター」という小さな研究サークルを主宰して活動していましたが、わたしの地元でも発足させていこうという声が高まりました。
 さる9月17日に拙宅で最初のミーティングを行い、今年中の発足を確認しあいました。
 早速、狛江市の公民館に登録をしましたので、これからは安く会場を使えることとなりました。
 会費は年2,000円で、隔月に集会とミーティングを交互にやろうというくらいのことは話し合っていますが、あまり固いものにしたくはありません。
 しかし、発足記念の集いはなるべく多くの仲間や市民の方々と一緒に開きたいと思いましたのですが、恰好の会場がありました。
 わたしが初代の会長をつとめた狛江山遊会の仲間で、かなり以前からの知り合いだった伊藤則子さんが役員をしている「泉の森会館」が狛江駅前にあり、4時間で使用料が15000円という額でしたので、この会場からスタートすることになりました。まだ設立二年目です。隣の泉龍寺というお寺さんの持ち物なのですが、則子さんが事務局長をしている「友の会」があって、協力し合いながら運営しているようです。運営の役員にもわたしの知り合いが何人かいるようです。
 期日は11月26日(土曜日)午後1時からです。詳細が決まり次第、この欄に書きます。

 10月9日  野口 信彦


新疆成立50周年、祝賀幹部大会が開催

新疆ウイグル自治区成立50周年を祝う幹部大会が9月30日、同自治区人民会堂で開催された。中央政府代表団団長の羅干・中国共産党中央政治局常務委員(中央政法委員会書記)は会議で演説を行い、新疆ウイグル自治区の今後の発展について次の4つの意見を提案した。

(1)科学的発展観をしっかりと確立し、全面的に実行する。新疆の経済・社会の発展を加速する。

(2)民族の地域自治制度を堅持、改善し、社会主義調和社会の構築のために制度的保障を提供する。

(3)民族団結という偉大なる旗印を掲げ、新疆社会の安定を固く守る。

(4)共産党の執政能力の建設と、先進性の建設を強化し、新疆が発展を加速するために確固たる組織的保障を提供する。

「人民網日本語版」2005年10月1日

鄭和――この偉大なる人類史上の英雄

歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっている。しかし最近、マゼランよりも100年ほど前の1423年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。

新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。

だが、イギリスの退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジース(Gavin Menzies)が、現存する鄭和の航海記録を調べなおしたところ、艦隊は1421年3月から1423年10月にかけて世界一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったという。

鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。

メンジースは、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、と指摘している。また彼は、イタリアのベネチアでは1428年にアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していたことから、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経てベネチアに運ばれたに違いないと主張している。

そして「この地図を見たコロンブスやマゼランらは、自分たちも航海をして貿易で大儲けしようと考えたのではないか」という理論を展開している。

▼ヨーロッパ勢より30倍大きな船

 鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だった。第1回の航海の2年前、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の造船が命じられた。航海が始まった後の3年間には、さらに1700隻の建造が進められた。これらの船は最大で長さ140メートル、3000トンの大型船だった。マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか80トン、コロンブスがアメリカ「発見」の航海で使ったサンタ・マリア号も80トン(長さ24メートル)だったから、中国勢はヨーロッパ勢より30倍以上大きな船を作れたことになる。

当時の中国は、造船技術そのものがヨーロッパよりかなり進んでいた。大きな船の造船や修繕にはドックを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが作られていたのに対し、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。造船技術だけでなく技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。

ところが、そんな明朝の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積された海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが朝廷内の紛争で焼かれてしまった。

それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を奨励したのに、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。

なぜそんなことになったのか。それは、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことと関係していると思われる。色目人はペルシャ・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指す言葉で、明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位の人々だった。中国人の圧倒的多数を占める漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。

元は100年ほどしか続かなかった王朝だが、チンギス・ハンがユーラシアを征服して以来、東ヨーロッパ、中東、東南アジアにまたがる世界帝国の中心となり、陸上・海上の貿易を通じて富を蓄えた。だが、元朝は国内運営に失敗して反乱によって滅び、反乱を率いていた農民出身の朱元璋(洪武帝)を初代皇帝とする明王朝に取って代わられた。

洪武帝は、貿易よりも農業など国内運営を重視する体制をとったが、3代目の皇帝となった永楽帝の時代になって、貿易と外交を重視する政策に代わった。永楽帝は甥に当たる先代の皇帝を内乱で倒して皇位についたが、内乱が成功したのは宮廷内の宦官たちが永楽帝に味方したからだった。

宦官とは、一夫多妻制の皇帝の家族がいる後宮に勤めるために去勢された役人のことで、明の時代には色目人が宦官になることが多かった。外国系の中国人であり、貿易帝国だった前の元王朝で高位にあった家系を受け継ぐ宦官たちは、永楽帝の時代に宮廷内の強い政治勢力となった。彼らは貿易の拡大を目指し、永楽帝自身が遠征の得意な人だったこともあり、この時代の明は領土と貿易の拡大をさかんに行った。この時代の宦官の頂点にあった人が鄭和だった。

▼宦官対儒家の戦い

古代から、中国の外交のやり方は「冊封」(さくほう)と呼ばれるシステムをとっていた。これは、中国の皇帝が周辺国の君主を家臣(王)として認め、中国が必要とする兵力などを出す代わりに、自国が他国から攻められた場合は中国が援軍を送る軍事同盟を結ぶとともに、中国との間で貿易を行う制度だった。

中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされた品々を贈った。周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。

冊封体制は、唐の時代まで中国外交の基本体制だったが、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制がとれず、その次の元の時代にはモンゴル人という異民族による支配だっため採用されなかった。冊封体制は、明の時代になって復活し、永楽帝の時代に拡大された。朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)など古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ、冊封国となった。(足利義満が冊封を受けたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれている)

鄭和の大航海は、この冊封体制をさらに世界に広げるためのものだった。財宝を船に積んで東南アジア、南アジア、中近東からアフリカまでの国々に配って回ったのである。これは元の時代のように中国を貿易帝国として復活させる試みだったと思われるが、これは宮廷内の色目人の宦官たちの勢力を拡大するためでもあったようだ。

当時の明朝の宮廷では、後宮で皇帝一族の身の回りの世話をすることを通じて皇帝の意思決定に影響を与えていた宦官たちと、皇帝に伝統的な政治哲学である儒教の教えをアドバイスする「儒家」たちとが勢力争いを展開していた。当時の中国では、支配者は儒教に沿って国を統治するのが良いとされていた。

宦官が海外貿易を通じて自分たちの勢力への富の蓄積をはかろうとしたのに対し、儒家は「海外貿易の拡大は国家財政の浪費になる」として反対した。イラン・トルコなどシルクロードの外国系の人々が多かった宦官は外交重視、中国の伝統を重んじた儒家は内政重視で対立したのである。

この宮廷内の対立は、鄭和に大航海を実行させた永楽帝が1424年に亡くなり、息子の洪煕帝や孫の宣徳帝の時代なって、儒家の勢力が強くなり、外交より内政を重視する政策がとられたことで決着がついた。宦官たちは何回か抵抗を試み、鄭和が世界中から集めた品々や地図などの情報を根拠に、外交や貿易を重視した方が良いと皇帝に進言した。

これに対抗するため、儒家勢力は1433年に鄭和の最後(7回目)の大航海が終わった後、大航海の記録や文物を保管してあった宮廷の保管庫に放火するという謀略を行い、鄭和が集めた情報を焼失させた。こうした経緯があるため、鄭和の大航海の全容は分からなくなった。

そして、断片的に残って後世まで伝えられた航海記録をイギリス人研究者メンジースが調べたところ、鄭和の艦隊が世界一周をしていた可能性があることが分かったのだった。メンジースは今年9月、鄭和の世界一周について詳しく書いた本を出す予定になっている。

▼鄭和より前にアラブ商人が世界一周していたかも

 とはいえ、鄭和よりもっと前に世界一周をしていた人々がいても不思議ではない。アフリカ一周航路の存在は古代エジプト時代から分かっていた可能性があるし、8世紀に起こったイスラム帝国の商人たちは、すでにアフリカ東海岸を南下する航路や、インド洋を横断する航路を頻繁に行き来していた。アラブ商人たちが、インド洋のもっと先の太平洋から南米に達したり、アフリカ南端を回って南米方面に向かっていたとしても、不思議ではない。

「地理上の発見」とか「大航海」といったような概念は、15世紀まで西欧からほとんど出たことがなかったヨーロッパの人々にとって「発見」であり「大」航海だった、というだけのことだ。その後、西欧文明が世界と「世界史」を支配するようになったから、「人類初の世界一周はマゼラン」ということが「常識」になったのだと思われる。

また中国の学会では、すでに1980年代に「鄭和の艦隊はアフリカ南端の喜望峰を回り、アフリカ西海岸まで達していた」という指摘がなされ、鄭和がどこまで行ったのかということについて、ずっと議論が続けられてきたという。

☆鄭和の伝承は、上記のような理由でナゾの部分がかなり多い。イギリス人研究者メンジースの著書はすでに日本でも発刊されており、わたしも読んだが、読めば読むほどその信憑性に確信を抱かせる内容となっている。ぜひ、ご一読をお勧めしたい(野口)。


チベットと青海にまたがるココシリ

世界有数の秘境に初の大規模調査

中国科学院は9月22日までに、中国チベット自治区と青海省にまたがる世界有数の秘境、可可西里(ココシリ)地区について、初の大規模な科学的調査を開始しました。共産党機関紙・人民日報などが伝えました。

ココシリは、チベット語で「美しい少女」を意味しますが、平均標高5300m、高地寒冷で酸素も薄く自然条件は最悪。中国最大の無人区で、「人類生命の立ち入り禁止区域」とも呼ばれています。新華社電によると、ココシリ地区の自然条件が世界の乾燥・寒冷現象に影響を与えているともいいます。

調査チームは女性科学者を含む20人で構成。@青蔵高原は隆起し続けているか、すでに沈下しているかA石油や金、銅などの鉱物資源が埋蔵されているかBチベットガゼルなど希少動物はどの程度生息しているか―などを、3年連続で季節ごとに計40日以上にわたって調べます。

中国科学院青蔵高原研究所の丁林研究員は、「ココシリに関する科学調査は100年以上前から行われてきたものの、(不便な交通、激変する天気、高山病などのため)限定的なものだった」と説明しています。


【中国】中央党校:政策に注文、貧富の格差を強く警告

中国共産党中央党校が発行する「学習時報」が、労働・社会保障部労働給与研究所が発表した報告書を掲載した。この報告書は、貧富の格差の拡大を強く警告している。中央党校は中国共産党の理論面における最高権威であり、政策への影響が注目される。19日付で中国新聞社が報じた。

報告書は、「中国における収入の格差は2003年以来、急速に拡大し、すでに『イエロー・ゾーン』の状態だ。有効な措置をとらなければ、5年以内に『レッド・ゾーン』に突入する」と、きびしい調子で警告した。

人口の20%を占める貧困層の収入及び支出は全人口の収入及び支出の4.7%。その一方で、人口の20%を占める富裕層の収入及び支出は全人口の収入及び支出の50%に達している。国際的に貧富の格差を示すジニ係数の「警戒ライン」は0.4とされているが、中国のジニ係数はすでに0.45。しかも、さらに上昇する傾向が明白だ。

報告書では、「隠し立てせずに直言すれば、このような状況は市場化という改革にともなって出現したのであり、歴史的な必然性と合理性を伴うものだ」「改革開放の初期の段階では、農民が恩恵を受けた。その後、改革が企業と都市部に広がり、チャンスをものにした民間企業経営者や金融投資者が富裕層となった」などと、改革開放の本格化以降の流れを総括している。

その上で、「多くの国と地域の経験を見ても、一人あたりのGDP(国内総生産)が1000ドルから3000ドルに向かう段階は、社会矛盾の多発期となる」「中国はまさにこの段階であり、政策決定者は貧富の格差の問題を特に重視しなければならない」などと、政権担当者に警告している。

 また、中国の富裕層に関して、「かなりの人、特に最も富んでいる人たちが、『官』と癒着している」ことを指摘。また、「大企業は行政と結託して独占的地位を築き、新規参入者を排除している」「国有企業の経営者と公務員は、各種の不正な手段を用いて、国有資産を蚕食している」などとして、豊かになるための「機会の平等」が失われていることを強調した。

報告書は、「中国は社会主義の初歩的段階であり、社会全体に富を蓄積しなければならないという大前提がある。当面は『効率』と『公平さ』の関係を見直すべきでなない」としながらも、「効率を優先しながらも、公平さに目配りすることが必要だ」として、「この問題の鍵となるのは政府だ。政府は公平さの維持という職責を確実に果たし、その上で市場化を完成させて効率を引き上げるという任務がある」と論じた。

 また所得税に関して、徴収の対象となる年収の最低ラインを引き上げ、中程度の収入のサラリーマンの多くを課税対象からはずしたことに関しては、「よいシグナルだ」と評価したが、「政府のやるべき仕事は、これ以外にも非常に多い」と主張。国有資産権の改革の秩序ある推や、各種の行政がらみの独占を排除して、健全な社会保障のを確立することなどを求めた。

報告書は最後に、市場化の流れそのものを抑制する選択は考えられないことを強調した。「『汚水と一緒に子どもを捨ててしまう』ことは、絶対に避けるべきだ」として、法治がゆきとどき、公正で健全な市場経済は「我々の不動の目標であり、この大きな方向性が揺らぐことは受け入れられない」と結論づけた。(編集担当:如月隼人・田村まどか)

☆わたし(野口)が昨年(04年)末、南新疆で実施した実態調査では、農村地域の年間収入が500元(14円換算で7000円)という驚くべき低収入でした。さらに、年間でほとんど無収入の農家もあるという報告もありました。そのときの調査の主要目的は子どもの就学率と中途退学の問題でしたが、中央党学校の「学習時報」では、ひと言も農村の実収入を数字で表わすことをしていませんが、それによっても驚くべき貧困の実態が分かろうというもの。

新疆天山野生動物園、開園間近


  新疆ウイグル自治区にある新疆天山野生動物公園は、9月20日に正式開園する。開園時には、「新疆天山野生動物保護地」の名称も同時に使用される。

  新疆天山野生動物公園は9月20日の開園時に、砂漠荒地区、高山草食動物区、猛獣区(虎館、ライオン館、熊館、豹館、狼館)、鳥林、猿島、白虎館、アフリカ草食動物区、歩行鑑賞区などを開放する予定である。

  正式開園に向けて、天山野生動物公園は69種1147匹の動物を準備している。内訳は高山草食動物6種145匹、砂漠荒地草食動物9種168匹、鳥類45種275羽、虎15頭、ライオン15頭、豹14頭、狼21頭、熊23頭、猿200匹、白虎2頭などである。天山野生動物公園はまた肉食動物の食物を保障するために、1600頭の羊、2000羽の鶏、1000羽のウサギを飼育している。

  敷地面積75平方qの新疆天山野生動物公園は博格達南麓自然保護区の一部分として建設されており、ウルムチ市区から25q離れた達坂城区天山牧場二隊に位置している。

  動物園全体が柵で囲まれた野生動物放し飼い区になっており、観光客にとって魅力的な放し飼い区には砂漠荒地動物区、山地草原動物区、猛獣区、鳥類の楽園などが計画されている。園区内の野生植皮は砂漠荒地、半砂漠荒地植物が中心となっており、植皮と生態系が広大な放し飼いを保障しているが、放し飼いは草食動物の主で、従としての希少動物、猛獣は囲いの中で飼育されている。

  「チャイナネット」2005/09/19
☆数年前からこの野生動物園ができることは聞いていましたので、開園が望まれていました。
今年、ウルムチからの高速道路を走っていたときに、「近日開園」の広告を見ました。

願わくば、飼育される野生動物類が清潔で衛生的な環境で飼われることと、近隣に居住する少数民族や一帯の環境に配慮したものになることです。
少なからぬ人々からは、「どうせ、金持ちや外国人に向けた観光用なのだから・・・」という声も出ています(野口)。


野生のユキヒョウ2頭を保護 新疆



  新疆ウイグル自治区巴音郭楞蒙古自治州の野生動植物保護処が保護に成功した野生のユキヒョウの子2頭が、40日以上の世話を受けた後このほど、同自治区野生動物救護センターに移された。現地の林業局野生動植物保護処によると、和静県巴音布魯克区の少年2人が7月下旬、山の上でユキヒョウの子2匹を拾った。保護処の職員などが多方面に連絡を取った結果、巴音布魯克林業検査局に引渡し、専門の職員が世話をすることが決まった。ユキヒョウは、国家が指定する絶滅危機動物で、海抜2700〜6000メートルの雪山に生息する。動物学者からは、「地球上で最も美しい高山動物」と呼ばれる。(編集SN)

  写真(左):保護したユキヒョウの子を外に連れ出して訓練を行う職員

  写真(右):保護された野生のユキヒョウの子

  「人民網日本語版」2005年9月21日

☆ユキヒョウ(雪豹、スノーレパード)は、岳人にとっては憧憬の的です。わたしの友人も、このスノーレパードの名前を冠した登山グループをつくっているものがいます。まさに「地球上で最も美しい高山動物」です(野口)。


世界女性会議10周年を記念         8月31日 「赤旗」
    80国地域の800人集う   北京

1995年に北京で開かれた第4回世界女性会議の10周年を記念する集会が29日、北京市内のホテルで開かれました。「性の平等の促進、共同発展の実現」のテーマのもと、世界80ヶ国・地域の政府および非政府組織(NGO)の代表約800人が参加し、男女平等や女性の地位向上に関する10年間の成果を総括しつつ、今後の発展方向について意見交換しました。

 同日午前、北京の人民大会堂で開かれた開幕式では、中国の胡錦濤国家主席が演説。中国の発展水準と教育・文化水準はまだ低く、女性の生存、発展、権利保障の面では、「いっそうの改善が必要だ」とのべました。胡氏はとくに、「世界の女性の命運は世界の平和・発展に緊密な関係がある」と指摘しつつ、平和な国際環境づくりの必要性を強調しました。

胡氏のほか、スリランカのクマトラトゥンガ大統領、モザンビークのディオゴ首相(ともに女性)らが演説しました。

日本からは約20人の代表が参加。新日本婦人の会の高田公子会長は、「アジアアフリカの国々が第4回女性会議で決めた『行動綱領』を実践し、女性の地位向上で努力していることが分かりました。モザンビークでは、議会の35%を女性が占め、女性の閣僚も二ケタを超えています。『行動綱領』」が大きな役割を発揮していることを実感します」と語りました。 

☆ 中国・新疆も含めた女性の権利と地位向上の課題が一歩一歩前進する会議が開かれたこ
とは有意義なことです。昨年末、わたしが新疆各地を訪れた際に、各地で見聞した男尊女卑の悪しき習慣のもとで、人には言えぬ差別と屈辱のなかで生活している女性たちに、速やかに胡錦濤主席の声が届くよう願うのみです。しかし、国家主席の声でさえも、南疆の極貧の農家の女性にまで浸透するには、まだかなり時間がかかるといわなければならないだろうと思います。それが現実です――野口



環境汚染に抗議、衝突             朝日新聞 8月31日
 中国沿海部 急成長のツケ    大規模、3ヶ所以上で


 経済発展に伴ない住民と地元当局との衝突事件が相次ぐ中国で工場からの汚染物質の排出による健康被害を訴える住民が当局側と衝突するケースが増えている。沿海部の浙江省だけで4月以降、少なくとも3ヶ所で環境汚染をめぐる大きな衝突がおき、多数の負傷者を出した。発展に取り残された貧しい農民や出稼ぎ労働者らによる不満に加え、経済的に豊かな沿海部でも深刻な環境汚染への不満が広がっている。

 
負傷者多数
上海から約180キロ離れた浙江省湖州市長興県煤山鎮。8月中旬、地元の電池工場から排出された鉛の大気汚染に抗議する千人以上の住民が1週間にわたって工場の出入り口を封鎖し、工場閉鎖と患者への治療を求めた。
 20日には、れんがや石を持った住民が約600人の警官隊と衝突する事態となった。目撃者によると、住民の一部が工場に火をつけたほか、警察車両4台を燃やした。警官隊も催涙弾を発砲するなどしたが、双方に50人以上の負傷者が出た模様だ。
 鉛の汚染の被害は周辺10ヶ村に広がり、特に子どもの健康被害が顕著だという。4月に被害が発覚後、地元当局が住民への監査を実施。住民の話では、工場に最も近い人口約900人の村で16歳以下の9割にのぼる130人が、血液中の鉛の含有率が通常より高かった。記憶力は鈍るなどの被害があり、子どもを地元の学校から転校させる親も増えた。
 住民側は地元当局と交渉を重ねたが、解決せず、6月以降は断続的に工場封鎖など実力行動を取ってきた。抗議行動に参加した男性(41)は「子どもを守るために立ちあがっている」と話した。
 同省新昌県でも7月上旬から中旬にかけて、製薬工場による水質汚染を巡って多数の住民が工場を包囲して抗議の声を上げた。香港紙の報道では、参加者は数千人にものぼり、けが人もいた。
同省東陽市では4月、農薬製造工場による水や大気の汚染に抗議した1万人以上の住民が警官隊と衝突し、150人以上の負傷者を出したとされる。
香港紙によると、公安省が把握した全国で起きた暴動などの抗議行動は1994年の1万件余りに対し、04年は7・4万件あまりに急増。対立のきっかけは工場建設のための農地の強制収用や役人による汚職などへの不満が多いが、急速な工業化に伴う大気汚染や水質汚染などで住民の健康を害する抗議行動も増えている。

意識高まる
特に沿海部の浙江省は改革開放政策の実施以来、民営企業による経済発展が著しい一方、環境対策が不十分な企業も多く、大気や河川の汚染などにより、発ガン率が高いとされる地域もある。経済的に豊かな住民の間では権利意識も高まっている。一連の衝突が起きた地域では、行政側は排出企業の操業停止などの措置をとり始めたが、損害賠償などの被害者対策は遅れがちだ。
中央政府は危機感を深めており、温家宝首相も3月の全国人民代表大会(国会に相当)で環境保護の強化を訴えた。ただ、中央政府の方針が地方まで浸透しにくいのが実情だ。


☆ 7月28日の朝日新聞は6面の国際欄トップに「オアシスの町に貿易熱 隣に5ヶ国 中国・カシュガル地方」と題する特集記事を組みました。記事のリード部分と見出し及びカシュガルの紹介部分のみ転載します。それにわたしの寸評を加えます―野口

かつてシルクロードの交易都市として栄えた中国西端部のオアシスの町カシュガルが再び、中央アジアと南アジアへの貿易拠点として活気づいている。この地方が5ヶ国と接する地の利を生かし、貿易拠点から脱皮して、日用品や電化製品などの加工貿易基地への成長も目指す。現代版「シルクロード」の復活を感じさせる最前線の現場を見た。


 家電や医療、各国へ   商機、次はアフガン   設備投資急増 一気に10年分

カシュガル=シルクロードの主要なオアシス都市として発展し、中東や中央アジアのイスラム世界とも結ばれた。04年の人口は約360万人。うちトルコ系のウイグル族が9割を占める。カシュガル地区は1市11県で構成。同経済圏はパキスタン、インド、アフガニスタン、キルギス、タジキスタンの5ヶ国と接する。国境が開放されているのはパキスタン、キルギス、タジキスタンの3ヶ国。

野口==近年、カシュガルの変貌ぶりは著しい。新疆で最大規模を誇るエイティガルモスク周辺も美しく飾り立てられており、久しぶりにカシュガルを訪れた人は驚く。いままでその地で営業していた人々は、外来資本による店舗をそれまでの数倍の賃借料を出さなければ仕事ができなくなってしまった。カシュガルの発展のために・・・・・。
シルクロード特有のポプラ並木も大胆に伐採されて道路の拡幅工事が施され、パキスタンへの道=中国・パキスタン友好道路=カラコルムハイウエーも大型トラックがスムースに往来できるような工事が大規模に進められている。伐採して売り払ったポプラの樹は役人の懐に入ったということは、町中の人びとの常識になっている。
カラコルムハイウエーの半ばにカラクリ湖という美しい湖があり、数キロ先にはムズターグアタ峰(7454m)のベースキャンプがある。キルギス族がそこの水を飲み、そこの草を食べた羊を食べている。しかし、最近の情報では、北京やウルムチの資本がその地域一帯を買い占めて一大リゾートセンターを作る構想が浮かび上がっている。ベースキャンプから頂上までのゴンドラも計画されているという。高度障害を無視して・・・・・。
このような状況を「発展」と見る見方もあろうが、一方で、「ほんらいのシルクロードがなくなってしまう」という良心的な旅行社・観光関係者の声もある。しかも、カラクリ湖とそこから流れ出る水を飲んで生活しているキルギス族などの少数民族の生活はどうなるのだろう。大型バスが続々と乗りつけられ、やがて建設されるであろう大きなホテルから出されるし尿にまみれた水を飲めというのだろうか。先住民のかれらにはいまだにひと言の相談もないという。中国では「政府の決定は国民の声」なのだから・・・・・。



                  G1登頂なる
                       2005年7月29日
                                             日本勤労者山岳連盟
                                             事務局長 川嶋燻u
2005年7月29日(金)13時50分にパキスタン・カラコルムのガッシャーブルムT峰、ベースキャンプより、日本勤労者山岳連盟ガッシャーブルムT峰登山隊2005の近藤和美隊長から全国連盟事務所へ、以下のとおり、衛星携帯電話で連絡が入りました。

パキスタンカラコルムにそびえる、世界第11位の高峰、ガッシャーブルムT峰(8,068m)に、困難な西稜から挑んでいた日本勤労者山岳連盟ガッシャーブルム登山隊2005 近藤和美 隊長(63歳)以下6名は、7月28日の12時10分(現地時間)に藤川勝人 登攀隊長(39歳)とネパール人高所ポーター プラ・チリ・シェルパ(35歳)が登頂に成功した。30分後、ネパール人高所ポーター ティカ・ラム・グルン(30歳)とダワ・ヌルグ・シェルパ(32歳)も登頂した。

この日、北面のジャパニーズ・クロアールから挑んでいた韓国隊も、ほぼ同時に登頂した。今年のシーズン最初の登頂とのこと。
他の隊員は8月上旬に頂上アタックをおこなう予定。

※その後の連絡では、登頂者はこの第一次登頂メンバーのみで、時間切れのために終了しました。


中国西北部のシルクロード 遺跡の9割、被害深刻
  風化・雨水の侵食が原因         8月3日 朝日新聞

中国西北部のシルクロードに点在する石窟や土の建造物など約1200ヶ所の遺跡の約9割が、砂漠化や雨水の侵食などで深刻な被害を受けていることが、中国・甘粛省の敦煌研究院の調べで分かった。原形をとどめていない遺跡が多く、石窟内の壁画や塑像などの破壊も目立つという。
同研究院や国営新華社通信によると、陝西省、新疆ウイグル自治区につながるシルクロード沿いには、国が指定した文化財が100ヶ所余りある。仏教美術の宝庫として知られる敦煌の莫高窟や万里の長城などの遺跡が多い。莫高窟などは保存措置が講じられているが、万里の長城の一部や古代の都市遺跡、石窟寺などでは城壁や土壁が崩れて原形をとどめておらず「土の塊となった部分が多い」という。
主な原因は、長期にわたる砂漠化による風化、雨水の浸食など。
深刻な被害が認められなかった1割の遺跡も、破壊が進む可能性は高いとみられている。同研究院は、甘粛省や新疆ウイグル自治区内で修復可能な100ヶ所余りの遺跡の被害の実態を調べ、修復する方針。約11億円を投じた国家プロジェクトとして、今年から同自治区内で大掛かりな修復作業が始まっている。



「幸福の鉄道」建設急ピッチ   6月28日読売夕刊


世界一の高度を走る、チベット発の鉄道「青蔵鉄道」(青海省ゴルムド〜ラサ間、全長1142km、平均海抜4500m)の敷設工事が、来年7月の試運転に向けて急ピッチで進められている。ラサ北方100kmのヤンパージンを27日、訪れると、現場には「鉄道建設は各民族に幸福をもたらす」のスローガンが大きく描かれていた。

人口の92%がチベット族のチベット自治区は、中国の省・自治区で唯一、鉄道のない後進地区。同区への鉄道建設構想は1950年代からあった。
2001年、沿海部との経済格差解消を目指す「西部大開発」が始まると、青蔵鉄道は、経済発展の基礎を作るインフラ整備の目玉事業となった。区観光局は「開通すれば観光客は現在の年間122万人からさらに90万人増が見込める」とそろばんをはじく。

だが、北京〜ラサ間は鉄道で3日近くかかる。飛行機ならば北京や成都などから数時間で、「観光客の大部分を占める中国人は会社を休んで来ているので、時間のかかる旅は・・・」と首をかしげる地元の旅行業者もいる。
青蔵鉄道は来年中に貨物列車を走らせ、07年7月には客車も走る見通し。区発展改革委員会は野生動物への配慮などから環境対策費がかさんだと強調、総工費は「300億元(約4500億円)を上回るのが確実」という。

※ ここチベットも、新疆と同様に観光収入本位の政策がますます強化されています。そのひとつの帰結としての鉄道建設が進んでいます。地元のチベット族の人たちは、「得るものは少なく、地下資源など奪われるものばかり」と言っています。
※ しかも鉄道建設は環境にとって最悪のもの。チベット高原にはまだまだ無数の歴史遺産などが埋蔵されており、しかもその発掘作業はほとんど実施されていません。その面の施策も大いに望みたいところです(野口)。


夏  の  旅

台風襲来

2005年7月26日

おりしも関東地方は台風7号の直撃にさらされようとしていた日だった。「おそらく今日のフライトは無理だろう」と腹を固めて車に乗った朝9時半。

わたしたちの14:55のフライト時間のあとの5時以降は、台風襲来でチケットの発券を中止しているとのことだったので、おそらく運航中止だったのかもしれない。

金井麻美さんははじめての飛行機でのウルムチ入りとのこと。前回は神戸から船で往復したということである。北京の気温は30度、ウルムチは20度くらいであった。深夜1時に出迎えの皆と会う。
ウルムチが再びわたしを出迎えてくれた


5人でホテル前の夜店で缶ビールとカワップ二本ずつで腹を癒し、共同経費の管理者に麻美さんを決める。

27日
ホテルの部屋に入って午前4時ころ寝る。午前6時半、2時間半の睡眠で眼が覚める。
朝9時、いつものヌルさんの友人が経営しているレストランにみなで行き、朝食を済ます。ポロとチャイとマントウ、そこへヌルさんがやってくる。

最初のアクシデント
朝10時、出発時間になってもオスマンの車が来ない。余りにも来ないので、みなですぐ近くの「国際大バザール」付近に散歩に行く。やがて昼食の時間になってもオスマンはまだ来ない。ヌルさんが電話で呼び出して、そのうち「車が故障」とのことが分かった。
次の情報では、「車のオイル交換を頼んでいたが、そこの人間が無断で車を動かしてしまい、警察に捕まって逃げてしまった。車は警察に留め置かれている」とのこと。そのものの関係と、車を返してもらうのに時間がかかっているとのことであった。そのような場合、車は普通、1〜2週間留め置かれるが、元警察官の「尽力ですぐに出すことができた」。車を乗り逃げされるという失態より、コネで車が早く出てきたことを自慢する。おかしな論理である。「それなら、なぜ、最初からそのように言わないのか」といったが、わけのわからないことをいっていて要領を得ない。
結局、車がやってきて出発できたのが、27日午後6時20分。8時間以上遅れての出発。
オスマンは、精神的にも肉体的にも朦朧(もうろう)状態。とにかく行けるところまで行って、そこで考えようとのことで車を進めた。

28日
旅のスタートはいきなり車中ビバーク

車を運転するオスマンの状態があまりにも異常なので、午前2時すぎ、車を止めて、そこで車の中で睡眠をとることにする。オスマンは敷物を車外において寝る。

外がまだ真っ暗な午前7時すぎ、オスマンを起こし、ともかく車を発進させる。やがて雨。猛然とした雨になる。やはりオスマンの眼が眠気でおかしくなる。やむを得ず克也に運転を交替させる。しかし、オスマンは麻美さんと車が気になって余り寝ない。「オスマンが睡眠をとることは、わたしたち5人の安全のために必要なのだから寝なさい」といっても無駄のようであった。

午後6時、まだ太陽が燦燦と輝くクチャ賓館にやっと到着。久しぶりにゆっくりとシャワーを浴びる、夕食は、ダーパンジーをメインに6人で175元。しかし、結局、車のアクシデントが原因でクチャのクズルガハ千仏洞などの観光ができなくなった。

29日
 
再び最悪のアクシデント
午前6時、8時間近く熟睡して眼が覚める。
午前9時、クチャ賓館を出発。ドライバーのオスマンはホテルを出ると、真正面のバザールで混雑しているなかに車を乗り入れて、ものすごいスピードで通り抜けようとする。「こんなに人がたくさんいるのに危ないからスピードを落とせ!」と叱る。しかし彼は「遅いスピードだと、今日中にニヤまで行けません」と口答え。よく“車のハンドルを握ると人が変わってしまう”という言葉がドライバーの世界にあるが、彼もその典型の人物だということが改めて分かった。「行けなくてもいいからゆっくりいきなさい」と繰り返す。しかし、まもなく彼の態度がおかしくなった。やはり、と思って「道を間違えたのかい?」と聞く。“バレタか”という表情で彼はしぶしぶ認める。

間違えた道を行くが、なかなか「タクラマカン沙漠公路」に辿りつけない。しかも夏の暑さで大きく波を打っている道路を猛烈なスピードで走るので、車内は大揺れである。と、そのうち“カタン”という車の音がして止まった。それきり車は動かなくなった。まもなく沙漠公路に入るであろうと言うゴビ灘の真ん中である。悪路をむやみに飛ばした関係でガソリンがエンジンに入る回路が切断されたようである。

日本から彼と国際電話で話したとき、「新しく車を買いました。エアコンもついています」といわれた。それに期待して彼の車を使用することにした。だが、わたしの目論見は見事に失敗した。
第一に、彼は車を買ったのは確かだが、その車は新車ではなかった。
第二に、彼はその運転技術が必ずしも高くない。「運転技術」とは、ハンドルをまわし、加速・停止を巧みに操ることだけではない。その上に事前の車の整備、行程と地図の確認、乗客の安全に対する配慮など総合的な技術のことを言うのである。“ハンドルは心で切れ”である。彼はドライブテクニックとは、ハンドルを回しアクセルとブレーキを踏むことだと思い込んでいる。
第三に、しかもこの車はすでに10年の車歴があり、27万kmも走っている立派なオンボロ車である。克也が運転しているとき、運転席の下から雨で跳ね上がった水が克也のお尻を直撃したとのスゴイ車である。

暑い中を待ちながら考えた。このまま彼の車に乗っていても修理できるかどうか分からない。修理ができてもその先でまた故障する可能性が大である。ここは彼が帰って来るのを待って、車を換えることを言おうと思う。かわいそうだが、それが近代合理主義の「契約」というもの。無論、先渡しした50000円は約束を果たせなかったのだから返してもらう。タクシーでニヤまで行き、そこかあるいはホータンで車を探す。

結局、今からニヤまでいけばせっかくのタクラマカン沙漠縦断を真夜中に通ることになってしまうので、クチャに戻って、明日、出直すことにしようとなった。二台のタクシーをつかまえて合計310元。

再びクチャのホテルに戻ったわたしたちのうち、カメラマンの克也と若きフォトジャーナリスト志望の麻美さんがバザールを撮影しに行くというので、孝雄さん、前澤さんたちと3人で散歩しながらビールを飲みに行く。私の靴をオスマンの車に置き忘れ、サンダルも壊れてしまったので、ホテルの薄い部屋履きサンダルを履いていく。しかし、それが道行く人の注目を浴びることになってしまった。夕食は一人二本の冷たいビールとカワップと涼麺で腹いっぱい。

30日
新しい車のチャーター

きのうのうちにヌルさんと電話で話し、今朝、「大自然旅行社」の女性社長が来て、チャーターする車のことで話し合うことになっている。ヌルさんでなければこういうことは解決できない。「地獄で仏」とはこういうことを言うのであろう。5000元でカシュガルまでやってくれることになった。みんなからは10000円を集めた。

午前11時に車が来てスタート。社長は5000元の札束のうち3000元を漢人のドライバーに渡した。水やハミ瓜やナンを買い求めて出発。2時間ほど走ってからタクラマカン沙漠公路に入る。しかし、その前にきのうの輪南石油賓館前を通過するのでオスマンがいるかと思ったがいなかった。彼の携帯電話は麻美さんが預かったまま。だから彼はどこかの公衆電話からかけてくる以外に連絡が取れない。

大公共事業
灼熱の太陽の下、車ははじめゴビ灘を走る。沙漠公路に入るとやがて道の左右に20本ずつの黒いビニール様のパイプが道路とともに設置してある。2〜3kmおきに赤い屋根と青い壁の「水井房」と書いた小屋がある。しばらく走ってから、そこを訪ねることになった。そこには夫婦が住み込みで働いていたのである。クチャや輪台に近い側ではその地域の人が、ニヤに近いところではその近くの人が採用されているようである。

彼らの給料は一人700元、2人で1400元である。現金収入の少ない農村地帯での貧困地域では、願ってもない仕事なのかもしれない。しかし訪れる人も少なく、テレビの電波も届かない。コンビニもないここの日常はどういうことになるのだろう。小屋と小屋が2〜3km離れたここでは、かなり「隣」との付き合いがあるようで、同じ制服の人たちが上り下りの坂道が多い沙漠公路でペダルをこいで、お隣さんちに走っている姿が見られる。この小屋は合計で107軒あり、そのうち25前後は無人であった。

タクラマカン沙漠公路内の分岐点である「塔中」で分かれて、ニヤ(民豊)方面に向かう580kmのタクラマカン沙漠公路を走り抜けて、やがて車はニヤの街に入る。今迄で一番きれいでないホテルに入ったが、シャワーを浴びる気もしない。ホテルのレストランで用意していてくれた料理を食べる。冷たいビールで人心地がつく。

31日
軽く宴会

翌朝、8時朝食(新疆時間では6時)だったが7時ころ起きだして、まだ薄ら寒いホテルの玄関前に出て朝の空気を吸ってからビールを飲む。朝、一人で飲むビールは格別である。しばらくするとアルコール浸りのような前沢さんが起きだしてきて、わたしが飲んでいるビールを見ると「オッ」とばかりに眼を輝かせる。2人で朝の「軽い宴会」である

こうして再びニヤからホータンまでの車の旅が始まった。今度は安心して乗っていることができる。ドライバーはやはりプロである。この道は沙漠公路とはまた違って、あたりの光景がわたしを飽きさせない。

ホータンの夜
なつかしのホータン賓館に着いたが、ホータン師範大学の数学教授である友人のアイラッティへの電話がつながらない。後で聞くと彼の携帯電話は持ち主が替わっていて通じなかったのである。彼の家の電話が通じなかったのは、その日は家族でドライブにいっていて留守だったので通じなかったという。

まだ陽の高い午後に着いたので、それぞれバザールに繰り出す。人ごみの中を麻美さんと歩いていると、ウイグル人が何気なく彼女の胸に触ったという。そういう輩もいるのだ。どこでもそうだ。

夕食をホテル横のレストランでとった。ビールを飲みながら楽しく話しているとわたしが所持していたオスマンの携帯電話が鳴った。それまでは彼のお母さんや叔母さんや友人たちからの電話だったのが、こんどはオスマン自身からだった。

「野口先生ですか?私は今ウルムチにいます。車は修理できませんでした。コルラからトラックをチャーターして現場から車を積んでもらってウルムチまで運びました。ほんとうにごめんなさい」という。車の状態は最悪だったのだ。やはりあそこで彼を待たないで出直したことが結果的によかったのである。

「オスマン!大変だったね。しかし、私たちも大変だったよ。せっかく計画したスケジュールは滅茶苦茶になるし、別の車を探さなければならなかったし・・・・。5万円を先渡ししたけれど、約束は果たせなかったし、あの5万円は返してもらうよ。オスマンとの友だちの関係をなくしたくないし、必ず返してほしい」。

8月1日
友との再会

朝、9時40分という出発間際になってもアイラッティと電話がつながらない。そこでホテルの売店の女性に聞いてみると、彼の電話番号を知っていた。寝ていた彼に電話をすると「すぐ行きます」と言って、出発時間の10時になってから来た。

10時の出発が40分もオーバーしていたので、別れを告げると「いけません。ウイグル人の習慣では食事をしなければ友だちを返せません。そんなことをすれば野口さんとは友だちでなくなります」。結局、私も案内してもらったことのある“新疆で一番おいしいサモサ”を12個も買ってくれて円満に別れることができた。しかし、おいしかった。

再び、沙漠周縁をめぐる車の旅が始まった。今度は集落と集落の間を走り抜けるので、見る光景も飽きない。

やがてまだ陽の高いカシュガルに入る。
車中でカシュガルの友人ヤルクンジャンに電話すると、彼は予定をキャンセルしてわたしたちをホテルで2時間も待っていてくれた。しかも彼のお爺さんが今日、入院したとのことである。頭が下がる。

2日
標高3600mのカラクリ湖観光

今日はカラクリ湖見物である。みなは余り仏教遺跡には興味がないようなので、景色のいいところがいいだろうということでカラクリ湖行きとなった。

朝、出発時間の9時にフロントに集まると外は雨。6月15日にもかなりの量の雨が一日中降って、日干しレンガの家がいくつも崩れたとのことである。雨のなか何十回もカラクリ湖に行っているドライバーの運転で出発。やはりオスマンの運転が下手だということがよく分かる。崑崙山脈に入ってコングール山群が見えてきた。最高峰は新疆でも最高峰の7645mである。

カシュガルからカラクリ湖まで198km、約4時間の道程だが、思ったより撮影に時間がかかり5時間近くかかってカラクリ湖に着く。途中の道路もかなりの部分で工事が施されており、以前よりもはるかに走りやすい。前にあった道路が河の濁流で壊されていたりしている。山に入ると良い天気に変わったが、ムスターグアタ(7546m)の頂上は雲に隠れて見えない。今年は沿海部や内陸部の漢人の観光客が以前よりもぐっと増えた。日本人が持っているようなカメラを持っているものも多い。カラクリ湖の3600mでビールを飲んだが、やはり余り飲めない。食事も「ソロリ」という感じで“慣らしビール”である。

好々爺との出会い 
偉大な詩人マホメット・カシュガリーの墓があるウパール村に立ち寄る。車の泊まったバザールに固まっていた何人かの年寄りたちのなかにかわいい顔をしたおじいさんが、麻美さんにニコニコ笑いかけている。歳を聞くと75歳。今まで実際の年齢より10歳は老けて見えたウイグル人の年寄りで、実際より若く見えた年寄りははじめてである。わたしの年齢を聞くと40歳という。克也は20歳、孝雄さんもはじめて50歳といわれた。そのおじいさんと40歳と言う年寄りのような男と麻美さんと4人で記念撮影したとき、年寄りくさい男が、麻美さんの肩にオズオズといった感じで手を回してくる。わたしがそれを見て、ほかの年寄りたちに見えるように手を取り上げてぶつまねをする。ほかの年寄りたちは大笑いである。たまにしか来ない若い女の子の体の一部にでも触れたかったのだろう。イスラームでは禁じられているのに。しかし、わたしはあの男の、たまにしかめぐってこない歓びの機会を摘んでしまい、夢を奪ってしまったのかと、今では後悔している。

4時間近くかかってカシュガルに帰り、職人街に入る。1時間ほど歩いてからヤルクンジャンの言う、ポロのおいしいレストランに行くが、ビールがないといわれると、みなの一斉のブーイングでキャンセル。違うレストランに行き、わたしはポロと鳩のカワップ。凍る寸前のようなビール、だがおなかの調子がまだ本調子でないので余り飲めない。

返金論議
食事中、麻美さんの発案で、オスマンからいくら返してもらうか、について論議。結論は、5万円としては返してもらう。だが、クチャまでいってくれた労賃として1万円は払おう、ということになった。しかし金を返さないとか態度が悪い場合には払わない、という結論になった。

3日
朝9時に朝食。個人旅行なので自分たちで食べればいいものを、わたしがフロントに下りてくるのを待っている。日本人特有の集団行動の習性が付いてまわっている。集合時間さえ守ればいいんだよ、旅ってモンは。

おいしい料理を食べてから駅に向かった。カシュガルの駅では買ったばかりの刀と日本で買ってきたヘアースプレーのトニックが引っかかった。「北京の国際空港でもこのヘアースプレーは問題にならなかった。なんでカシュガルの駅で問題になるんだ!北京空港で問題にならなかったのは北京の中央政府が間違っていたのか!」と文句を言う。彼らがいったんダメと言ったものがひっくりかえることがないことが分かっているから。

午後4時48分に正確に汽車は出発。わたしだけがコンパートメントがみなと隣の部屋。それがいい。一人がいい。

4日
眠れない汽車の夜は長かった。汽車はゆったりとゴトンゴトンと軽い音をレールに響かせながら進んでいく。暗い夜汽車の窓から見る外は時折、線路脇の外灯が流れ去り、あるいは月明かりで砂漠の緩やかな緩急がシルエットのように浮かび上がる。

明るくなってから改めて車窓から眺めていると、線路は高度差のある地形を大きな龍か大蛇のように、うねるように迂回して走っている。線路は時には180度以上も曲がりくねり、のたうつように走っている。
汽車がコルラに到着したのが午前5時ころ。まだ肌寒く薄暗い中を汽車から降り立った乗客たちが出口へ向かって黙々と歩いていく。5時28分出発。

トルファンには昼の1時30分に着いた。コルラから5時間。カシュガルからは19時間である。プラットフォームにはオスマンがおり、握手を求めてくる。すぐにサラマットがわたしに飛びついてくる。両腕をわたしの首に巻きつけ、右のほほをわたしの無精ひげが生えた頬に軽く触れてくる。痛かっただろう。彼女はわたしのかわいい新疆の娘である。わたしの荷物を持とうとする彼女に「体がまだ本調子じゃないんだから、荷物を持ってはいけない」という。すると彼女はわたしの手を握ってくる。まるでお父さんに甘えているようである、28歳の娘。

車はオスマンのではなく、「エアコンがまだ直っていないので友だちの車を借りた」という。しかもオーナーの友人も同乗している。なにかうさん臭い。


まずエアコンでのどをやられた。肺の奥に入り込むような咳が出る。オスマンの風邪がうつったか。
部屋には暑くて入ることができない。トイレは壊れて水は流れない、電気が暗い、調理するものがなく、ガスが出ないのでお茶も飲めない。電話線が切断されているようで、メールがつながらない。これでは正常な生活ができない。悩みは尽きない。

5日
朝、ベゼクリク千仏洞から吐谷千仏洞にいく。そのあと高昌故城に寄る。

ベゼクリク千仏洞では管理責任者のウマルがいて互いに再会を喜んで握手。彼は多忙で切符売り場にいたのでわたしたちをガイドすることができない。

吐谷千仏洞では長い距離を民家の間をめぐりながら入っていくが、上まで行かなかった。
高昌故城では顔馴染みの少女たちに今まで写した写真をプレゼント。一人の少女のお母さんは娘が写った写真を見て大喜び。ロバ車には克也と麻美さんと3人で乗ったが、これもオスマンと言う御者の男が「片道20元だが、帰りにあなた方を待ったので往復40元だ」と言い始める。ムカッ腹が立ったので警察にでも突き出そうかと思ったが、完全無視して20元で許す。帰り際、少女の一人がわたしにネッカチーフとここでは珍しい花束をプレゼントしてくれた。うれしかった。

朝食抜きで観光して、遅い午後4時ころ、やっとオスマンの家でポロをご馳走になった。どこかに行っていたお母さんと30歳になる未婚の妹があわてて帰ってくる。


新疆に来てから初めてニュールーメン(牛肉緬)を食べることができた。おいしかった。それとカワップと餃子。メメットは「明日は涼しいのでルクチュンに行きませんか」といってくる。喜んでOKする。暗くなったなか11時ころに帰宅。

7日


昼食を食べに来た麻美さんからのニュース。参議院で郵政民営化法案が否決されて衆議院が解散。総選挙後、自民党が過半数割れをすれば内閣総辞職とのことである。9月11日ころに総選挙の見通しだと言う。

お母さんと上の妹は、「(裁判官の)メメットは逮捕者が出たのでトルファン駅まで仕事に行っていて今日は出かけられない」という。

果物やいろいろなものを出してくれてから、やがてポロが出てきた。お母さんは「今日のポロはおいしくない」と顔をしかめていたが、おいしい。ビールを買ってきて飲んで、いい気持ちになって帰ってきて昼寝。おきてからインターネットカフェに行ったがメールはダメ。オアシス賓館に行ってつなげようとしたが、やはりダメだった。



8日
夜中に二回ほど目がさめる。まだ下痢気味である。仕方がないのでビールを飲みながら日記を書く。
8時半くらいにおきだして持っていくものを整理して、結局、9時半すぎに家を出てしまった。「客運駅(バスターミナル)」までタクシーで行き、切符を30元で買ってバスに乗り込むとまもなく発車。漢人とウイグル人が半々くらい。隣の男も前の男もシャワーも浴びてないのか臭い。10時半に出て1時にウルムチに着く。タクシーでホリデーインに。早速、メールをつなげたがやはりダメ。久しぶりのバスタブに浸かってゆっくりと全身を洗う。ロビーに行って昼食。70元くらい。空港まで迎えに行く10時すぎにヌルさんが来るのでそれまでテレビを見てゆっくり。

夜10時すぎ、中学二年生になる息子を伴なってヌルさんが部屋にやってきた。お父さんより少し背が高い。太さは同じである。

今夜12時すぎの便で弥栄子さんたち女性5人がやってくる。飛行機が遅れているので11時過ぎに迎えに行くことにした。小林さんと空港に到着すると、やがて雨。雨は次第に篠突くような雨足に変わった。翌日のテレビでは、この雨は人工雨だとのことであった。ウルムチ上空が工場の煙や家庭の石炭あるいは車の排気ガスなどで汚れきっており、それを洗浄して農地にも水をもたらすとのことのようだ。

やがて午前1時近くになって弥栄子さんたち一行5人が荷物を受け取るターンテーブルのある場所に姿を現した。マイクロバスを雨で濡れないところに移してお出迎え。小林弘子さん、安西則子さん、亀山理映ちゃん、70歳の豊島さんと弥栄子さん。豊島さんがトイレにパスポートを忘れて大騒ぎ。誰かが拾って届けてくれていた。

10日
いよいよサイラム湖に向けて出発したのは午前9時。
 
車ははじめ、高速道路で新疆の穀倉地帯を行く。やがて漢人が新中国以降、開発していった石油基地地帯に入る。高速道路が終わってからは工事中の道が数多くある。今年10月1日の国慶節までに完成させるとのことだが、本当に出来上がるのやら・・・。でも9月中にできなければ責任者の首が飛ぶから、何とかなるだろう。

午後7時半ころにサイラム湖に到着。約10時間。モンゴル風のパオ。みんな初めての場所。パオの生活も初体験。

パオで7人仲良くマクラを並べて寝たが、午前6時半ころ、みんな起きだしている。寝ぼけながら「どこかに出かけるの?」と聞いたが、違う。まさか、真っ暗ななか出かけるわけがない。パオの天井の覆いがトイレでドアを開けるたびに、紐が連動してしまって開いてしまい、ついに全開になって夜半から降り出した雷を伴なった大雨がパオのなかにザアザア降ってきたのだ。わたしもおきだしてヤッケを着てから外に出てスタッフを探した。「誰かいるか」と大声でスタッフを呼ぶと、以外にもヌルさんが眠そうな顔を出してきた。スタッフを起こしてやがて覆いは覆われたが、わたしたちは隣のパオに移動した。

11日
雨上がりのサイラム湖は美しかった。朝食後、バスでセリム湖の景色のいいところとカザフ族のパオに案内してくれたが、みな草原の余りの美しさに感嘆と驚嘆の悲鳴のような声を上げる。案内してよかった。

昼ごろコルゴスのカザフスタン国境に行く。雑踏のようなバザールで冬の手袋とお土産を少々買い求める。その後、林則徐が善政をしいたといわれる「恵遠城」見学のあと午後4時すぎ、イリ市内の「イリ大将軍ホテル」に入る。

パソコンをひらこうとしたが、コードをウルムチのホテルに忘れてきたようである。失敗。すぐにヌルさんから「新疆大飯店」に電話してもらったが、無論、「見当たらなかった」とのこと。日本の克也にも電話をして、帰国直後から使うから買っておいてくれと頼む。

12日
1日、ゆっくりと市内を観光。「三区革命博物館」「モスク」「林則徐博物館」「家畜のバザール」など。昼寝もたっぷりとってから午後もゆっくり観光。ヌルタイ・アジ孤児学校にも行くが、誰もいないガイドに「ヌルタイ・アジが戻ってきたら、約束したことができなくなったら連絡することが人間としての最低の義務だと言っておいてくれ」と伝言を託す。

13日
 朝、ザックをいじっていると、きのうなくなったと騒いだパソコンのコードが出てきた。すぐに克也に電話。しかし、克也は、わたしから「パソコンがなくなったから買っておいて」と聞いたらしく、ヨドバシカメラに行って同じパソコンを買ってきてしまったという。絶句していた。

午前中は、旧ソ連領事館、果樹園観光やみなは郵便局で切手や絵葉書を買うなどに費やし、早めの昼食のあと、空港からウルムチへ。迎えのバスに乗り、トルファンへと向かう。途中、ヌルさんがデリシャットの車に乗ったアルズグリさんと連絡を取る。風力発電塔と草月湖で待ち合わせをするよう試みたが、向こうの車が遅れているのでトルファンのレストランで会う。わたしとは20日ぶりに再会。

サナトリウムにはなかなか着かない。まだサナトリウムに行ったことのないヌルさんと昨年12月に外側から眺めたことのあるわたしと2人で、みんなに「どれだけひどいところか」とか「超高級ホテルなみだよ」などと冗談を言って心配させる。だが、意外にも広大な敷地に建物が散在しており、部屋も広く、明るく、シャワーだけだがトイレもお湯が出る。予測以上のよい部屋である。

14日
サナトリウムの朝。朝食後、みんなは砂漠へ散歩に行く。

午前10時、
ルクチュン中学にいく。。。入り口近くにアトラス模様の民族衣装を着た子どもたちがいる。ここは小学校と中学校のあるところで、教師だけで240人。生徒数は実に4200人である。校長の歓迎の挨拶のあと、わたしがひと言挨拶。続いてみんなから自己紹介。女性4人は浴衣姿。弥栄子さんは浴衣から作った洋服。教員だけでも40人近く集まる。質問や回答が飛び交う。亀山理映さんがシャボン玉遊びを披露する。
 学校関係者や生徒たちから見送りを受けたあと、観光に出かける。高昌故城、アスターナ古墳、ベゼクリク千仏洞。みな感嘆しきり。

トルファン第四中学へは午後4時の約束が30分ほど遅れた。

学校の正門近くに着くと、色とりどりのかわいい衣服を着たマーチングの少年少女たちが出迎えてくれて度肝を抜かれる。こぎれいな部屋に案内されると教育委員会の女性幹部、校長、学校党支部の書記や教務主任、事務局長のような女性3人と男性2人に対面するように着席する。教員たち40人くらいの大半は女性。またもや歓迎の挨拶、お礼の挨拶、今度は孝雄さんが講師として教える学校になるので少々、小林さんから日本の学校教育の現状を話す。両校ともアルズグリさんが自分の日本に行ってからの研究課題や生活などについて話す。教員たちはその話に一番感動したようである。

次は子どもたちの演技である。さまざまな踊りを披露してくれる。

日本の女性たちは、校長や子どもたちを入れての「花いちもんめ」や小林さんの手品などをやる。


15日
トルファン賓館から「天池」に出かけようとしたが、先日の人工雨で道路が壊れて行けないとのこと。南山牧場もダメとのことである。で、ウルムチに戻って、昼食、自治区博物館、国際大バザールなどをゆっくり観光。夕食は日本料理の「平政」で盛大に刺身、てんぷらなどを食す。日本酒を大いに飲んだ。

16日
朝6時半の朝食で7時前に空港へ出発。女性五人組を送り出す。ホリデーインにもどってから少し寝る。11時半に小林さんをトルファン行きのバスで送り出す。わたしはいつものネットワークホテルにヌルさんと行ったが、満室で近くの新農ビルのホテルに一泊だけ泊まれることになった。

午後、国際大バザールに出かけて500元近く買い物。やがて自治区歌舞団のラフマンジャンとラクダの前で待ち合わせ。彼はメメットと言うダワップの名手とやってきた。夫のメメットも来る。歌舞団に向かいわたしに贈ってくれるというドゥタールをくれる。すばらしいものだ。ケースがないので誂える。

やがて夕食にみんなを招待した。

17日

脚が痛いのでそれ以外は部屋で静かに過ごす。克也に電話して空港への迎えを頼む。


18日
 夕べは午後11時過ぎに目覚めてしまった。 ウトウトして8時には起きてパソコンの整理。不要な文書を削除したりまとめたり・・・

今朝は雨。タクシーで二道橋に行った。雨のなか痛む脚をやっとの思いで引きずりながら行ったが、買い物にはつきあわずに出口で待っていて歩かなかった。

ヌルさんの友人のやっている、いつものおいしい店でポロとニュールーメン。本当においしかった。ここのポロはニンジンの甘味が出ていて新疆で一番おいしい。ニュールーメンもおいしい。



 今回の旅の目的は、
@ 克也にシルクロードをみてもらう。
A 小林さんの勤務先を決める。
B ゆっくり休んで、原稿をまとめる。
C ツアー崩れのメンバーの講師をつとめる。
D 昨年の調査研究活動の後追い調査をする。
などの目的があったが、多くのアクシデントがあって実現できないものが多かった。
@ 最初の出来事としては、まずまず。
A 今日の時点では、まだ未確定。
B 部屋が予想以上に環境整備が悪く、仕事どころではなかった。
C サイラム湖の美しさとイリを訪問できて、まずは成功した。
D 多忙な日程調整ができず、三日間行動をともにしただけだった。

  
 
 05年8月19日 午前11時(北京時間) ウルムチから北京への機中で
                                  野口 信彦


7月20日   徒然に・・・・
今年は5月連休にウルムチ〜トルファン〜敦煌の旅に行ってきましたが、7月26日から再び、気の合った仲間と5人で(といってもプロカメラマンの息子がそのうちの一人ですが)、ウルムチ〜クチャ〜カシュガル〜ホータン〜ニア〜タクラマカン沙漠公路〜ウルムチ〜サイラム湖〜イリ〜トルファンとめぐります。
車は昨年末に一緒にタクラマカン沙漠をまわってくれたオスマンジャンに頼んでいます。
ところで、イリのヌルタイ・アジ孤児学校が小林孝雄先生を日本語の先生として受け入れるということで、出発準備も整い、歓送会も数多くやってもらい、身辺の整理も着いたときに、どうやらイリの教育委員会が不許可にしたとのニュースが、ヌルタイ・アジ夫人を通して分かりました。無論、本人に何度も電話をかけたのですが、絶対に電話に出なくなりました。
原因は反日運動のようです。
東京のある仏教関係の大学の考古学調査団が、例年のこととして、寄付金を携えて6月に新疆に行ったところ、「今回は発掘現場に行くことは許可しない、寄付もいらない」といわれたとのことです。
それもおそらく、反日運動の影響だろうとのことですが、そこまで深刻な状態だったとはわたしも思いもよりませんでした。
その、イリのヌルタイ・アジ孤児学校との教育交流を目的に8月9日からのツアーが組まれました。わたしが講師ですのでウルムチ空港で出迎えてから同行します。
が、ヌルタイ・アジ孤児学校との交流会も返事が来ません。しかし、それにもめげずに、孤児学校にも行き、トルファン郊外のルクチュンの高校とトルファン市内の中学との交流も実現できる運びになりました。無認可保育園にも行きます。
わたしはそのあとは、しばらくトルファンに滞在してから、「国際トルファン学学会学術討論会」が8月26日〜29日までありますので、それに出席する予定です。
したがって、いつ帰国するのか分かりません。でも、向こうから日誌の更新はできます。息子がいますから。


7月15日  知床が世界遺産に登録されました。 2005年7月14日 南アフリカ・ダーバンで


日本政府が新たな世界自然遺産に推薦していた知床(北海道斜里町、羅臼町)について、アフリカのダーバンで開催中のユネスコの世界遺産委員会(委員国は日本など21カ国)は14日、登録を決めました。ユネスコにたいしては、国際自然保護連合(IUCN)が知床の豊かな生態系を高く評価する報告書を提出しており、同委員会もそれに沿う判断をしました。遺産登録により国などは、地元の協力を得て自然保護を今まで以上に強く推進できるようになり、ユネスコは継続的に監視することになります。
(15日 朝日新聞一面から)

ご承知のように世界自然遺産には青森県・秋田県境の白神山地、鹿児島県の屋久島が登録されています。
かつて白神山地では、国・林野庁が「世界遺産になったのだから、『入山禁止』」だ」と言い放って、国民を豊かな自然から遮断する、という態度をとり、一方で政府の施策に賛成するガイドの営業を許可するということをしています。
逆に地元自治体やツアー会社など観光業界は、チャンス到来とばかりに「観光客を招来することに血道を上げて、自然保護は名ばかり」の傾向があります。

豊かな自然を国民が享受するのは憲法上で保障されています。同時に、オーバーユース(過剰入り込み)や乱開発などの自然破壊から自然を守るということにも、政府主導だけでなく、多くの国民、自然愛好者や登山愛好者の英知の結集が求められています。

6月22日  シルクロードの遺産守れ
 日韓が技術・資金

 
日韓が100人養成    05年6月22日「朝日新聞」朝刊

シルクロードの文化遺産を後世に伝えるために保存や修復などの専門家を中国で育てる事業が、来年から動き出す。文化財保護・芸術研究助成財団(理事長・平山郁夫東京芸大学長)に日本サムスン(李昌烈社長)が資金を提供し、5年間で100人を超す研究者や技術者を育てる計画で、21日午前、東京都内で両者が調印した。

「文化財は人類共通の財産で、国や地域を越えて協力し残すことが必要だ」と平山理事長が提唱する「文化財赤十字構想」に日本サムスンが賛同、06年から5年間、毎年2千万円を同財団に寄付する。サムスンの中国法人も中国側に寄付する計画で、総額1億4千万円の事業となる予定だ。

東京文化財研究所、中国の国家文物局などと提携し、具体的な教育プログラムを編成する方針。考古遺跡や古建築保護の現場で働く専門家、博物館で収蔵品を扱う資料管理担当者などを体系的に育成したいという。

平山さんは「中国も人材育成に力を入れているが、文化財が多すぎて手が回らないのが現状。シルクロードが運んだ文化の恩恵を受けた日本と韓国が協力して事業を進めることで、傷が小さいうちに文化財を守ることができるのでは」と話す。

野口
☆シルクロードの文化遺産を守るということは、中国だけの課題ではなく、近隣の日韓の課題でもあるという意見には全く同感です。さらに100年前に欧米の列強探検隊が持ち去った文化遺産を、現在、自国のものとして陳列しあるいは保存している各国も同様の責務があるといえます。

新疆各地の仏教遺跡などの文化遺産が、必ずしも手厚い保護と管理の手を受けているとはいえない現状からも、まず中国自身の施策の強化と日韓の努力、さらにこれらの問題を国際的な規模、国連・ユネスコレベルで検討すべき課題にまで高めることが必要ではないかと思います。


6月1日 小林孝雄先生の快気祝い
 新疆のイリにある「ヌルタイ・アジ孤児学校」の日本語教師として8月に出かける小林孝雄先生が小さな手術が成功して退院したので、その快気祝いのパーティー。



6月1日
長らくホームページの更新が滞っておりましたが、そろそろ再開します。04年末の独り旅からの帰国後、メモの整理や各種報告・連載の執筆や出版化の話があり、そちらの準備で追われています、というより、それ以外のことまで頭と心がまわりませんでした。
4月末には、ウルムチ・トルファン・敦煌のツアーに講師として同行し、7月からは3か月間、毎月ツアーがあります。年金生活というものは、あれこれの雑事があってかなり忙しいものです。しかも、コピー一枚するのも、郵便物ひとつを送るのも、かつてのように気楽にできません。
この日誌も、しまうものは仕舞い、新たに加えるものを加えて改装します。
5月8日 氷河面積 30年間で9%減少    中国・チベット高原
〔北京=時事〕7日の新華社電によると、中国のチベット高原で氷河の縮小が続き、1970年代からの約30年間で全体の9・05%に当たる4420平方キロが消失したことが分かりました。地球温暖化と併せ、各種の開発の進展も縮小に拍車をかけているといいます。
同国地質調査部門の調査によると、70年代の氷河面積は48859平方キロに達していましたが、これまでに年間平均約147平方キロのスピードで縮小が進行しました。また万年雪が積もる標高も上昇し、数百メートル高くなった地点もあるとしています。
専門家は地球温暖化や降雨量の減少などで同高原の生態環境が悪化していることを指摘。過度の放牧や観光開発の進展など人為的要因も近年大きな影響を与えるようになったといいます。