| 4.「ソビエト新疆」創設の意図 |
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1930年代、ソ連はなぜ現地のトルコ系民族を支持せず、漢民族支配者の盛世才を支持したのだろうか。ひとつの理由は、盛世才がソ連のウルムチ駐在総領事に、自分が共産主義の信奉者であることを表明していたことである。もうひとつは、盛世才がウルムチの政権によって選出され、1911年7月に中国国民政府によって新疆の最高指導者に任命された正統な支配者だということである。 これは当時の極東における国際情勢に関連していた。 日本はその軍事行動を満州から中国内地およびモンゴル地域まで展開させる傾向を一段と明白にした。ソ連にとって、アジアにおける最大の敵は日本となったのである。 当時、極東におけるソ連の最大の関心事は、中国民衆の抗日運動によって時をかせぐことにあったのである。このようなとき、ソ連が辺境の民族を支持して、独立したイスラーム国家を新疆に建設しようとすれば、ようやく抗日に向かいつつあった国民政府を反ソに向ける恐れがあったろうし、英米との協調をもつぶす恐れがあったであろう。 新疆におけるソ連の一連の動機が、「第2の外蒙共和国としてソビエト新疆の創設」或いは「外蒙の一加盟国化と同じやり方で新疆をソビエト連邦のひとつに数えんとする」というような推測は、この当時かなりあった。盛世才本人も1950年代に、“ソ連の新疆進出の目的は、新疆をソ連の付属国にすることにある”と主張している。 新疆社会でのソ連の援助の実務責任者を務め、のちにアメリカに亡命したアレクサンドル・バリミンという人物は、当時、ソ連の新疆進出の実態について、「我々は、1万人の新疆軍隊の靴から国民党の徽章まで完全に装備し、ソ連人顧問は新疆省の官僚の側に置かれて、事実上、省の権力を運用していた。・・・・わたしの仕事は、技術者を指揮して新疆全域で道路・空港・飛行場を整備することであった。名前を除いて、新疆はまもなくソ連の植民地となった」と証言している。 盛世才は中国共産党に多数の幹部が要職に就くことを要請したが、その後、独ソ戦によってソ連軍が撤退し、国民党の勢力が及んでくるとソ連が掌握していた秘密警察の権力移譲のための策謀を凝らし、新疆のいわゆるトロツキストの召還をスターリンに求めていった。37年12月、中国共産党の幹部・徐夢秋は新疆省教育庁の副庁長に任命され、これがウルムチ政権に入った中国共産党幹部の第一号であった。 37年春、カシュガルのマフメッド師団長が国民政府とひそかに連絡を取っていたことが暴露された。またソ連軍が投降した反乱軍兵士にたいして大虐殺を行なったことなどが、複雑に錯綜した結果、盛世才政権が民族指導者をウルムチ政権に参加させる理由もなくした。10月、盛世才は突然、民族指導者のホジャ・ニヤズを逮捕した。続いて政権側にいたウイグル族、カザフ族そしてモンゴル族などの指導者を次々と逮捕していった。盛世才がでっち上げた罪名は、ホジャ・ニヤズが日本の特務機関と連絡をとり、新疆でイスラームの国をつくろうとしているという罪状だった。この時点から盛世才は、その民族政策を「民族平等」から鎮圧策に転換させたのは明らかである。 1940年春からは第2回の大粛清を起こした。今度のでっち上げの理由はウイグル人指導者たちが「ウイグルスタン・イスラム共和国」の樹立を計画しているということであった。これは、盛世才を除外した中国共産党とソ連勢力が結びついた政治権力システムが新たに構成され、盛世才が政治的脅威を感じていたことが原因であった。 42年8月、盛世才は独ソ戦争におけるソ連の敗勢を見てソ連に見切りをつけ、ソ連勢力を追放し、43年には、毛沢東の弟・毛沢民らを捕らえて処刑した。 盛世才は時勢を見て蒋介石国民党政府に忠誠を誓ったのである。しかし、盛世才は44年9月、蒋介石によって重慶政府に農民部長として召喚されてしまったのである。 |
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