東トルキスタン共和国の成立と崩壊 〜新疆におけるイスラームの歴史〜
2.清朝、民国時代の回族と反乱
7世紀に誕生したイスラームは、同時にアラブ・イスラーム文明成立のときから、はるかな中国唐朝に強い関心を持っていた。「学問は遠く中国にあるが、行き、求めるべし」というのが、イスラームの創始者ムハンマドの言葉である。

中国のムスリム(中国流にいえば回族・回民。回という語源と意味は不明)は、明らかになっているところでは、唐の時代、アラブ、ペルシアから来た人びとに源を持ち、13世紀、チンギスハーンが中央アジアのブハラ、タシケントを劫略し、多数のイスラーム教徒を奴隷としてモンゴル、のちに元に連行したころにはじまるともいわれている。

唐朝時代、世界最大の国際都市であった長安は、宗教信仰の自由があった。キリスト教のネストリウス派、拝火教と呼ばれたゾロアスター教、マニ教などの宗教が存在した。ところがイスラーム以外の宗教は、時間がたつにつれて勢力が弱まり、やがてはその多くが消滅していったのである。

その一方、「胡」とか「蕃」と呼ばれた西アジア、および中央アジア系の外国人すなわち突厥(とっけつ)、ウイグル、北狄(ほくてき)、インド、大食(タージ)、ペルシア、ソグディアナなど各地、各種族を含んだ外国人集団の中にも、イスラーム教徒だけは回民の形で今まで残され、他の各種族の人々はまったく中国と漢族に溶け込んでしまったのである。

19世紀後半、清朝末期「太平天国」という民衆による全国的な大反乱が起きた。太平天国の嵐は全国に吹き荒れ、中国のいたるところで反清の炎を燃やした。回族の集中していた地域では漢族と回族の反目が激しくなり、ついに太平天国の乱の一支派であった回族大反乱にまで発展した。歴史上、この反乱は「同治回乱」と呼ばれている。反乱の中心は新疆、西北および雲南にあった。

この回族の大乱は1855年から1873年にわたって実に18年間におよんだ。漢族に虐殺された回族の実数は明らかではないが百万人ともいわれ、粛州は“ひとりも生き残りを許さない”という清朝の方針で皆殺しにあい、今でも回族人口が激減したままの地域もある。陜西省の回民の九割、甘粛省回民の3分の2の人口が虐殺され、清朝末期だけでも中国の回族の半数以上が殺された。
しかし“回族をみれば殺す”という恐怖政治の中で、回族を裏切る卑劣な人物が現れ始めた。彼らは回族の上層部に多く、やがて回民の軍閥にのし上がっていった。

1935年、国民党政府の大軍に追われた中国共産党の率いる紅軍は、江西省などの大本営を失った。やむを得ず紅軍は2万5千里の長征を経て中国の南から北方まで転出した。陜西省に到着した第四方面軍に属した第五軍は馬歩芳の騎兵部隊に包囲され、37年正月に甘粛の高台で全滅した。だがこの事件以降、紅軍の連続した敗北という事態は、ちょうど起こった西安事件を契機とした国共合作という事態によって回避された。

また抗日戦争の時期、日本軍部は中国国内の民族問題と歴史問題を利用して、中国内部をかく乱する戦略が一定程度、功を奏した時期があった。「傀儡満州国」の次に、内モンゴルの民族問題を狙って第二の傀儡国「モンゴル自治政府」をつくった。モンゴル民族主義の促進をこうしてすすめ、結果として日本侵略軍の手先になってしまったのである。
当時の日本が、自国から遠く離れたところで民族問題という入り口を見つけ、中国を一時的にせよ連続的に分裂させることに成功したことは、驚くべき出来事であった。

日本軍部がその持っていた知識、その戦略、攻撃の実行において、多民族国家中国の弱点を巧みについたのは歴史の事実である。
同治の反乱の際、回族の一首領・白彦虎(はくげんこ)は内モンゴル、青海、甘粛と転戦し、最後には新疆に落ち延び、天山山脈の南北で3年半もウイグル族と連合してたたかい、やがては国境を越えてロシア領内に逃亡した。

清朝は異民族であるモンゴル、チベット、新疆内の各民族を統治するために権謀術数を凝らした。清王朝が地域や民族によって統治形態を使い分けたのは、清朝体制そのものが圧倒的多数である漢族に囲まれた不安定なものだったため、非漢民族をたくみに間接支配することで、漢族に対抗できる力量にする必要があったこと、そして同じチベット仏教世界である内外モンゴルとチベット地域の間に“新疆のイスラーム世界”をもって楔を打ち込む、という配慮があったことも否定できない。

一方、辛亥革命でアジア初の共和国となった中華民国において、臨時大総統・孫文の「五族共和論」(「国家のみなもとは人民にある。漢、満、蒙、回、蔵の諸地あわせて一人とする。これを民族の統一とする」)も、人民主権をうたった臨時約法も、その後実施されたことはなかった。モンゴル・チベットなど大清帝国藩部を管轄していた理藩部は清末に理藩部に変わり、権力もほとんど失っていた。民国政府は内務部の下にまず蒙蔵事務所を設け、民国3年には大総統直属の機構として蒙蔵院を設置した。

大総統袁世凱在世中はモンゴル、チベット問題は袁世凱の専管事項だったし、彼の死後は蒙蔵院も名目的なものになり、辺境は放置されるままだった。南北対立、軍閥混戦、列強侵略の野望の前に中央権力はきわめて脆弱だったからである。

こうして1910〜30年代前半まで新疆、青海などと中央の関係はきわめて疎遠で、チベットに至っては清朝期よりももっと独立状態にあり、17年の第一次康蔵(西康、つまりカムとチベット)紛争、30年の第2次康蔵紛争など辺境では衝突が絶えなかった。内モンゴルを実際に握っていたのは各盟に盤距していた地方軍閥だった。

近代国家をめざす中国に辺境・民族政策が生まれてくるのはようやく1924年、共産党との合作を実現した国民党1回大会においてであった。

まだまだ続けますので、つまらないからと降参しないで読み進めて下さい。
次へ >>