日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 26 回(最終回)
日本とシルクロード(8) 遣唐(隋)使よりも激しく往来した朝鮮との交流・交易
日本と大陸が海によって隔てられるようになってからの交流は、間違いなく海路を通じてでした。「飛天」が空を飛んできたわけでもありません。日本へのルートはさしずめ「海のシルクロードの東海ルート」といえるでしょうか。

正倉院の宝物といえば、唐やローマなどがまず想起されます。そこには西域との関わりなどがイメージされると思いますし、遣唐(隋)使船によってもたらされた文物がほとんどだと思われている向きが多いでしょう。

しかし遣唐使の往来は630年から894年までの264年間のうち、わずか15回でした。むしろ最近、朝鮮半島の新羅(しらぎ)などとの交易のほうが圧倒的に多いことがわかってきています。今、注目を集めているのは、新羅や渤海(ぼっかい)との交流関係です。その点で九州国立博物館(通称・キューハク)の果たす役割は非常に大きいものがあります。

『買新羅物解(ばいしらぎもののげ)』

これは正倉院の著名な宝物である『鳥毛立女屏風(とりげりつじょびょうぶ)』の下張りに取り付けられていた反故紙であり、江戸時代の修理の過程で剥がし採られたものです。

8世紀ころから、新羅も交易に来日するようになりました。752(天平勝宝4)年には700人余という空前の規模の新羅使、王子金泰廉一行が7艘の船に乗って来日していますが、この際の交易品リストがこの『買新羅物解』なのでした。

内容は日本側が購入を希望する品目・数量およびその合計員数、それらの対価(金など)を記したものだといいます。

判明した買い手たちは、日本の貴族や官人たちでした。当時の律令制度にもとづく交易管理システムによれば、まず朝廷(官司)が先買いし、ついで官人たちの取引が行なわれたようです。『買新羅物解』の「解」とは上申文書の意味であり、提出先は国の金庫を預かる大蔵省ないし内蔵寮(くらりょう)だと思われます。つまりこの交易は、国家の管理下のもとで行われたものであり、この反故文書は当時の交易活動を窺い知るための超一級の史料なのでした。

長い間のご愛読、ありがとうございました。しばらく筆を擱きます。またお目にかかれることを楽しみにしております。
野口 敦煌郊外の「陽関」の筆者

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