中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
4.再びカザフスタン
5月24日(日) 
再び、カザフスタンに入り、タラスへ向かう。この日は一日中、バスの旅。

5月25日(月) 
カラ・ハン朝時代の「アイシャ・ビビ廟」へアイシャ・ビビ廟
タラス郊外に、カラ・ハン朝時代の女性2人を祀った廟があります。廟に関する伝説も様ざまにあるようです。廟は12世紀のアイシャ・ビビの廟と伝えられていますが、素焼きレンガで美しいものです。多様な模様が創りだされ、後ろ側の壁はオリジナルのまま残されています。その隣には、修復された11世紀の女性の廟、ババジ・カトゥン廟があります。

5月26日(月)
朝、ヒヴァのあるウルゲンチへ向かいます。
ヒヴァをひとことで表現するならば、“砂漠に浮かぶ幻覚の街”と言えます。
16世紀、アム・ダリアが流れを変えたため、ホラズム帝国の首都クフナ・ウルゲンチは放棄され、この地に新たな都が築かれました。潤沢な水に恵まれシルクロードの主役として「太陽の国(ホラズム)」の政治、経済、宗教の中心都市となりました。
富を支えたのは奴隷売買で、ヒヴァは中央アジア最大の奴隷市場をかかえていました。
ハンは奴隷の仕入れの為、近隣の住民や旅人を襲わせ、18世紀、南下してきたロシア人も捕らえられ奴隷となった為、後にロシアからの侵略の口実とされました。

イチャン・カラ(内城)
周囲1,200m、高さ8m、厚さ6mの土塁で囲まれた中世シルクロードの街がそっくり現存しています。

イスラム・ホッジャ・メドレセ
イスラム・ホッジャ・ミナレット 1910年建造のヒヴァで最も新しい建物です。ヒヴァ最後のイスフェンディヤル・ハーンの大臣、イスラム・ホッジャが建てたものです。
彼は比較的進歩的な人物でロシア・西洋の文化を取り入れ近代化を図ったのですが、ハーンと僧侶たちに嫉まれ、陰謀で生き埋めにされ、殺害されてしまいました。どこでも進歩や改革を唱えると、必ず抵抗勢力が出てくるものです。
ミナレットはヒヴァ最高の45m、色タイルの付け方から実際より高く見えます。

カリタ・ミナル
「カリタ」とは短いと言う意味です。西門側にあり、アミン・ハーンが1852年に着工したのですが、26mで中断しています。完成すれば109mになるはずでしたが、アミン・ハーンが1855年にペルシアとの戦いで死んだため、工事は中止されました。

パフラワン・ムハンマド廟
パフラワン・ムハンマド廟はメインストリートから南に行ったところにあるパフラワン・ムハンマド(1247〜1326)の霊廟。毛皮商人で同時に詩人・哲学者。クラッシュ(ウズベキスタンの武道)の達人だったのでパフラワン(強者)と名づけられました。
霊廟内は一面鮮やかなターコイズブルーのマジョリカタイルで覆われており、中庭の泉は「この水を飲むと男は強くなり、女は美しくなる」との謂(いわ)れがあります。

クフナ・アルク(古い城塞)
17世紀に建造された古い城壁で囲まれた要塞の一部、古い宮殿ともいわれます。王座のある2本の高い柱のあるテラス(アイグアン)は、壁面は七宝タイルで覆われ、天井は赤、黄、緑、黒などで飾られています。ペルシア軍により破壊されましたが、19世紀はじめに再建されました。

昼食は民家で「ポロフ」
かなりの面積の建物を持ち、外国の車もある(といっても、ここには国産車はないのですが)この家の主人は、やはり、かつて党と政府の幹部職員でした。そうでなければこのような外国人観光客に食事を接待する(無論、旅行会社と契約を交わしての有料ですが)ことはできないでしょう。金持ちはどこまでいっても金が入るようにできているのですね。貧乏人階級代表の私にはそれがよく分かるのです。

「ポロフ」というのはウイグルの地では「ポロ」といい、この文化が西へ行って「ピラフ」になったのです。好みとは“食のシルクロード”でもあったのです。
この地帯をバスで走っていると、ジャニベク君が面白いことを話してくれました。ウズベク系カザフ人の家は、外から庭が見えないように造られているが、カザフ人の家は外から庭が見えるように造られているということです。なるほどそのとおりでした。また、ここにはウズベク系キルギス人も住んでいるとのことですが、私には、誰がどの民族だかサッパリ分かりません。

民族とは
しかし、「民族」というものは複雑なもので、中央アジア5ヵ国の、それぞれの国境の向こうとこっちで、いかほどの違いがあるのだろうかという思いがします。かつて私は、東トルキスタン(現在のほぼ新疆ウイグル自治区)に居住している、トルコ系、ペルシア系、チベット系やロシア系諸民族に直接会って書いた紹介原稿を、ある新聞に連載したことがありますが、今にして思えば、大した違いはないのです。古代、中世、近世から現代に至って、さまざまな要因で国境が引かれただけなのではないでしょうか。

東トルキスタンに限っていえば、私たちの研究グループでは、「今までのように、民族の違いを強調することに、なんのメリットもない。今、必要なことは、それぞれの民族名とその違いを強調することではなく、タクラマカン人とでも言うほうが、21世紀と未来につながる適切な呼称ではないだろうか」と提起しているのですが、皆さんはどう考えられるでしょうか。

博物館都市・ヒヴァ(khiva)
この日は朝早くホテルを出てからほとんどがバスの生活になるので、快適なバスでの生活をする身支度を整えて覚悟して乗車。要するにTシャツ、ショートパンツとサンダルです。

ヒヴァ ヒヴァは、アム川下流域に古代から栄えたホラズムの地にあります。
16世紀の初期、ウズベク人イルバルスによってブハラ・ハン国から独立したヒヴァ・ハン国が1592年、それまでの首都クフナ・ウルゲンチに代わって建てた首都で、中央アジアの諸都市ブハラやメルヴなどと、アラル海の南から西行し、カスピ海を北に出て、ロシアとを結ぶ国際的な交通路の中心でした。18世紀に一時イラン軍によって荒廃させられましたが、その後、立ち直って1920年まで繁栄しました。

ヒヴァは内城イチャン・カラと外城ディシャン・カラで構成されており、外城には商人や手工業者が職業別の専区に住んでいました。
内城に沿った丘にはハンの王宮クフナ・アルク内城内には、ハンの私邸タシュ・ハウリ宮殿や多くのイスラーム寺院・学校・墓廟・歴史家でもあったアブル・ガージー・ハンの墓、市場・キャラバンサライ(隊商宿)などがあり、内城そのものが史跡で、入れば中世シルクロードにタイムスリップできる場所です。

途中で渡ったアムダリヤ(川)は今ではアラル海に注いでいるのですが、昔はカスピ海に注いでいたといいます。当時、ホラズム王国の都は、メルヴにありましたが、流れがヒヴァに変わって、今はトルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチの街が寂れたといいます。このメルヴにはインドの仏典がメソポタミアの壺に入っていたともいわれています。まったく歴史を感じさせてくれるものです。

イチャン・カラ(内城)
ヒヴァ ヒヴァは、クフナ・ウルゲンチの街が寂れた代わりに16世紀頃から栄えたホラズム帝国の首都。全長6・1kmの外城と全長2・2kmの内城の二重の城壁で街を囲み、都市を守ったといいます。
内城のことをイチャン・カラといいます。13世紀、ペルシアの攻撃によって灰燼に帰した跡ですが、内部にはケルテ・ミナルの塔があります。まるで大きなコップを逆さにしたような大きなミナレットです。
ここ20のモスク、20のメドレセ、6つのミナレットのあるヒヴァは、1967年には内城の旧市街全体が歴史博物館に指定され、1993年には街全体が世界遺産に登録されています。

「中央アジアの真珠」と呼ばれるヒヴァは6千年前から人が住んでおり、「中央アジアの3つの真珠」のひとつといわれてきました。
青の街サマルカンドやブハラとはまったく様相を異にするヒヴァの街は、私の目を釘付けにしてしまいます。城壁の上にある王の居室の真下は、犯罪者の刑場となっていました。言われてみれば納得できますが、強盗や殺人の犯罪者よりも、税を納めない者のほうが重罪の死刑になったというのです。税によって帝国が成り立っているからです。

王座の間 刑は「生き埋め」「首切り」や「城壁の上から落とす」というものだったそうです。不倫をした女は、大きな3匹の猫と一緒に袋の中に入れられ、まわりから棒で叩くそうです。痛がる3匹の猫は袋のなかで暴れ狂い、爪で女を傷つけて、7〜8時間もかかって絶命するのだというのですから残酷なものです。絶対的な男尊女卑のもとでは、不倫は絶対に許されない重罪だったのでしょう。

余談ですが、女性たちは寝るときも、いつでも宝石類を身につけています。なぜなら、夫が妻に対して「タラク」という言葉を3回続けて発すると、妻はその場で離婚されたことになり、一刻の猶予も与えられずに家から出なければならないといいます。ですから、いつ離婚を申し渡されても良いように、寝るときも唯ひとつの財産であるすべての宝石類を身につけていたのだといいます。

現在でも婚前交渉などがあれば、一生、結婚はできないといわれています。私たちのまわりでは、できちゃった婚などと、その反対のことがあまりにも多いので、それほど倫理観が厳しいことは、かえっていいことなのかもしれません。
でも考えてみれば、これはあくまでも男性本位の考え方ではないでしょうか。男は一夫多妻で、女性に恋愛の自由を保障しなかったのです。または、あくまでも妻の処女性にこだわっていたのか、悩ましいところです。

アラブ人は8世紀にこの領域を征服し、ヒヴァもイスラームの世界の一部になりました。この街にはアラル海から年間大量の塩分が飛んでくるといいます。だから食物には塩は使わないといいます。

イスラム・ホッジャ・メドレセとミナレットイスラム・ホッジャ
人通りの少ない道路を隔てた向こう側が、もう城内です。内部にはこの国で一番美しい45メートルのイスラム・ホッジャ・ミナレットが聳え立っています。まるで火力発電所の煙突のようです。
ヒヴァの最期のハン、イズフェンディヤル・ハンの大臣イスラーム・ホッジャによって、1910年に建てられたので、ヒヴァでは一番新しいものです。

イスラーム・ホッジャは非常に進歩的な大臣で、たびたびロシアを訪れ、得た知識を自国の発展に役立てようとしてヨーロッパ形式の学校を開き、病院、郵便局なども開き、橋や道を造って近代化につとめました。非常に人気があったため、ハンと僧侶たちのねたみと陰謀で殺されてしまいました。生き埋めにされたといいます。

メドレセはタイルで飾られた正面入り口がありますが、左右対称ではありません。中庭も大きくなくて、囲んでいる1階に42の部屋がありますが、2階があるのは入り口の部分だけです。
ミナレットはヒヴァでは一番高く45m、基底部の直径は9.5mですが、色タイルのつけ方のためか、実際よりも高く見えます。

ムハンマド・アミンハーン・メドレセ
1852年建造のここは、中央アジア最大の神学校でした。西門を入ってすぐ右手にあります。ムハンマド・アミン・ハンが建設を命じ、中央アジアで最も大きい規模の神学校で、最盛期には99人の寄宿生がいたといいます。神学校であるばかりでなく、イスラームの最高裁判所の事務局もありました。
中庭を取り巻く二階建ての建物には、125の部屋があり、ヒヴァでははじめて神学生のために2部屋続いた部屋が与えられました。しかし1977年からはホテルとして使われているといいます。歴史遺産にたいしてなんという仕打ちなのでしょうか。

ジュマ(金曜)・モスク
ジュマ・モスク 10世紀に建造されたヒヴァで最古の建築物だといいます。
ここは、ジュマ(金曜日)に礼拝に使われるモスクです。創建は10世紀で何回も修復を重ね、18世紀に今の形になったといいます。1077〜1231年にアム河下流域に栄えたホラズム・シャー朝の建築様式を残しており、彫刻のある木柱(アイワーン)が212本、約3m間隔で立てられ、梁を支えています。そのうち4本は10世紀頃のもので、ホラズム最古の木彫りとされています。

5月26日(火)
トルクメニスタンとの国境、ホレズム王国の発祥地

クフナ・ウルゲンチ
クフナ・ウルゲンチはアム・ダリアの恵みを受け、ペルシアに通じるシルクロードの大交易オアシスとして、10〜14世紀の500年間、古代ホラズムの都(グルガンジ)として栄えました。
モンゴル軍やチムール軍により破壊され、同時に17世紀、アム・ダリアの流れが変わり、水の利が絶たれたので、都はここから東南150km離れたヒヴァに移されました。

クトゥルグ・チムール・ミナレット
ホラズムの提督クトゥルグ・チムールが、14世紀に建造した中央アジア最高の67mのミナレット。台座の直径は12m、周囲は36mもある大きな塔。

ドーム天井 トレベク・ハニム廟
クトゥルグ・チムール夫人の廟。ドーム天井は、上より365個の星、24と12のアーチ、4つの大窓で描かれ、1年、12ヶ月、24時間、四季を表しています。

スルタン・テケシュ廟
12世紀後半のホラズム・シャー黄金期のハンの霊廟。図書館、神学校を備えた複合建築物。円錐形トンガリ屋根が珍しい。

2時間以上もかかった国境の検問所通過はだいぶ緊張したのですが、そこはプロの旅行社。おまけに私たちはなにも悪いことをしていないので、ただ、時間がかかっただけ。時間のかかる理由はすぐ分かりました。
初めから登録してある名前などは、さすがにコンピューターに載っているのですが、もう1人の係りの兵士がコンピューターを見ながらボールペンで粗末なノートに、一人ひとりの名前やパスポートナンバーなど書き写しているのです。だから時間がかかるのです。
深夜、国境の街タシャウズへ向かい、空路、トルクメニスタンの首都へ。
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