3.キルギス | ||||||||||||||||||||||||||||||
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5月22日(金)キルギス朝食後、バスでキルギスの首都ビシケクへ。ビシケクとは「馬乳酒をかきまわすもの」の意味です。
これは政府発表ではなく、ジャニベク君が集めた街の声からです。となると、このほうが、信憑性がありそうです。 両国の経済格差のなんと大きいことか、ということと、キルギスがはるかに収入の低いこと、その中でも政府の幹部がずば抜けて収入が多いことが理解できます。 遊牧・放牧の代金 キルギスはまだ遊牧生活をする人が多いのですが、都市生活者やサラリーマンも増えています。そこで、遊牧・放牧などを家畜の専門家に依頼することが多いそうです。羊は1シーズン(4ヶ月くらい)で1ドル少々、牛は5.5ドル、馬は12ドルが相場だそうです。 ジャニベク君も学生時代の夏休みにはアルバイトでこの仕事をしたそうですが、この仕事の大敵は、“ヒマでヒマで、気が狂いそう”だったということでした。 「キルギス国立歴史博物館」 ビシケクのアラ・タウ広場の奥に立つ四角の建物が国立歴史博物館です。 内部は、旧ソ連時代の資料とともに、国内で発掘された石人やスキタイの青銅器などがあります。キルギス特有の刺繍のほか、遊牧民の移動式住居ユルタも展示されています。 見終わった感想は、期待したほどのものはなかったということですが、それはキルギスの経済状態がなせるワザ。ソ連時代にはやられていた発掘などの作業が経済難で打ち切られている状況からすれば、これ以上は望めないということも実感できました。 かつて、正面を飾っていたレーニン像が裏側に移されています。完全に撤去していないことにこの国とロシアの力関係、ないしはロシアへの依存度を示すものがありそうです。 5月23日(土) トクマクとスイヤーブ(砕葉城)城跡 トクマクはキルギス共和国の首都ビシケクの東約60kmにある地方都市ですが、周囲にはアク・ベシム、バラサグンなど、多くの重要な史跡があります。 まずスイヤーブ(砕葉城)というのは、7世紀中ごろ、当時この地方を支配していた西突厥を滅ぼした唐が増強した城で、トクマクの西南7kmのアク・ベシム遺跡に比定されています。アク・ベシムは巨大な城壁の中に、緑の丘が累々と広がる遺跡でしたが、遺跡の中央に立つとすぐにスイヤーブの跡に違いないと直感できます。周囲に750×600mの城壁をめぐらし、ところどころに起伏のある遺跡の状態が、新疆のジムサルの北にある北庭都護府の外観と似ています。 キルギス人がこの地に移動してきたのは400〜500年前だといわれています。 ここに遺された唐の時代の都市遺跡・スイヤーブは、唐の詩人李白(701〜762年)の生まれた地でもあります。 しかし、ソ連時代に発掘作業はあったものの、独立以降は、内戦や経済的な困難から発掘作業が中止されたままになっています。現在までの発掘の進捗度合いは10%だとのことです。遺跡の保存や維持管理のレベルが、ここからも理解できます。 国の予算というものは、どこの国でもそうですが、いつも開発や工業生産が優先されて、学術文化及び教育的なこの分野はあとまわしにされるものです。この種のシルクロード関連の発掘研究作業が、国際的な援助も含めて早く再開され、公開されることを望むものです。 そういう日本でさえ、教育予算は先進国中で下から2位の低さです。 玄奘三蔵が立ち寄ったといわれる「アク・ベシム遺跡」 アク・ベシムは玄奘三蔵を迎え入れたことのある先進的な仏教寺院でした。 アク・ベシムはキルギス・トクマク市の南西約8km、ブラナの塔から北西へ約6kmにあり、天山山脈の北麓・チュー河畔にあります。7世紀前後に一帯で勢力を誇ったソグド人や突厥の都市遺跡で、貨幣や仏像、レリーフの断片などが発見されています。 さらにここは、西突厥のスイヤーブがあったとされる場所ですが、当初、多くの学者が、この当時、広く中央アジアを支配していた西突厥の本拠が分からなかったのです。 ところが当時の記録が書いてあった古文書から分かりました。さらに、玄奘三蔵の『大慈恩寺三蔵法師伝』には、この地方への旅の模様がくわしく書いてありました。 「玄奘三蔵がイシック・クルから西北に500余里進んでアク・ベシムに着くと、そこで西突厥の葉護可汗に会った。可汗はちょうど狩りに行くところで、多数の兵馬を従えていた。玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んで、『私はこれから狩りに行くが、2〜3日で帰ります。師はどうかしばらく私の天幕で待たれよ』といい、一行を突厥の本拠に送って休ませた」とあったのです。 「ブラナ」の塔 ビシケクから東へ約60km。トクマクから南に10kmほど行ったところに、10〜13世紀、ここは遠くカシュガルあたりまでの一帯を支配した遊牧民族国家カラ・ハン王朝の首都、バラサグンだったとされています。 「ブラナ」の塔は、カラハン王国のバラサグン城跡にある10世紀頃建造の王国のシンボル。13世紀の地震で高さ48mあったものが、上部が崩落し、現在では24m。塔上からは雄大なアラ・トゥ山脈が眺望できます。 11世紀に築かれたブラナの塔は、イスラーム教におけるミナレット(尖塔)ですが、このすぐ近くに見当たるはずのモスクは見当たりません。このミナレットは、遠くからやってくるキャラバンの灯台の役割を果たしていたようです。 造られた当時、45mほどあった塔は15世紀の地震で崩壊し、1970年代に土台が修復されましたが、崩壊した部分は未修復で、現在の高さは約24mだそうです。 私も塔の上まで登ろうと思ったのですが、ちょうど、中央アジアは6月25日から夏休み、多くの子どもたちや中高生が来ていて超満員なのであきらめました。 ひん死の石人 まわりは草原地帯。頂上からのパノラマは、さぞかし絶景だっただろうと思いました。辺りは野外博物館となっており、数多くの石人や城壁の跡や岩絵などを見ることができます。周辺は遺跡公園として整備され、5〜6世紀、突厥の将軍達の墓石であるバルバル(石人)が全土から集められ展示されています。 近代の開発の波は世界中で歴史遺産や文化遺産を破壊していますが、中央ユーラシアの草原地帯も例外ではありません。草原から農民が入り込んで来ると遊牧民が追い出されて、農民は耕作に邪魔な石人の像を叩き割るか、畑の脇にどけて、ときにはそれを建築資材にも利用したのでしょう。そのような破壊を免れたごく少数の石人像が博物館などに運び込まれて現在に至っているのです。いわば、“ひん死の石人”なのです。 「石人」だけでも、ひとつの学問領域となるほど、広く深い内容があるのですが、ここでは簡単に触れる程度にします。 石人はほんらい、王侯やハンの墓前に立てられた石像を指しますが、朝鮮半島や日本にもあります。 中央ユーラシアではチュルク系諸族の石像を石人の名で呼ぶことが一般的ですが、紀元前7世紀からのスキタイやサルマタイの石像、下って12〜13世紀のモンゴル帝国期以降のモンゴル東南部の男女一対坐像も石人ということがあります。 スキタイの石人(紀元前5〜前3世紀当時)は北カフカスから黒海北岸・西岸に広まりました。クルガン(墳墓)の頂きに立てられ、そこに葬られた王か豪族を表現したもののようです。鎧、冑、首輪、角杯、帯、戦斧、鞭、ゴリュトス(弓と矢を一緒に入れる袋)、剣などが表現されています。サルマタイの石人はカスピ海北東のウスチュルト台地でのみ発見されました。積石塚などの石造祭祀遺構の東か南に複数で立てられていたらしい。兜、多重螺旋の首輪と腕輪、帯、長剣、右足大腿部に短剣、左腰にゴリュトスが表現されており、前4世紀末〜前2世紀のサルマタイの埋葬遺跡からの出土品と一致するといいます。 ブラナの塔のあるバラサグンの石人はチュルク(トルコ)時代のもののようです。 チュルクの石人はモンゴル高原から天山北方(アルタイ、ジュンガル地方)やカザフスタンに分布します。(1)は右手で胸の前に容器を持つ石人、(2)は両手で腹の前に容器を持つ石人に大別されます。(1)は方形の石囲いの東側に立ち、そこから東に立石の列が伸びています。通例、石囲いは南北方向に数基並んでいるものです。石囲いを火葬場とする説と埋葬遺跡ではなく追悼遺跡とする説とが対立していますが、石人をそこに葬られた人物とみなす点では一致しているようです。 年代のはっきりしている最古の石人は天山山中のイリ地方にあり、下半身に刻まれたソグド語碑文から6世紀とされています。しかし突厥の本拠地であったモンゴル高原では第一可汗国時代(552〜630)の可汗クラスの遺跡(ブグト遺跡)に石人はなく、第二可汗時代(680〜744)の遺跡に見られます。 次の東ウイグル可汗時代(744〜840年)の可汗の遺跡には石人はありません。しかし、それ以降もモンゴル高原西北部や天山北方、カザフスタンでは(2)の石囲いなどの遺構を伴わないことが多く、女性像も増え、その意味も(1)とは異なるものです。これが10〜13世紀の南ロシアのキプチャクの石人に発展したものと思われます。 5月末とはいえ、内陸気候、もうすでに真夏の様相。汗だくになりながらも、迫力のある楽しい遺跡めぐりが続きます。 イシック・クル(湖)−天山山中の大湖 イシック・クルは標高1609mにある不凍湖です。面積は琵琶湖の9倍、東西182km、東西57km、周囲700km、水深702m。天山山脈から70もの川が流れ込みますが、流れ出る川は1本もなく、その為、13世紀以来、水深が100mも深くなり、湖底には古代烏孫の赤谷城が沈む神秘的な湖です。 旧ソ連時代は高級官僚の避暑地となり、外国人の立ち入りは禁止されていました。西域に関する小説、紀行を多く著した井上靖が一番訪れることを熱望した場所でもあります。7世紀、この湖を通った玄奘三蔵は「大清池」と書き記しています。 アク・ベシム遺跡は7世紀まで、中央アジア一帯を支配していた西突厥の葉護可汗の「砕葉城・スイアーブ」の居城跡です。玄奘三蔵は多大な犠牲を払い、天山山脈のベデル峠を越え、この地を訪れています。その理由は玄奘の天竺(インド)行きの支援者となった高昌国王・麹文泰の親書を葉護可汗に届ける為でした。この遺跡には仏教寺院があったことが、発掘調査で判明しています。 ロシアの大冒険家プルジェワルスキーがこの湖畔に眠っており、墓と記念館・碑があります。 イシック・クルの南北岸は古代から重要な交通路で、トクマク方面からイシック・クルに達する道は、ここから東進して北新疆のイリに向かい、湖の西岸リバチェから南進する道は、トルガット峠を経てカシュガルに達します。 また湖の南岸の街バルスカウンから南下する道は、天山をベデル峠で超えて新疆のウス県に達します。玄奘三蔵が往路クチャからイシック・クルに達したのもこの道であり、7世紀中ごろ、唐代に西突厥を滅ぼした安撫大食副使の王方翼が増強した城が、安西都護府との連絡を保ったのもこの道でした。 近世には16世紀にキルギス族がこの地方に進出しましたが、17世紀にはジュンガル族(カルムィク)に追われ、18世紀中ごろにキルギス族が復帰したといいます。 この湖の北岸には、水位の上昇で湖底に沈んで無くなった古代集落があり、遺物は8〜15世紀の遺物が多いといいます。これらの湖底遺跡は、北岸のトルアイギルからアナンエボにいたる地域に多いともいいます。 イシック・クルは、琵琶湖の9倍もある大きさなので、はるか遠くからでも見えるのですが、なかなか湖岸にたどりつきません。湖の水はかすかな塩分がある程度ですが、まるで海です。 “人生はすばらしい、それは旅ができるから” プルジェワルスキー(ロシア):1839〜1888年 ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェワルスキーはロシアの大探検家であり、ロシア皇帝の意を受けての探検行という情報収集活動によって、ロシア帝国に貢献した功績で陸軍少将にまで上り詰めました。 1867〜69年、ロシア東部の中ロ国境付近・ウスリー地方の探検を敢行。探検家として世に認められました。それ以後、4回の中央アジア探検を行いました。 シベリア進出を果たし、極東への拡大を狙い、帝国主義国家の仲間入りを果たしたロシア帝国が、次に狙ったのは当然のことながら西アジア〜インド〜中央アジアの権益で、それはシルクロードを北方から支配することによって実現されるものでした。その目的を達成するために、すでに1845年にはロシア帝国地理学協会が設立されました。 地理学と生物学が得意だった陸軍大尉プルジェワルスキーは、東の中国との国境のウスリー河流域調査が契機となって、ロシア帝国地理学協会会長セミョーノフに師事し、本格的な探検行に入っていきました。 都合4回にわたるプルジェワルスキーの中央アジア探検は、1870年、ロシア帝国地理学協会から派遣されたことからはじまりました。 ロシアの帝国地理学協会は、ロシア帝国が中央アジア一帯を植民地として我が物とするための、斥候あるいは情報収集のための偵察行動をするための、いわばスパイの役割を果たす隠れ蓑だったのです。 シルクロード探検史に多大な貢献をしたプルジェワルスキーでしたが、1888年、第5回の中央アジア探検を開始するさい、イシック・クル(湖)畔で雉撃ちに興じていたときに生水を口にし、当時、その付近で流行していたチフスに感染して亡くなってしまいました。死の間際に語った彼の言葉が、この標題の言葉でした。 シルクロード探検は、ロマンあふれることばかりではありません。 15世紀中ごろから17世紀中ごろにかけて、ポルトガル、スペインなど先発のヨーロッパは、世界の各地を侵略し、植民地にしていきました。そのあと、18世紀から19世紀にかけての産業革命で力をつけた後進のイギリス、フランスやオランダなどの帝国主義列強が、新たな植民地の対象に選んだのが南北トルキスタン(中央アジア)一帯であり、新たな帝国主義国家入りした帝政ロシアも、この列強に加わったのです。そして、世に名高い英露の“グレイトゲーム”が始まったのです。その先駆けとなって探検に参加したのが、プルジェワルスキーなのです。 シルクロード探検の先駆者であるプルジェワルスキーにもうひとつの顔があったことを忘れてはならないでしょう。なぜならば、ロシアが中央アジアを我が物としたあとの人びとが、支配者の理不尽な行いによって、塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになったのですから、これを無視することはできないのです。 今回の旅で私は、オプションでプルジェワルスキーの墓へ行くことを望んだのですが、私の宿舎からは湖を挟んだ真正面に当たるため1日がかりになるのであきらめました。そこには彼を記念する博物館と記念碑などがあるということでした。 イシック・クル湖岸の中心都市チョルポン・アタにある野外岩絵博物館 イシック・クル(湖)の北西の山を登っていくと「チョルポン・アタ野外岩絵博物館」があります。古代人が描いたとされる岩絵(ペトログリフ)の描かれた岩が千個以上も散在しています。 チョルポン・アタ野外岩絵博物館は面積が42平方メートル。今から2800年ほど前からあったようです。 私が驚いたのは、その岩絵のなかには紀元前7世紀頃から活躍した人類最初の遊牧騎馬民族であるスキタイ・サカが描いた岩絵があったことでした。さらに驚いたのは、現在、絶滅危惧種になっている天山山脈の雄ユキヒョウを飼いならして、鹿を狩猟している岩絵がいくつもあったことでした。 私のシルクロード研究の主要なテーマのひとつが、この人類最初の遊牧騎馬民族スキタイ・サカなのですが、かれらがこのような岩絵を描いていたことにはまったく驚きました。 スキタイが描いていたとなると、おそらくこの中には、そのもっと以前の新石器時代後期のものもあるに違いありません。 それをもう少し知りたかったのですが、ここには「入場券売り場」もないし、紹介するパンフレットもありません。したがって、くわしいことが分からないのです。当地や中央アジアの専門家のあいだでは研究が進んでいるのでしょうが、私たちには知られていません。この辺は大いに改善していただきたいところです。 一方、現地の住民のなかにはシルクロードという概念そのものが存在しているかどうかという現状なので、その両者の乖離のはなはだしさに想いがいってしまいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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