中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
2.カザフスタンのアルマトゥへ
5月21日(木)
アルマトゥは「リンゴの里」の意味です。
天山山脈 ロシア統治下の1854年にヴェールニーと呼ばれる砦が築かれたのが起源で、1927年よりカザフ社会主義共和国の首都、中央アジアではタシケントと並ぶ大都会です。ビジネス、文化、学問の中心地です。首都は1997年にアスタナへ遷都しています。
朝夕に天山山脈の支脈アラ・トゥ山脈の美しい姿を眺望できる景勝地でもあります。
宿泊したホテル名「オトラル」は、この旅を象徴する名前です。
「オトラル」の名前はチンギス・ハーンの遣いであるキャラバンが、この地の総督にモンゴルからの莫大な土産を贈って通称を求めてきたのを虐殺したことに怒ったチンギス・ハーンが、中央アジア侵攻の発端となったオトラル事件発祥の地です。
オトラルはさらに、チムールが東方中国の明遠征の途上に病死した地としても有名です。

「国立中央博物館」でスキタイの「黄金人間」像にお目見え
「国立中央博物館」は、カザフスタンの歴史や文化、民俗など展示内容は多岐に渡りますが、特にここは帝政ロシアによる植民地化の過程が理解できるようになっています。
遊牧時代のカザフ族の習慣・風俗や伝統が分かり、館内には遊牧民の象徴であるユルタ(移動式天幕)が展示され、近現代の資料が数多く所蔵されています。
また、旧ソ連時代に行われたセミパラチンスクでの核実験の被曝状況を表すもの、アラル海の縮小など、負の遺産も展示されています。スキタイの王子
しかしそのかわり、以前この場所にあったスキタイの王子が黄金の鎖帷子(かたびら)で覆われた「黄金人間」の本物は首都のアスタナに移されて、ここにはレプリカが陳列されているのですが、それでもうっとりするほどの美しさでした。
王子の父の像は盗掘にあって現存していないとのことです。

旧名アルマ・アタ市は独立後、街の名前もカザフ語に変わりましたが、シェフチェンコ通りは昔のままだといいます。車はドイツ車が多い、と聞きましたが、街を走る車を見る限りでは日本車のほうが多いようです。最近では、SUSHI BARがシンボル・ステータスになっているとのことです。

なぜ、首都移転だったのか
それはガイドのジャニベク君の話を書き写すしか方法はないようですが、新しい首都のアスタナは、その地がある北部地方が経済的な貧困地のために、地域活性化の目的があったこと、アルマトゥ地方が、若い天山山脈の造山運動で地震が起こりやすいところだ、ということが大きな理由だったようです。
でももう一つの理由がありました。それは独立以前から権力を独占しているナザルバエフ大統領が、自分の名を後世の歴史に残したかったということが、この地の人びとの話になっているということでした。よくある話です。
あまり興味が湧かないでしょうが、一応、カザフスタンの歴史やあれこれをご紹介します。資料としては『地球の歩き方』より、新しく正確だと思います。
 

カザフスタン

中央アジアの北部・中部を占める国。正式名称はカザフスタン共和国。
国境は北にロシア、東で中国、南でキルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、西はカスピ海に面しています。
面積は272万平方kmで中央アジア最大で、世界9位となっています。
首都はアスタナ(旧ツェリノグラード)で、そのほか14の州と1つの特別市(1997年までの首都アルマ・アタ)があります。

国土と住民
カザフスタンの地勢はモンゴルから南ロシアに連なる中央ユーラシア草原の一部になっています。
中部から南部にかけては砂漠が広がりますが、シル・ダリヤ(川)沿いには古くからオアシス都市や農地が存在していました。しかし近年、シルダリヤ流域では、アラル海問題に伴う環境破壊が深刻になっています。
東部にはアルタイ山脈、南東部のセミレチエには天山山系の山脈があり、気候は亜寒帯気候・ステップ気候・砂漠気候・地中海気候など多様ですが、全般的に大陸性で、年間の温度差は大きいといいます。
1999年度の人口は1495万人、民族構成はカザフ人54.4%、ロシア人30%、ウクライナ人4%、ウズベク人2・5%となり、公用語はロシア語になっています。

天山北路のオアシス都市アルマトゥは人口約113万人。首都として発展し、1997年のアスタナ(人口約33万)への遷都後も、文化・経済の中心地で「南の都」とも言われています。
1907年にできたロシア正教会などの建造物や各民族が集まる中央バザール(グリーンバザールともいいます)など、現在でも“人種の坩堝(るつぼ)”の様相を呈しています。
小麦など穀物をはじめとする農産物に恵まれており、ソ連時代は「国家の食糧基地」といわれていました。カスピ海沿岸の天然ガス資源のほか、鉄鉱石、石炭など鉱物資源の埋蔵量も豊富です。

ロケット打上げ基地のバイコヌールは中西部にありますが、この基地は、現在、ロシアが年額1億1500万ドルをカザフスタンに支払って借りています。

核実験で知られるセミパラチンスクは東北部の街です。ソ連崩壊の時には、ロシアがカザフスタンの独立を最も嘆いたというのも分かる気がします。それに加えて、膨大な天然地下資源があったことも、その大きな理由になっています。
かつてソ連のフルシチョフ首相は、「カザフスタンは処女開拓地帯である」といって、スターリン以来の侵略的野望を隠さないでいました。

カザフスタンは、旧ソ連の共和国ではロシアに次いで豊かさは第2位でした。最近は若手のビジネスマンが活躍しています。
1860年代に、アメリカの南北戦争で原綿の輸出がストップした関係があり、ロシアが綿花産出地帯である中央アジア侵攻をもくろんだのです。
隣の中国の新疆アルタイ山脈や天山山脈山麓では、カザフ人が遊牧民として長い年月にわたって住み着いています。

ロシア正教会 私はかつて旧カザフスタン共産党や政府の幹部だけが宿泊できたというオトラルホテルに宿泊し、独ソ戦のモスクワ攻防戦で活躍した地元出身の軍人と戦士を記念したバンビーログ隊28士記念公園のモニュメントやロシア正教の美しいゼンコフ教会など、10年程前によく散歩に歩いたところを懐かしく思い浮かべることができました。

歴 史
カザフスタンの領域では昔から、遊牧民族政権が興亡を繰り返しましたが、北部と南東部で別々の政権が立つことが多く、モンゴル帝国期にもジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスとに分かれていました。
この地は、モンゴル高原からキプチャク草原にいたる広大なステップの重要な中間地点にあり、10世紀前後以降はキャラバンサライ(隊商宿)が数多くありました。
13世紀にはモンゴルのチンギス・ハーンの侵攻にあい、15世紀後半には、両地域にまたがるカザフ・ハン国の成立により、領域的には一体となってきました。

1730年代にはカザフ人の一部を臣従させたロシア帝国は、1820年代までに、南部を除くカザフスタンを直接、統治下におきました。
19世紀半ばにこの地域を管轄したのはオレンブルグ総督府と西シベリア総督府ですが、1850〜60年代の南部合併後に統治制度が再編され、帝政末期には北東部がステップ(草原地帯)総督府、南部がトルキスタン総督府、西部は内務省直轄とに分かれていました。
帝政下でカザフ人の近代化受容が徐々に進み、ワリハノフ、アルトゥンサリン、アベイらの知識人が活躍しました。

ロシア革命、内戦期にカザフの知識人たちはアラシュ・オルダによる自治を試みました。それらの活動の結果、1920年、ソビエト・ロシアの中にオレンブルグを首都とするカザフ(ロシア語名キルギス)自治共和国が成立しましたが、カザフスタン南部はトルキスタン自治共和国の一部でした。
民族・共和国境界画定に伴い、25年に南部を編入し、オレンブルグをロシア本土に移管してクズルオルグを首都とするカザフ自治共和国が形成されました。

29年にアルマ・アタに遷都したのち、36年にソ連邦を構成するカザフ共和国に昇格しました。ゴロフチョーキン指導下の遊牧民定住化やスターリンによる大粛清は大きな悲劇をもたらしました。

戦後にもセミパラチンスク核実験場による被害がかなり深刻な課題が残されています。
2009年8月3日、NHKで「核は大地に刻まれていた(カザフスタン)」という番組が放映されました。この番組で核実験による放射能汚染の実態、特に食生活を通じ人体に蓄積した放射能物質による自己被爆を取り上げていましたが、この調査は日本人、ドイツ人研究者も参加した研究でした。ソ連邦崩壊によって、核実験による被爆の実態と後遺症が始めて国際的に明らかになった唯一の場所であると報じています。

ペレストロイカ期にはアルマトゥ事件などで民族間関係の緊張が見られましたが、大規模な紛争には至りませんでした。 91年12月、ソ連崩壊とともに独立しました。ただしこの独立は、カザフ人による独立運動が展開されたわけではなかったので、独立後には、その政権、政治体制などに複雑な旧体制の残滓が残っていることも事実です。

日本との関係
日本とカザフスタンは1992年1月に外交関係を開設して以来、安定的に関係を拡大してきました。
日本からのODA供与は2003年度までの累計で有償資金協力47億円にのぼりますが、カザフスタンの経済成長に伴い、その必要性について再考の時期を迎えています。他方、直接融資は2001年度までの累計で1億5700万円にとどまっています。文化・学術交流はさらに地道に進展させる必要があるようです。

カザフへの最短の道は、私たちのようなタシケントから乗り継いでアルマトゥに行く方法が一番早いようです。私は1990年には、北京〜新疆ウルムチ〜同イリから陸路、国境を越えてカザフに入りましたが、別の日程では、新潟からハバロフスクへ飛び、そこからシベリア経由でアルマトゥに直行するか、やはりハバロフスクからタシケント経由のルートがありました。それよりさらに以前は、モスクワ経由が多かったようです。

中央アジア史、いや人類史を推進したタラス河畔の戦い
タラス河 タラスの戦いとは、751年の唐軍とイスラームのアッバース朝軍との戦いです。
タラス川は天山山脈西部に位置するタラス連山より北流し、その河畔が主戦場となりました。
唐の安西節度使であった高仙芝(こうせんし)が、シャーシュ(石国)の討伐を目的としてタラス川西岸のオアシス都市タラスに進軍したところ、西トルキスタンを押さえていたアブー・ムスリムの派遣するイスラーム軍と衝突するに至りました。

勝敗は、当地の遊牧勢力であるカルルクが唐軍にそむき、イスラーム軍と呼応して唐軍を挟撃したことによって決せられて、唐の敗北に終わりましたが、この戦いで唐の西限が決まりました。
ただしこの戦闘は、両者ともに既有の支配地(東西トルキスタン)に対する威信を確保すると同時に版図を西へ拡大する目的もありました。

しかし、敗北のあと「安史の乱」(775年)で唐の国内部の事情が大きく関係し、以後、唐は中央アジア支配からの撤退を余儀なくされました。
またこの戦いで捕虜となった唐の兵士の中に紙漉き職人がいたことによって、中国の製紙技法が西伝したといわれていますが、ソグディアナから出土した8世紀前半の文書は、中国の製紙技術による紙と認められるものの、現地産の可能性が高く、タラス河畔の戦い以前に少なくともソグディアナには伝播していたと見るほうが妥当だといわれています。

また757年には、サマルカンドに製紙工場が建てられたといいます。東西が衝突したポイントは、東西文化の融合地点にもなったのです。ただ、この「紙」は、現地産の粗悪なものですが、中国のものは、より上質だったとの説もあります。
しかし、この紙の製紙法がローマにまで伝わったのは1190年のことなので、タラスの戦いから400年かかったことになります。

タラスが最盛期を迎えたのは12世紀だといわれています。中央アジアで初めてイスラーム教に改宗したトルコ系民族が興したカラ・ハン朝の首都です。
郊外にはその時代に築かれたという、カラ・ハン朝の王子と死に別れた悲恋の妃のアイシャ・ビビ廟も残されています。

ジャニベク君からここの美しい姫の悲しい伝説を聞きましたが、その内容は、新疆クチャのクズルガハ烽火台の美しい姫の悲しい物語とまったくそっくりなのです。どこにでもある伝説なのか、それとも近い距離にあったので、同じ話が、あちこち飛び火したのかもしれません。いずれにしても創作ではないようです。

さらにここタラスが歴史に残されるようになったのは、5〜6世紀にビザンチン帝国(東ローマ帝国)から大使が来たために、歴史文献に残ったといわれています。
現在では、人びとはタラスの戦いの故事も知らず、この古戦場がどこにあるのかも知らない人がほとんどのようです。

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