「シルクロードと日本古代史研究の旅」

                      

バーミヤンに最古の油絵  7〜10世紀、高度な技法

 アフガニスタンの世界遺産バーミヤン遺跡にある壁画には、極彩色の仏が描かれ、インドやペルシアなどからの影響をにじませている。だが文献史料がほとんど残っておらず、その材質や技法についての詳しい分析は、これまでほとんどされてこなかった。だが、東京文化財研究所が壁画を化学分析したところ、7〜10世紀の油絵であることなどが分かった。

 同遺跡では、イスラム原理主義勢力タリバーンの手により、大仏とともに壁画の8割ほどが破壊された。同研究所は03年から調査や保存の活動をゲンチで始め、壁画については谷口陽子特別研究員(保存科学)が約50の石窟からとった試料53点を調べた。

― 中 略 ―

 この時代のヨーロッパの絵画といえば、色のついたガラスや大理石などを使うモザイク画。油絵の起源はよく分かっておらず、15世紀になってヤン・ファン・エイクがクルミ油などで顔料を練り合わせて使い、本格的に始まったとされる。バーミヤンの絵画技法の水準の高さがうかがわれる。

 谷口さんは、中国・敦煌の石窟群や中央アジアの壁画についても分析する予定で、「バーミヤンの壁が文化的にどうミックスされて成立したのかを解明したい」と話している。米国やフランスの施設を駆使した、今回の複合的な分析法は謎の多いバーミヤンの壁画のみならず絵画史全体の研究の幅も広げそうだ。

  (3月5日 朝日)

 

敦煌莫高窟で史上最大の保護事業スタート

 2月13日発新華社電によると、敦煌莫高窟(甘粛省)の史上最大の保護事業(投資総額2億6100万元=1元は約16円)が、このほど始まりました。敦煌研究院の王旭東副院長は「この施設が完成すると、文化遺産を洞窟の外に移し、観光客の洞窟内滞在時間を減らし、莫高窟の保護と利用の矛盾を解決できる」と指摘。今回の事業内容は@観光客を対象とした保護利用施設の建設A崖体の強化と桟道の改造B風砂からの保護事業C安全防護事業の四つ。

(日中友好新聞08年3月5日号から)

 

アボリジニーへ差別政策 豪政府、初の謝罪

〔シンガポール=杉井明仁〕オーストラリア政府と議会は2月13日、過去に親子の強制隔離などで被害を受けた先住民アボリジニーに対し、「深い悲しみや苦しみ、喪失感を与えた」として初めて公式に謝罪した。ラッド首相が「誇り高い人びとと文化に侮辱を与え、おとしめたことをお詫びする」とする動議を下院に提出、全会一致で採択された。

首相率いる労働党は昨年11月の総選挙で、先住民問題への取り組みを公約の一つに掲げており、今回の謝罪を「先住民と日先住民の和解の象徴」と位置づけている。

同国の歴代政権は、20世紀初頭から1970年代にかけ、白人社会との同化を目的に、アボリジニーの子、特に白人との間の子を親から強制的に引き離し、白人家庭や施設で育てさせる政策を採ってきた。約10万人の子どもが強制的に隔離されたとされ、「盗まれた世代」と呼ばれる。また、67年まで市民権を認めず、住む場所や職業に制限を設けるなど差別的な政策を採用してきた。

ハワード前政権時の97年に発表された政府報告書で実態が明らかになったが、前政権は「過去の政策に責任はない」として謝罪を拒否していた。

(2月14日 朝日)

 

インディオ殺害、最多76人 昨年ブラジル

アマゾンなどの熱帯雨林の違法伐採が進むなか、ブラジルで07年に開発業者などに殺害された先住民(インディオ)の被害者数が76人にのぼり、過去20年で咲いたとなってことが保護団体の調べで分かった。

統計をまとめたのはカトリック系のインディオ保護団体「先住民主義者伝道師協議会(CIML)」。48人が殺害された06年よりも28人増えた。

(2月15日 朝日)

  野口よりひとこと

いま、広義のシルクロードは地球文明が及ぶところすべてが文明のネットワークだとする考えが広がっている。その立場に立てば、ヨーロッパが海のルートを使ってオーストラリアや南北アメリカにわたって先住民を抑圧し、虐殺し、土地から追い出すことをやってきた。

シルクロードが地球すべての人びとの幸福と平和をもたらすものであるならば、かつて、そして今でも先住民に抑圧を与えている国や政府は、端緒的ではあるが、オーストラリア政府の立場をとるようお勧めしたい。

 

 

ウズベク カリモフ大統領3選    監視団、選挙統制と批判

中央アジアのウズベキスタンで23日行われた大統領選で、現職のイスラム・カリモフ氏(69)が9割に迫る得票で3選を決めた。任期は7年。選挙監視団体は公正な選挙ではなかったと批判しているが、旧ソ連時代の89年以来続く長期政権は当面揺らぎそうにない。

中央選管の24日時点の発表で、カリモフ氏は88・1%を獲得した。投票率は90・6%だった。

05年に東部アンディジャンの反政府デモ鎮圧で数百人の死者を出して国際的な批判を浴びたが、強権的な姿勢は続くとみられる。今回は3人の対立候補が立候補したが、いずれもカリモフ氏の政策を支持。選挙の体裁を整えるために政権が用意したとみられる。メディアもカリモフ氏以外の動向をほとんど報じておらず、専門家は「旧ソ連の選挙に極めて似た形式だ」と指摘している。

選挙監視団を送った欧州安保協力機構(OSCF)は24日、「選挙は厳しい統制下で行われ、野党が参加する余地がなかった」「民主的な選挙の多くの条件に合致していなかった」と批判した。          (12月25日「朝日」〔モスクワ=駒木明義〕)

 

800年前の宝船引き揚げ 6万〜8万点の文物?   中国広東沖

中国広東省の陽江沖で22日、約800年前に沈没した宋代の貿易船が引き揚げられました。中国当局のこれまでの調査で、船内から景徳鎮の陶磁器や金銀の器など4千点が発見されている「宝船」です。「海のシルクロード」解明の手がかりになると期待されています。

貿易船は全長30メートル、幅10メートル。1987年に偶然発見され、考古学的な調査が続けられてきました。中には6万〜8万点の文物があるとみられ、引き揚げて調査することになりました。

船は「南海1号」と名づけられ、今年5月から引き揚げ作業を開始。周囲を特殊鋼製の巨大な容器で覆い、水深30メートルの海底からクレーンでゆっくり引き揚げられ、全体が海上に浮上しました。

全体が容器で覆われているため船の姿はまだ見えませんが、専用施設に移して調べたのち、一般公開されます。

宋代の海上交易は西アジアにも及んでいたことが分かっています。広東省広州はその拠点となっていました。

中国中央テレビが2日間にわたって引き上げを実況中継し、新聞各紙も特集を組んでいます。           (12月24日「しんぶん赤旗」〔北京=山田俊英〕)

 

バーミヤンに大規模仏塔 「幻の涅槃仏」寺院か

2007.11.6 09:58

アフガニスタン中部バーミヤンで、発掘された仏塔基壇を指すタルジ教授(共同)アフガニスタン中部バーミヤンで、発掘された仏塔基壇を指すタルジ教授(共同)

 アフガニスタン中部のバーミヤン遺跡で、旧政権タリバンが破壊した大仏立像の南東100メートルで発掘された6〜9世紀ごろ建造の仏塔基壇の最長辺の長さが約55メートルに及ぶことが6日までに確認された。同国最大とみられ、小説「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵がバーミヤンの寺院で見たと記したものの存在が確認されていない「幻の涅槃(ねはん)仏」発見に、さらに近づいたといえそうだ。

 調査チームは、仏塔は高さ30メートルの巨大なものだったと推測。地上に残っていた遺構も仏塔の一部と確認された。これまでの調査で、仏僧の礼拝の場として使われていた「塔院」や僧院の跡も付近で見つかっており、一帯は仏塔を中心とした大規模な仏教施設だった可能性が高まった。

 アフガン考古学保護協会のゼマリアライ・タルジ氏(フランスのマルク・ブロック大教授)が率いるチームが発掘した。バーミヤン遺跡国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産。

 玄奘三蔵は7世紀にバーミヤンを訪れ、大唐西域記の中で「王城の東2、3里のところの伽藍(がらん)(寺院)に仏の涅槃像があり、長さは1000余尺」と記した。タルジ氏は「三蔵法師が見た涅槃仏もこの仏塔跡の近くに眠っているはずだ」と話している。

 タルジ氏のチームは、旧政権タリバンによって破壊された2体の大仏立像のうち、東大仏(高さ38メートル)跡の南東100メートルで基壇を確認した。基壇には四方に参拝用とみられる階段があり、装飾の柱にはガンダーラ風の彫刻が施されていた。基壇の壁面に何らかの絵が描かれていた可能性がある。

 タルジ氏は2002年からバーミヤンでの発掘調査を開始。フランス政府と米ナショナル・ジオグラフィック協会の支援を受けており、今回は今年8月に調査を開始した。(共同)

前田耕作・和光大名誉教授(アジア文化史)の話 「7世紀に玄奘三蔵がバーミヤンに来て、実見し記録した『大唐西域記』の中で未発見の最大のものが、『千余尺』(約300メートル)あるという巨大な涅槃(ねはん)像。考古学的に基壇部が確認されたこの大仏塔が涅槃の巨像の発掘につながれば、世紀の大発見といえる。もし涅槃像の位置が特定されれば、(西域記に記された)王城の位置も自然に定まり、バーミヤンの謎の大半が解けることになる。仏塔と涅槃像の結びついた例はバーミヤンのはるか南方のガズニ仏教遺跡や、タジキスタンのアジナ・テペ仏教遺跡などがあるが、これほど大規模ではない。大仏塔に続き、伽藍(がらん)(寺院)の中に横たわる第3の大仏が見つかるかどうか見守りたい。バーミヤン遺跡の保存事業と並行して調査を続けている日本隊も、発見の夢を捨ててはいない」(共同)

 ■バーミヤン遺跡 アフガニスタンの首都カブールの西約240キロにある山岳地帯の仏教遺跡。東西約1300メートルのがけ面に約1000の石窟(せっくつ)が並ぶ。一般に5−8世紀の造営とされるが、それ以前との説もある。世界最大級の高さを誇った約38メートルと約55メートルの東西2体の大仏立像は2001年、旧タリバン政権により破壊された。国連教育科学文化機関(ユネスコ)が03年に世界遺産に登録した。(共同)










 2008年1月1日 野口信彦

12月23日 

早朝2時過ぎに起きて3時半に家を出る。東名・瀬田から一路、奈良に向かう。

愛知県の豊田から新しくできた(らしい)「伊勢湾岸道路」で名阪国道に入り奈良に向かう。四日市は相変わらず工場の煙が猛烈な勢いで空に吹き出ていた。

早起きのために途中で眠くなり、途中、二度ほど睡眠をとって午前11時到着。早速、唐招提寺に向かう。

 

天平の甍(てんぴょうのいらか)を代表する唐招提寺は、言い伝えによれば聖武上皇・孝謙天皇の願いを受けた唐の高僧・鑑真大和上(がんじんだいわじょう)によって天平寶字3年(西暦759年)に創建された。

 

あらかじめ来意を告げてあったので、執事の石田太一氏と面会がかなった。

唐招提寺訪問の主な目的はただひとつ。鑑真和上が初代の住職であったが、ソグド人の安如宝(あんにょほう)が2代目の住職だったので、その安如宝さんについて知りたいということであった。

昔から中国に定住したソグド人は、安(ブハラ)、史(キッシュ)、康(サマルカンド)など中央アジアの出身地に応じた姓を持つのが特徴であった。したがって、安如宝は現在のウズベキスタン・ブハラの出身ということになる。

「いやー、いろいろ調べましたが安如宝さんのことはほとんど分かりません」と話し出したが、若く頭脳明晰そうな人柄の石田さんは意外なことを話しだしたのである。

 

安如宝は20歳という若さで鑑真和上と同じ艱難辛苦を重ねながら日本にたどり着いて、その明晰な頭脳と若さで当初から頭角を現していたという。だが、2代目の住職は安如宝ではなく、唐の国の「法戴(ほうさい)和上」という人であった。同じく3代目住職も同じ唐の国の「義浄(ぎじょう)和上」であった。安如宝さんは僧として優秀なために「外に出された」という。外に出されたということは、当時、日本に仏教が伝来されてから、各地に次々と寺が建立されるようになって、各地の寺の住職となって派遣されたのである。そして4代目の住職になったのが安如宝和上だったのである。

鑑真和上以下の仏僧たちのことについては、滋賀大学の菅谷文則教授が詳しいこと、そのほかでは、橿原考古学研究所や九州太宰府の「九州国立博物館」が詳しいといわれた。

 

石田執事が資料として携えてきたのが、大正4年(1929年)2月25日発刊の『大日本仏教全書』であった。「仏書刊行会」が編纂している。

そのコピーをいただいたが、なんとそこには「安如宝は朝鮮国人也」と書かれているではないか。唐招提寺を辞してから翌日の朝にその文字に気づいた私は、再び、電話をした。執事は留守だったが、そのご、事務所の方から「野口さんからのご質問を執事に伝えましたところ、資料には朝鮮の国の人と書かれてあるが、資料が間違いで、ソグド人で間違いない」ということであった。

 

安如宝さんについてはその程度しか分からなかった。ほかに下野(しもつけ)の東大寺、大宰府の観世音寺、日光の天台寺などに資料があるそうである。

 

唐の有名な高僧である玄奘三蔵がインドへの求法の旅の途中、現在のウズベキスタン地方に当たるソグディアナに立ち寄った感想を『大唐西域記』書いている。それによると、ソグド人は根っからの商人で、生まれたときから人に甘言を弄するために、口には蜜をたたえ、右手には金を握って生まれてくる、といわれるほど金の亡者だったといっている。それが昭和30年代の金堂の修理の際に、仏像の右手には和同開珎(わどうかいちん)の銅貨が握られているのを発見したというのである。

なお安如宝さんは、空海との関係もあり、弘法大師とのつながりもかなり深かったようである。その理由は、互いに中国語を教え、教わる関係だったようである。最澄は最後まで中国語ができなかったとも話してくださった。

 

唐招提寺創建以来1250有余年、〔天平の甍〕の呼び名で親しまれている金堂(国宝)は残念ながら、阪神淡路大震災の被害の結果、修築中のため参観ができなかった。

 

薬師寺を隈なく歩いたが、肝心のカメラを車に忘れてきたので翌日、出直すことにする。

「なんとかランド」という温泉にたっぷりつかって疲れを取る。

 

12月24日

朝一番で予定にはなかった奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に行く。あいにく休館日だったが、この日の特別陳列は、08年の干支(えと)にちなんで「はじめの子(ね)年 十二支の考古学 子」であった。わたしはねずみにはあまり関心はないが、常設の弥生時代の陳列物には始めて関心を持つことができた。これまで、シルクロード研究につきものの日本の古代史については、ずっと長いあいだ、ある程度、年月が過ぎてから本格的に学びたいという気持ちがあったが、研究過程でそんな悠長なことは言っていられなくなってきたのである。主要テーマのひとつは「日本とシルクロードの関連」だからである。

 

付属博物館に1人だけいた学芸員と話ができた。しかし、残念ながら彼は安如宝についてはまったく知らなかった。そこの博物館も時間があれば詳しく見てみたいところであった。

 

続いて、橿原考古学研究所と比較的近い、法隆寺に行く。

法隆寺は飛鳥時代の姿を現代に伝える世界最古の木造建築として余りにも有名である。

その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や「法隆寺伽藍縁起並流記財帳」(747年)の縁起文によって知ることができる。

私もこれまでに2〜3度来たことがあるが、今回のような強い関心を持ってきたことはない。

中門および廻廊には「エンタシスの柱」がある。ギリシア文明の影響のある、柱の中間がふっくらと丸みをおびた柱で、いずれも飛鳥時代の粋を集めたものである。この柱を見ながら「これがギリシアから長い年月をかけてシルクロードを経由してきたものか」と感慨深いものを覚えた。

 

法隆寺の本尊を安置する聖なる殿堂が金堂で、この中には聖徳太子のために造られたという金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、聖徳太子の父の用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母の穴穂部人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)などが安置されている。

 

私の目的は、金堂の天井にある、天人(いわゆる西域・新疆のクチャや敦煌などの壁画に描かれている飛天である)と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊るされ、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年消損、現在はパネルに描かれた再現壁画がはめ込まれている)が描かれ、創建当時の美しさがしのばれる(パンフレットを参照)。

 

続いては再びの薬師寺である。2日目の今日は写真撮影のみの訪問である。

薬師寺は、尊敬する加藤九祚先生がウズベキスタンのカラテペ遺跡の発掘作業を支える募金活動の事務局をつとめており、ここも数回目の訪問である。

薬師寺は天武天皇の発願(680年)により持統天皇によって本尊開眼(697年)、さらに文武天皇の代にいたって、飛鳥の地に創建されたといわれている。

 

お目当ての「薬師如来像台座」(国宝・白鳳時代)に向かう。

この台座は金色に光り輝く金堂にあるレプリカだが、建物の外に出てから自由に撮影ができるので、写真撮影に執着したのである。

「台座文様と東西文化交流」と看板が掲げられている場所には、詳細に説明が書かれている。

それによると、薬師如来が座っている台座には、奈良時代における世界の文様が描かれている。一番上の框(かまち)には「ギリシアの葡萄唐草文様」が描かれており、その下にはペルシアの「蓮華文様」、4面の中央にはインドから伝わったといわれる力神(蕃人ともいっている)の裸像が浮き彫りにされている。そして下框には中国の四方四神=東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武の彫刻がなされている。

この台座には、当時の国際的な関係と東西文明の交流を知る上でも貴重なものであり、奈良がシルクロードの一方の場所であると言われるゆえんが、ここの台座から発せられているのである。

 

玄奘三蔵院伽藍は修理中のために見ることができなかった。

 

  あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり

 

1998年12月、世界文化遺産に登録

 

暗くなってから京都に向かう。夕食に出た街はクリスマス・イヴだが、温かい料理とおいしい酒を飲むことだけが目的であった。

 

12月25日  京都

長距離ドライブの疲れもあったが国宝・三十三間堂に向かう。

ここも国宝だらけであるが、いずれの仏像のどれひとつをとっても表情豊かで、慈愛に満ちた顔、怒りに燃えた顔、見ていて飽きない。

ここの「国宝 観音二十八部衆像」は、千手観音とその信者を守るという神々でインド起源のものが多いという。これもシルクロードを通ってきた文明である。

 

西本願寺は大谷光瑞探検隊があるが、今ではこの寺は何のこともなく、以前に来たことのある龍谷大学付属図書館に行く。

ここは以前から知り合いの大学院生がいて、1〜2度来たことがあるが、現在は蘭州大学に留学中。一応、見学ということで中央アジアやシルクロード関連の図書を見る。

おなかの具合が悪くなったので、早々とホテルに引き揚げて今日はおしまい!コンビニ弁当とビールで簡素に済ます。

 

12月26日  広島へ

体調も整ったので朝7時に堀川通り4条のホテルを出て広島に向かう。

当初の目的は、07年5月ころワイフの長兄が病気になったので、お見舞いがてら行くことにしたのだが、私のもうひとつのシルクロード研究の目的でもある「シルクロードは平和とともに」というテーマを追究するためにも、数十回も来たことのある原爆記念館を改めてみておきたいということも、もうもうひとつの目的になった。

 

何度みても、むごたらしい原爆の被害の様相を見て、涙がこみ上げてくる。再びこの過ちを決して繰り返してはならないという気持ちを強くして、原爆記念館を後にした。

 

12月27日  九州・吉野ヶ里遺跡

広島で牡蠣鍋やカキフライなどの歓待を受けた翌日、長兄夫婦と4人で長躯、九州は佐賀県の吉野ヶ里遺跡に向かう。

ここの近くにはワイフの次兄が太宰府いるのでしばらくぶりの訪問になったのであるが、先に吉野ヶ里遺跡に行った。

 

吉野ヶ里の広大な丘陵地帯に広がる遺跡は、日本古代史の歴史を塗り替えるほどの衝撃を持って登場した。

弥生時代は紀元前3世紀頃から3世紀頃まで約600年間続いた時代だが、ここの遺跡にはこの長い時代のすべての時期の遺構や遺物が発見されているという。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように時代が変化していったかがひとつの遺跡で分かるきわめて学術価値の高い遺跡になっている。

この環濠集落に、この物見やぐらに弥生時代の人たちが生活していたのかと思えるだけでも感慨深いものである。

 

この夜も次兄一家との交歓が深まり、翌日には広島に帰り、29日朝9時に広島を出発して、午後7時、10時間で800kmを越えるドライブで無事に我が家に帰りついたのである。

実に正味2500kmのドライブ旅行であり、収穫の多い旅であった。

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