東トルキスタン共和国の成立と崩壊 〜新疆におけるイスラームの歴史〜
3.東トルキスタン共和国の成立と崩壊
中国・新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」という。中国当局はその言い方に神経をとがらす。1933年、カシュガルを中心に起きた「東トルキスタン・イスラーム共和国」革命の時、初めて「東トルキスタン」という呼称が使われウイグル語に浸透していった。
1933年11月12日は、新疆南部のカシュガルにおいて東トルキスタン民族独立運動の幕開けとなった象徴的な出来事が「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立だった。

東トルキスタンの諸民族が中国からの分離独立を志向している主な目標は、新疆におけるムスリムの民族国家の建設であり、その最初の現れが「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立だったのである。
この運動の端緒は、1931年3月の「ハミ蜂起」だった。蜂起の原因は当時の新疆省主席の金樹仁による権力の拡大を狙った「改土帰留」だった。「改土帰留」とは、かつて清朝に任命されたウイグル人の王を廃止し、王府に属する農民の特権を奪ったことによる。これによって王府の農民たちはそれまでの特権を喪失した。

一方、ウイグル民族の下層農民にとっては、駐屯軍による略奪・圧迫や漢人入植者の増加などを原因とする極端な生活環境の悪化をもたらしたことなど、2つの原因がウイグル人の蜂起をうながしたのである。
この共和国は宗教色があまりにも強く、共和国指導部内の対立などを原因として、わずか半年で崩壊した。この革命の失敗の原因は、共和国大統領のホジャ・ニヤズが新疆省政府と妥協し、総理のサウド・ダームッラと司法部長を拘禁して政府に引き渡したことだった。この共和国が事実上崩壊したのは、政府軍がまだカシュガルに到着していない時期のことであった。
その11年後におきた第2次民族独立運動は、11年前の共和国より規模が大きく、期間も長く、新疆全域はもとより中国内外に与えた影響はきわめて大きかった。

1933年4月12日に新疆省都ウルムチで政変が起こり、盛世才が新疆の最高指導者になった。盛世才は「反帝、親ソ、民族平等、清廉、和平、建設」の六大政策をかかげ、当初は進歩的な政策をとった。この中で、反帝・親ソが鮮明なイデオロギー色をおびているのにたいして、ほかの政策はきわめて一般的なスローガンになっていた。
1930年代はちょうど中国が日本帝国主義の侵略を受けている時期であったため、「反帝」は反日と同義語であった。


ソ連と日本が重視した新疆

日本からはるかに離れている新疆で、なぜ反帝=反日だったのか。

外務省の資料によると、日本が新疆に最初に目をつけたのは、明治時代後期であった。この時期、日本から新疆に入ったのは、日本のロシア駐在公使・西徳二郎、大谷光瑞・橘瑞超が率いる大谷探検隊、上海東亜書院二期生・波多野養作・林出賢次郎・桜井好幸、参謀本部の将校・日野強と上原多市であった。大谷探検隊は多少、文化的な目的を有していたが、そのほかはすべて軍事戦略上の情報収集が目的であり、いわゆる軍事スパイであった。なお、“大谷探検隊はスパイとは無縁であった”との指摘が一部にあるが、大谷光瑞自身が皇室(皇后)の縁戚関係にある貴族だったことから、軍事的な情報収集と全く無縁であるとはいえない。

情報収集の主な目的は、ソ連勢力の新疆への拡張にたいする内偵であった。ロシアは新疆をその勢力範囲に入れて、さらに東へ進めば満蒙で日本勢力と直接、接触・衝突することが不可避になり、満蒙における日本の「特殊権益」と「特殊地位」が脅かされることは間違いない状況にあった。その懸念が、日本が新疆におけるロシア勢力の進出と発展に神経をとがらす原因だった。昭和期に入ってから、国策にもとづいて軍国主義体制を強めた日本政府は、「満蒙は、日本の生命線である」とし、軍の一部には、新疆を日本の勢力範囲に収めようとする企図があった。

日本にとって、ソ連勢力が新疆を含む中国の西北部に入ってくることは、たんに満蒙へ脅威を与えるだけではなかった。それはまた、もし日中間の全面戦争が勃発した場合には、中国がこの地域を通じて、外国、とくにソ連からの援助を受けて長期抗戦ができるようになることを意味するからであった。実際に、蒋介石夫人の宋美齢女史は1940年に「3年間の抗戦において中国がソ連からいただいた物資援助は、実は米英方面からきた総数を数倍にも上まわった」と証言している。1937年7月から38年夏まで約1年間だけでも、ソ連・カザフスタンの首都アルマアタ〜新疆省のイリ〜ウルムチ〜ハミ〜甘粛省の蘭州ルートで、約6千トンのソ連援助物資(武器、弾薬、薬品、ガソリンなど)が運搬された。

このように、戦争初期においてソ連が中国の抗日戦争を積極的に支援していたため、中国人の「反日」感情は「親ソ」感情と容易に結びついていった。盛世才政権の「反帝」とは、当時、盛世才政権にとって米英が敵ではなく、反帝すなわち反日の意味だったのであった。 親ソの盛世才は、1935年6月、政権を安定させるためにソ連に要員の派遣を要請し、コミンテルンは中国人要員10数名を新疆へ派遣した。「25人の共産国家要員」は、みな新疆の政界・マスコミ・教育界で要職を得た。彼らは「新疆民衆反帝連合会」と兼職しており、「反帝会」が現地住民を動員・統制する性格を持っており、盛世才との二重権力の一方の側を担っていた。「反帝会」の設立、人事などはすべて、新疆駐在のソ連総領事・アブレソフの指示により、中国出身の秘書長と組織部長によって運営された。

ソ連は盛世才支持を決めるまで、新疆のさまざまな勢力と接触していた。結果、ソ連はイデオロギーに基づくのではなく、国益にもとづいて、つねに2つの手を打つこと―漢民族出身者の政権である新疆省支援を通じて親ソ的な政治体制を育成すること、現地住民の民族運動への鼓舞・支援を通して親ソ的な社会的政治勢力を育成すること―によって、新疆をその勢力範囲に入れようとしていた。

ちょっと難しいようですね。そうであれば飛ばして読み進めて下さい。
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