2007年6月6日〜15日

野口 信彦




世界で最も広く 高所にある高原 それがチベットである

アジアの最奥部にあって チベット文化の華開いた

その地は 10数世紀のあいだ独自の仏教文化を育んできた

が、近年 すさまじい開発の進展によって 古来稀なる自然が破壊されてきた

そして 人々の生活も風景も暮らしぶりも 歴史上未曾有の激変ぶりを見せている

しかし それでも 巡礼とともに生きる人々との出会いは、

遥かな昔に心を通わせてくれる。

      

2007年6月6日

 

成田で8人、関西空港で7人が乗って北京で合流。次のフライトの関係でこの日は北京泊となった。今回の旅は今評判の青蔵鉄道を体験するということが主要なテーマだったこともあって、14人の参加という好評ぶりである。14人のうちわたしとの関係ではすでに旧知の間柄になっている人が6人もいる。しかも「日中友好新聞」で参加者を募ったこともあって、参加の方とは初対面からすでに打ち解けた気持ちで互いに接することができた。

 

 7日

 

北京から西寧へ2時間半の空の旅。西寧は標高2275mである。空港で荷物待ちのあいだに出口方面に向かってわたしたちを出迎えてくれるガイドを探しに行った。通称「Yちゃん」と呼ぶことになったチベット人の女性ガイドは、驚くことに昨年06年6月まで東京近郊の大学に留学して日本語を学んでおり、住まいもわたしが産声を上げた江東区に出身大学時代の同級生の夫と住んでいたということだった。しかも講師とガイドという立場からバスの中で旅のことについての打ち合わせのほかに、わたしからさまざまな質問や意見を聞く会話(いわゆるチベット中国の諸関係である)を試みた。わたしには、きわめて漢化の進んだチベット地域ということもあって、中国に対する態度やダライラマにたいする考え方などが大きく後退しているのではないかという一種の危惧があったからである。結果は、きわめて好印象を持つことのできたガイドであった。私の危惧とは反対にかえって中国やダライラマに対する考え方が純化されて、10年前よりも先鋭的になっているような感じがしたのである。もっともまだ、彼女1人からだけの感触だけなのでこの先どのような展開が待っているかは分からない。

青海省の省都西寧の街は中国のほかの都市と変わらない盛況ぶりだが、しかし、ここは半世紀前までは大チベット圏。車窓から見る街角にはチベット人、回族やモンゴルの人びとの顔が見える。特に眼を引いたのは回族の女性が新疆の回族と違って、みな頭に黒いスカーフをまとっていることである。しかもそのスカーフは後頭部から耳を覆って首を巻いていることであった。

もうすでに、何人かから「Yちゃん」という愛称で呼ばれるようになっていた、彼女から西寧の状況について説明があった。

 

西寧市内ではチベット語は大学でしか教えない。農村地帯では小中学校では教える学校が多少はあるということであった。Yちゃんも市内から140km離れた農村地帯の出身なのでチベット語を学ぶことができたという。自分の民族の言語を自由に学ぶことができないということは、たとえ、わたしと考えが違っている人がいたとしても、これは民族の悲劇であり、大きな問題であるということは認めるであろう。

やがて彼女はバスの中で準備していた純白の「カタ」を一人ひとりの首に巻いてくれた。チベットの習慣で遠来の人を歓迎する慣わしである。

平均給料も西寧で働く人の平均給料は2500元から2800元くらいだが、ラサは遠隔の地であり生活環境も厳しい地でもあるので、いわゆる過疎地手当てもあるのだろう、ラサの人びとは3500元前後だという。

わたしたちの目的であるチベット鉄道の貫通についても、「わたしたちチベット人は鉄道を歓迎していません。昔はラサに住みたいと思っていましたが、今は漢民族人ばかりなので住みたくありません。最近、家々の窓に国旗が掲げられるようになって来ましたが、あれはチベット人が家を建てるために政府から金を借りるときの条件に、国旗掲揚が義務づけられているのです。普通のチベット人は、もともと自分たちの国の国旗があったのですから中国の国旗を好きではありません。10年前はもう少し自由があったのですが今は何もいえません。みんな政府を怖がっています」と、ドライバーは日本語ができないということと、車内の友好ムードの中で、次第に中国批判が熱を帯びてくる。話はまだ続く。「西寧やラサの人々は中国に反感を持っていても、友だち同士でも政府批判を言いません。鉄道を歓迎しないということもあまり言いませんが、怖いからです。みな同じ気持ちだということも理解しあっています」。友達同士でも心の奥底をいえないと言うことは、多くのチベット人が当局と通じているからである。いわゆるスパイ網が張り巡らされているからであろう。

3月8日はお釈迦様の生まれた日。無論、青海省でも大きなお祭りになるが、チベット人がたくさん集まることを恐れる政府は、この日、学生は外出禁止になるとのこと。ラサでも学生がジョカン寺などに行ったら退学になるとのことである。しかし、お寺に行くのはチベット人にとって空気を吸うように当たり前のこと。チベット人の学生は、工夫をしてお寺に行っておまいりするとのことである。大学当局の通達を守る人はいないとのことであり、なかには五体投地をしていく学生もいるとのことである。しかも最近では西寧からラサまで約2000kmを五体投地で行く人が増えており、早い人では4ヶ月も5ヶ月もかけて行くそうである。その篤い信仰心はいったいどこからくるのだろうか。

前日の北京の蒸し暑い34度という気温から一転して、西寧は20度前後。3000mを越えると、西寧の人々は分厚い外套を着ているようになっていた。おそらく10度前後になっていただろうと思う。

青蔵高原道路はかなり快適である。車窓から見える青海高原にはソラマメ、油をとる菜の花、ジャガイモやチベット人の主食であるツァンパになるチンコウ麦などがとれるという。しかし、数十キロごとにラサのソンツェンガムポに嫁入りした唐の皇帝の娘・分成公主の像がやたらにある。モンゴルでチンギスハーンの像をやたらに見たことと共通しているものがあるのだろう。

Yちゃんの話はまだ続く。

参加者から、一人っ子政策の状況についての質問から、「チベット人は都会で夫婦共働きの家は子どもは2人までで農村地帯は3人までとなっています。それ以上産むと罰金が科せられます。罰金は5000元です」。因みにまだ一人っ子政策が採用されていなかった頃の彼女は5人兄弟。なかには15人産んだという家の話を聞いて、みなびっくり。

青蔵公路を走るわたしたちのバスは、やがて日月山という観光地に着く。バスを降りた途端にチベット人の服装をした漢人の女性たちのお土産売りの攻勢が始まった。

 

日月山に登れ!

 

日月山の標高は3520mになっている。

日月山と言っても10メートルほどの小高い山。二つの小山が相対しているここには日亭と月亭の二つのあずまやと文成公主の像がある。といっても彼女の像はこの青蔵公路にはたくさんある。いずれも観光客目当てのものなので、この場にそぐわない。

ここは吐蕃(チベット)の国王であったソンツェンガムポに政略結婚で嫁ぐ文成公主がこの地で漢土と別れを告げてチベットの地に入るために、付き従ってきたものたちと別れを交わした場所といわれている。

入場料は個人だと25元、団体だと17元。トイレも1元。ゆっくりと小高い山の上に登る。眼下に広がる大草原、もうここからはチベット人の世界である。観光用であろうか白いヤクがおり、ヤクの毛皮で作った黒いテントがあり、毛の長い羊が草を食んでいる。付近の風景を眺めていた2人の女性は、だれかから入場料をふんだくられたというので、Yちゃんが血相を変えて取り返しに行った。

 

さらに青蔵高原の道路をひた走るとバスは青海湖に着く。中国最大の塩湖である。土産売り軍団に取り囲まれながら船着場からモーターボートでいく。しかし、参加者のTさんが相変わらず自由気ままに写真を撮ったり、みやげ物売りに取り囲まれてなにやら対応していたりで来ない。意を決し彼女をおいて出発させる。たいしたことのないクルージングであったが、Tさんは一人で待っていた。

ここでSさんの夫が「具合が悪い」と言い出す。そろそろ高度障害の出る頃である。

I子さんが「めがねをどこかに置いて来てしまった」と言い出す。トイレの中にあったが、これも高度障害のひとつであろうか。彼女にとっては相当にショックだったようである。

Yちゃんのガイドはまだ続く。

 

「都会の結婚は自由恋愛が多いです。しかし、農村地帯はまだお見合い結婚が多く、結婚式当日まで夫の顔を知らないでいる場合が多い」という少数民族地域はどこでも同じである。「農村地帯の結婚は15歳から16歳くらいに結婚する人が多かったのですが、今は少ないです。しかし、去年は私の実家の近くで結婚式がありましたが、男は16歳で女は15歳でした。きのうまで友達の女の子と遊んでいた女の子が今日結婚です。食事の作り方もわからないでいました」と早婚を批判する。

言語については、ラサの言葉はいわば現代チベット語になっているのであろうか、「地方の遠いところの人たちは、ラサの言葉が分からない人が多いです。アムドあたりになると中間地帯になるので、言葉が分かるのは半分半分くらいです」という。

一方、3年前にダライラマが「動物を殺して作った毛皮の服は着ないようにしよう」と呼びかけたところ、チベットの人々はみなこの呼びかけを積極的に受け入れたという。ときどき毛皮を着ている人を見つけると、殴られることがあるという。Yちゃんは「それは仕方のないことです」と暴力行為であっても肯定する。

やがてバスは標高2800mのチャカに着く。やはり辺境の地である。ホテルは、シャワーも出ないテレビもつかない。早々に寝た。

 

8日 チャカ塩湖

 

朝、チャカの塩湖観光に行く。ここ青海省もチベット高原も太古、海の下であった。

ガタガタの線路を行くトロッコにはわたしたち15人のほかに東海地方から来た、社団日中のツアー16人と一緒になった。観光が終わって宿泊したホテルに立ち寄ってトイレ休憩。をするとトイレから出てきた私を見に来た人がいた。「野口先生という人はどんな先生なんですか?」とつぶやいたので、「わたしです」という。「そうですか?有名な先生なんですね」という。「そんなことありませんよ」というが、なにやらつぶやきながら去っていった。なんなんだろう。

バスは果てしのない青蔵公路をひたすらゴルムドに向けて走る。バスの中では次々といろいろな質問が出る。時々わたしが補足回答をする。あるいはわたしがYちゃんに質問して答えてもらう。会話が途切れると、私の研究テーマについて話す。参加者にピコツアーから送付された私の著書『シルクロードの光と影』を持参してきたHさんからお借りして、のこちゃんと会ったことのない彼女の夫(彼女は私の旦那というので、「旦那」や「主人」という言葉は男尊女卑につながるのではないか、と問題提起をしていた)あてにメッセージを書いてプレゼントした。メッセージの内容は「あなた方がチベット人としての誇りを失わず、チベット人の魂を守って生きていかれることを祈ります」とした。

 

今回は青蔵鉄道に乗ることが目的の旅である。わたしはそれに大いに関心があるが、率直に言って、チベットのこの果てしない高原と空=蒼穹の天を見ているだけで十分に満足ができるのである。

 

標高2800mの高原だが、ゴルムドのお湯の出るバスタブのある風呂でゆっくりしてもらおうと、到着してから1時間後に夕食。明日は一ヶ所だけの観光を終えたら、午後はフリーとした。ミネラルウォーターも朝食時と夕食時にも共通経費から支出することにして、追加の一本を出すことにして高度障害に備える。しかし、部屋に入ると洗面所は三ツ星だけのことはあると思った。が、二階のこの部屋の外を見ようと思ったが、10センチ向こう側は、何かの建物の壁である。昼間でも電気をつけない限り部屋は真っ暗である。聞くと、ほとんどの人は部屋を替えていた。こういう自己主張はみな鋭い。わたしは、仕方がないと思っていてまだ替えていない。が、朝の5時半にフロントに意って「部屋を替える」というと、とても変な顔をしていた。しかし、良くこんな部屋の構造にしたものだと思うし、それを客によく貸せるものだと思う。

夕食後、Yちゃんが「ホテルの向かい側でチベットの踊りをやっています」といったのでカメラをぶら下げて見に行く。踊りはチベットの踊りではあるが、踊っているのはみな漢人の女性ばかりであった。

 

ゆったりとチベットの空

 

9日の今日はゆったりとした日程を組んで午前中、チャルカ塩橋に行く。ここは中国最大の塩湖で主に塩化カリウムやナトリウムを生産している。国道219号線がもうすでに塩の橋になっている。ここにはわざわざ日程を組んでいくほどのこともない。しかし、往復の途中の道がなんともいえなく、良い。まったく飽きるということがない光景である。一計を案じて、参加者一人ずつから、今回の参加の動機やらを自己紹介してもらった。すると2人の女性は恥ずかしがって前へ出てこない。“男尊女卑の加害者は男性であるが、もう一人の有力な加害者は女性なのである”という私の持論を証明してくれたようなものである。

午後は自由時間になったが、それぞれ郵便局に切手を買いにいったり、ホテルまで散歩がてらスーパーに寄りながら歩いて帰ったり、サッサと帰って昼寝をしたり、久しぶりの休息時間を楽しみ、昼寝もできた。わたしはヤクの肉と鉄観音茶を500元ほど買った。

午後4時半から、希望者に限ってだが、レストランで私のパソコンによる「シルクロード講座」を組み入れた。講座1から11まで夕食をはさんで実施した。8時半ころの夕食後にも再開して、終了した時間は午後10時を30分以上も回っており、サッサとベッドにもぐりこんだ。

 

青蔵鉄道乗車!

 

10日。やはり朝3時半に眼が覚める。風呂に入ろうと思いながら、写真のキャプションを書いていて入りそびれてしまった。5時半に朝食で6時20分出発。10分ほどでゴルムド駅に行く。駅前には飛んでいるツバメを踏みつけるという汗血馬の像がある。

7時13分に汽車が来て33分出発。蘭州からの汽車である。出発前に列車の先頭の機関車を撮影しに走る。出発するとすぐに青蔵高原のゴビ灘が眼前に広がる。昼食は食堂車の混雑で弁当になったが、それでもビールを飲む人が6人もいた。客車の内部は気密室である。雪山が見えると「ワーッ」、動物が見えると「キャーッ!」である。私がひそかに熱望していたキャン(野性のロバ)も見ることができた。

合計14時間余の汽車の旅である。客車の座席のうしろのほうでチベットの女性たちの歌声が聞こえ、チベットのおばさんたちの大笑いの声がする。振り返ると、何歳くらいになるだろうか60歳から70歳ほどのおばあさんが客車の座席のあいだで軽く踊りながら高らかな声で歌っている。この地域の人々は、紫外線の強い直射日光で焼かれ、きわめて乾燥した風に打たれているので、みな実際の年齢よりはるかにふけて見える。だから実際の年齢は聞いてみないと分からない。

午後2時13分、いつの間にかチベット自治区に入っており、唐古拉駅通過。この近くが青蔵鉄道の最高到達地点である。みな妙に興奮していた。自身の到達した最高地点だからであろう。5077メートルである。

やがて「頭が痛い」といって酸素を吸う人が1人2人と出てくる。これはラサに着く前に全員が酸素を吸ったほうがいいということで、客車に備え付けの酸素を吸うようにすすめる。酸素は座席の下にあり、車掌から鼻に差し込むチューブを借りる。みな息をつくようにして「重い感じがしていた頭の中が、モヤが晴れたようになった」という。

午後9時50分にラサ駅に到着。広い大きな駅舎である。背のすっきりと高い女性が私たちを待ち受けていてくれた。日本名をN子さんというチベット人ガイドである。出身はチベットの西のほう、ブータンとネパールの国境に近い所の出身だそうである。鼻の通った眼のするどい美人である。蘭州で日本語を勉強したという。彼女もチベットの習慣である「カタ」をわたしたち一人ひとりにかけてくれた。

ホテルに向かうラサの街並みと道路は、10年前とはまったく違っている。それはそうだろう。改革開放政策のもとで、しかも「西部大開発」の大号令が掛けられているのだから、昔の面影が残っていてはならないのである。バスはやがて新装の三ツ星ホテルに入っていった。

 

蒼穹の聖城ポタラ宮

 

朝、部屋の窓からはポタラ宮殿の横側が見える。そして待望の、そして高度障害とのたたかいであるポタラ宮殿観光であり、ラサ観光である。私自身も10年ぶりのラサである。

まず、最初にダライラマの夏の宮殿・ノルブリンカに入る。ノルブリンカの入り口付近は、10年前とはまるっきり違っていた。

 

ノルブリンカ宮殿ではダライラマの執務室、寝室、玉座などに再開することができた。

 

ポタラ宮−僧衣を禁じられた僧侶たち

 

10年前は外国人観光客には高度障害を慮ってか、バスで一番上に行ってから下に下りながらの観光であったが、今は違う。下から登るのである。駐車場から30〜40分も歩いてからやっと入り口である。しかも完全予約制で、観光時間も1時間と決められている。しかも入り口では名簿が用意されていて、パスポートで念入りにチェックがなされる。なぜここまで厳重なチェックをしなければならないのだろうか。ひとつは当局によるチベット人の抵抗運動への備えであろう。しかしそれを考えるならば、ほとんどすべてのチベット人が崇拝してやまないダライラマのいた聖城であるポタラ宮を攻撃するいわれがない。外国人のテロを警戒しているのであろうか。しかし、高度障害の難関をかいくぐってここをテロ攻撃するメリットは何もないのではないか。私の観察では、ダライラマの偉大さやその歴史をできるだけ小さい影響で、しかもできるだけ少ない時間内の観光で済ませるという目的がもっとも大きいのではないだろうか。

歴代のダライラマの金色に輝く像や各種の仏像の前では仏僧たちがなにやらの作業をしながら座っている。近くには解放軍の兵士2人がいる。兵士は10年前にはいなかった。仏僧たちには僧衣を着ることを禁じているという話をYちゃんから聞いた。N子さんに質問すると、やはりガイドのマニュアルから外れたことはいいにくいのであろうか、「あの人たちは国から給料をもらっている人で、まだ仏教を勉強中の人もいます。仏僧ではない職員もいます」と答える。するとすかさずどなたかが、「でも仏教は勉強しているのでしょう?であれば単なる職員だけではないのと違いますか?」と関西弁でいう。

 

5000人−500人−50人=の方程式

 

人民解放軍が「平和解放」という名の侵入以前には5000人いた僧侶が、10年前には、解放軍とのたたかいと文化大革命を経て500人に激減していた。殺されたか投獄されたか、生まれ故郷に帰ったか、どこかに逃げ散ったのである。驚くべきことにその僧侶たちが現在ではさらに50人に激減しているのである。なんということであろうか!

初めてポタラ宮殿前の広場で全員の集合写真をとった。念のために記念写真を写す小屋の近くにいた男性に、私のカメラでの撮影を依頼した。終わって彼に10元のチップを手渡したが、渡してからカメラをチェックすると写っていなかった!

 

乾杯!

 

まるで登頂に成功したような雰囲気である。高度障害を乗り越えて「登頂」したポタラ宮があり、五体投地を目の前にした興奮がそうなったのであろうか、「野口先生が一番心配していたポタラ宮を全員が無事に観光できて本当に良かったですね」と何人もが私をねぎらってくださる。私は皆さんの高度障害を心配はしたが、みなそれぞれの自己責任だと強調してきた。皆さんご自身の成功ですよとお祝いの言葉に返答した。

 

かぜのラサ

 

風邪を引いた。出発前、6月の花粉症と結膜炎の症状があっていきつけない狛江市内の医者にいって大急ぎで治したが、完治していなかったようである。

この日の観光はデプン寺とチベット博物館、セラ寺の観光だったが、デプン寺に行くための階段を駐車場から上がり始めて自覚した。息苦しくて、足腰に酸素が十分に入っていないことから来るような身体の倦怠感に襲われていることに気がついた。「これは休んだほうがいい」と直感した。結局、バスの中で休んでみなを待っていた。風邪の症状だが、これは高度障害の一種であろう。Yちゃんが心配してくれたが「大丈夫だよ」といって、一人でバスに戻った。

 

西蔵博物館

チベット博物館だが、いつごろできたのか、かなり新しい建物である。漢字でのみ表している。1950年頃、周恩来首相がダライラマのニセの玉爾を持ち出してチベット代表団に調印させた「チベット平和解放」の協定書などがあった。すべてが政府の思惑通りの博物館の構成になっているのだ。新疆ウイグル自治区博物館よりもその狙いは露骨である。あまり積極的に見る気はしなかったが、次回は時間をとってみてみたい。結局、パンフレットも手に入らなかった。

 

パルコル

パルコルは漢字で八廓街と書く。ジョカン寺を正面にして、その周りをぐるっとまわるバザール街だと思えば、分かりやすいだろう。チベット人がチベット圏各地から汽車やトラックや歩いたりあるいは五体投地で聖地ラサを目指すのは、目的地がポタラ宮ではなく、ここジョカン寺なのである。その人たちはこのジョカンジに来ると必ずパルコルをまわる。店舗も屋台の店もほとんどが各地から出稼ぎに来た漢人たちである。昔からここで商売を営んでいたチベット人たちはとうの昔に蹴散らされている。

 

夕食

この日のディナーはネパール人夫婦が経営しているというレストランである。二回にあがるとときどき見かけた日本人グループや白人グループがいる。私たちは「特別扱い」で一番奥のテーブルになったが、そこはこの店の死角で、披露されるチベットの踊りがまったく見えない位置になっている。おかげでオーナーが私たちの飲むビールはすべて無料ということになった。踊りはモンゴルで見たものとかなり共通しているもののようであった。

 

句会

夕飯が終わって買い物をしてから集合時間に集まり、ホテルに戻ってから句会をすることになっていた。それは今回の参加者の最高齢のS・Tさん(80歳)の弟さんのTさん(73歳)が俳句の先生なのでかねてから「是非、開きたい」との要望が寄せられていたのである。しかし、買い物に夢中になってつい、時間を忘れる人やT女史のように、ゴー・オン・マイウエーで何ものをも考えないで、自分のことに熱中してしまい、集合時間の遅刻常習者がいたからである。結局この日はホテルに戻ったのが10時前で、9時から予定していた句会はキャンセルせざるを得なかった。

 

上人の怒り

S・Tさんは兵庫県の宗教者平和の会のメンバーでもあるが、れっきとしたお寺のご住職さんである。「原水爆禁止国民平和行進」に参加したり、お寺の屋根には広島の原爆ドームを模したものを建てたりと、かなりユニークで平和の意志に徹しておられる上人である。そのS・Tさんが私に言ってきた。「野口さん、私は皆さんに今回のことで、いつも遅れる人たちに皆さんの前で謝罪してもらいたいと思っているんです」と。「おっしゃりたいことは皆さんの前でおっしゃってください。ただし、誰かをさらし者のように皆さんの前で謝罪させるのは、これまで仲良くやってきた今回の旅にヒビを入れることになるので考え直して下さい」といった。結局この日はこれで終わった。

 

ツェタンの街へ

ヨンブラカン

ラサから3時間半のバスの旅は、緑多きのどかな田園風景であった。ラサから約200km離れている。この街は、紀元1400年から1500年頃に栄えた街で、標高3600m、人口は約12万人という。チベットの首府が現在のラサに移るまでの首都であった。ヨンブラカンは高い丘の上にある。メンバーの方々はまだ経験したことのないラクダやヤクや馬に乗って登った。年配者の方々も2人の若い女性ガイドも始めてなのでかなりはしゃいでいた。Nさんは「馬に乗るのが怖いです」と言っていたが、ラクダに乗ったI川弁護士の後ろに乗って盛んに怖がっていたが、到着して降りるときにはニコニコしていた。

ヨンブラカンという名のヨンはお母さんという意味になり、ラカンは小さな宮殿という名前になる。西暦2世紀頃できた寺である。

 

昌珠寺

山南地区にあるこの寺はチベット最後の観光である。この寺は文成公主が夫のソンツエンガンポに建議して遷都したというが、近郷近在からのお年寄りたちが寺の中のあちこちに座り込んでいる。

 

 こうして私たちの青海・チベットの鉄道の旅は大成功のうちに終わった。

 帰国後、あまりの成果とその後の反響が良いのと、まだまだ希望者がいるので11月に、再びのツアーを組むことになった。



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