中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
5.トルクメニスタン
5月27日(水) 

トルクメニスタン

トルクメニスタンの面積は49万平方キロで日本のおよそ1・5倍となっています。国土の70%以上がカラ・クム砂漠になっています。人口510万人(トルクメン人85%、ロシア人4%、ウズベク人5%・95年)。首都はアシュガバート。

主な産業は農業(綿花)、鉱業(天然ガス・石油)で、とくに天然ガスの埋蔵量は世界で5番目だといわれています。アム・ダリヤから世界最大のカラ・クム運河が引かれ、人口510万人の人びとが暮らしています。人びとはわずかな緑地を拠点に、古くから半農半牧の生活を送ってきました。綿花も数多く産出しています。

1995年、国連の承認を得て「永世中立」を宣言し、独自の外交路線を展開していますが、トルクメニスタンはこれまで、サパルムラト・ニヤゾフ前大統領の独裁といった感じが強く、閉鎖的な国ですが、2007年12月に急死しました。謎の心臓発作という「急死」でした。

トルクメニスタンは旧ソ連の共和国でも最貧国でした。独立後の内部紛争で国は疲弊していました。昔、トルクメニスタンには農奴制がありましたが、トルクメニスタンはかつて、南下してきた主に商人崩れのロシア人を奴隷として売買していたことがあったので、これを討伐するという大義名分を持って侵攻・植民地化を進めたのです。そして最後まで、ロシアの侵攻にたいして、頑強に抵抗したのもトルクメニスタン人でした。

トルクメニスタンはある意味では、北朝鮮よりも徹底した個人崇拝国になっており、現在は半鎖国状態に陥っていて、よほどのことがない限りビザが発給されません。
私たちがトルクメニスタンに入国するときも、非常に緊張して、パスポートのチェックや入国の各種書類を厳密に調べられました。しかも、ウズベキスタンの国境でバスを降りてから砂漠の中を500メートル近くも歩いて出国手続きをし、そこでかなり時間を食ってから通過し、さらにまたそこから1km近くも歩いてからトルクメニスタンへの入国手続きをするのです。敵対国はないし、交戦中でもないのによくもここまで厳重を極めるものだと、その非能率的なやり方に呆れたものです。

トルクメニスタンでの「トルクメンバシ」という言葉は「トルクメン人の父」という意味で、「偉大な指導者」サパルムラト・ニヤゾフ大統領自身をさしていました。国中の銅像、肖像画から紙幣に至るまで、観光客でも毎日彼の姿を眼にしなければなりません。学校では、「祖国を、サパルムラト・トルクメンバシを、祖国の神聖な旗を裏切ったときには、私の息は耐えるがよい」という言葉が毎日唱えられていました。かつての毛沢東個人崇拝や金日成あるいは金正日崇拝に共通するものがあります。

「人生のサイクル」も、2002年に大統領令で次のように定められています。
13歳までは「幼年期」、
25歳までは「若年期」、
37歳までは「青年期」、
49歳までは「熟年期」、
61歳までは「予言期」、
73歳までは「霊感期」、
85歳からは「老年期」、
というものでした。そして自身に対しては終身大統領を宣言するという、とんでもない大統領がいた国でした。

そして、2007年12月22日の各紙は、ニヤゾフ終身大統領が前日の21日、「心臓病のため」急死したと伝えました。わざわざわたしがカギカッコで書くことからもお分かりのように、この国は「急死」をカギカッコで書かざるを得ない状況が存在しているのです。
20年以上に及ぶ長期の独裁体制による民主主義の不在は、混乱が必至です。なぜなら、この国では豊富な地下資源があり、イランやアフガニスタンと国境を接しており、ロシアや米国にとっても、いわゆるイスラーム過激派との関係があって、この独裁体制のほうが好都合なこともあるのです。
同時に、この国独特の権力機構として、地域ごとに分けられた6つの氏族があり、それぞれの権力者たちが政府や軍・警察や保安機関を分け合って支配してきたという構図があります。

首都アシュガバードを訪れると、まず、“ニヤゾフ前大統領が命令して造り上げた街”という印象があります。それは1948年の大地震で98%の建物が壊れ、85%もの市民が亡くなったために、旧い建物も旧市街といった街並みもなくなり、すべてが新しいからでしょうか。
いや、私はニヤゾフが強権を発揮して新しいビルをいくつも造ったからだと思えます。特に中心部の官庁街には大きく堂々とした建物ばかりが建ち並んでいます。中立広場の「永世中立のアーチ」、金色のドームを頂く大統領府やルーヒエット宮、また地震復興のモニュメントなどは、すべて大統領の権威を見せつけるためにのみ、そびえたっているようにしか思えないのです。
極めつけは、すでにとっくの昔の1948年の大地震で亡くなった両親と10数年前に亡くなった兄のための荘厳で壮大なモスクがあり、そこに自らの遺体も入っていることを見るだけで、その個人崇拝ぶりがいかに激しかったのかがお分かりだと思います。“現代に生きた中世の封建領主”だったといえます。

アシガバードへ
トルクメニスタンは国土の約70%がカラクム砂漠です。カラクムとは「黒い砂」のこと。この砂漠はアシガバードのすぐ近くまで迫っています。街の南には、イランとの国境となっているコペトダグ山脈が横たわっており、いずれも荒涼とした風景となっています。しかし、首都の街並みはそれと対照的に、たくさんの噴水があります。
アシガバードは「愛の都」という意味ですが、その印象は「噴水」でした。この街はコペトダグ山脈の北に位置し、人口約74万の首都です。1948年の大地震で壊滅しましたが、現在は復興し、整備された街並みとなっています。

  5月28日(木)
人類最古の農耕集落のひとつの遺跡アナウ
セイット・ジュール・アッデン・モスク跡 ここはアシガバード郊外、南東約12kmにある紀元前1万年ころからの古代集落跡で、この一帯は中央アジアでも最も古くから農耕が行われていた地域だといわれています。アナウには新石器時代から人類が定住していた形跡があります。1904年に発掘調査が行なわれ、採文土器が出土して話題になりました。
紀元前5000〜3000年の白小麦が発掘されています。アナウには15世紀頃に「バガバット」と呼ばれる城砦都市があり、1948年の地震で倒壊したセイット・ジュマール・アッデン・モスクの残骸が残されています。アーチは龍の紋様を描いた鮮やかな青のタイルで飾られており、貯水漕等もある水の豊富なところでした。

バザール タルクチカ・バザール
タルクチカは“押し合いへし合い”を意味し、トルクメニスタンにあるものはすべて売られている市場。絨毯、羊、ラクダ、自動車まで。

パルティア人王国の遺跡ニサ
ニサはアシガバードの西約15km、コペトダグ山脈のふもとにあるパルティア帝国初期の首都で、山を望む荒野に朽ち果てたような遺跡があります。
ニサ遺跡 紀元前3世紀、遊牧国家セレウコス朝を排除し、イラン高原を制圧し、そのパルティア王国の中心として栄えたのがニサでした。しかし、ローマ帝国の東征を受けて弱体化し、さらに3世紀にはササーン朝ペルシアによって滅ぼされました。

乾いた土の堆積が一面に広がる光景からは、往時の都の姿を思い浮かべるのは難しいですが、背後に山々があり、城壁の上に立ってみると、はるか彼方まで目が届きます。彼らがそこへ都を築いた理由だけは分かるような気がします。
午後、アシガバード市内観光。

トルクメニスタンの民族・歴史・文化が凝縮するサバルムラト・トルクメンバシ名称国立博物館
市街地にあった歴史博物館を1998年、郊外に移し総合博物館として新しく完成させました。展示は各分野に及びますが、見ものはやはりニサやメルヴの出土品で、特にゾロアスター教の儀式で用いられていたものが収蔵されています。
まさにニヤゾフの造った、周囲を圧倒する規模の建築物ですが、熱心でまじめな女性ガイドがいる割には見学者はほとんどいません。ただ、外国人にニヤゾフの偉大さを見せつけるのが目的のようです。

5月29日(金)
空路、カラクム砂漠の中央に位置し、サマルカンドやブハラ、イランとの中間点に位置するキャラバン都市として栄えた中央アジア最大の遺跡メルヴ観光の拠点マリィへ。

マリィは、アシュガバードの東約300kmにあるトルクメニスタン第2の工業都市です。この街の歴史は1884年、メルヴを征服した帝政ロシア軍が近郊に街を築いたことから始まりました。街はそのままメルヴと呼ばれていましたが、1937年にマリィと改称されました。とくに見るものもない街です。

メルヴはカラクム砂漠の南の端にあり、東西を結ぶ重要な中継地点で、幾多の王朝が栄枯盛衰を繰りかえしてきました。この街はかつてシルクロードきっての規模を誇ったオアシス都市でした。ペルシアと中央アジアを結ぶ重要な中継点として成長し、数々の王朝や帝国の興亡の舞台となりました。特に首都となったセルジューク朝時代の繁栄はめざましく、「高貴なるメルヴ」と呼ばれるイスラーム世界屈指の都に発展したのです。あの「千夜一夜物語」でシエラザードが王に物語を語った舞台もこのメルヴだったといわれます。

しかし1221年のモンゴルの来襲で街はことごとく破壊され、メルヴは一瞬にして歴史の舞台から消え去ってしまったのです。
エルク・カラ、スルタン・カラなど、紀元前6世紀から西暦12世紀にかけての時代が、異なる遺跡が同じ場所に残る世界文化遺産です。

荒涼たる グヤウル・カラの仏教寺院跡
メルヴは時代によってそれぞれの遺跡を包み込んでいます。もっとも古いものはキズ・カラと3キロほど離れたところにあるエルク・カラです。ここに仏教寺院がありました。
紀元前6世紀から前4世紀まで、この地を支配していたアケメネス朝ペルシア時代の城跡だといいます。城跡といっても建物の気配はなく、ただの小山にすぎません。その頂きに上がりました。エルク・カラの城跡は野球場ほどの大きさでした。これを包み込むように、グヤウル・カラ城址が迫り、一帯を取り囲んでいます。

6世紀頃の日干し煉瓦の城塞跡「大キズ・カラ」と「小キズ・カラ」遺跡
大キズカラ マリィから東へ40分ほど走ると、メルヴの遺跡の入り口があります。ここからさらに車で少し入ると2つの遺跡が現われました。
キズ・カラはスルタン・カラの南西にある城址で6〜7世紀のササーン朝時代にハンの居城として築かれたといいます。

柱が何本も連なった形状は日干し煉瓦でできており、大キズ・カラ、小キズ・カラといわれる2つの遺跡が並んでいます。
バスで遺跡内に入っていって、手前が大キズ・カラ、向こう側が小キズ・カラです。6世紀頃に造られ11〜12世紀に繁栄したセルジューク朝でも使われた城の遺跡です。
この大キズ・カラに近づくと、壁の波打ち状の凹凸はとても大きいものでした。城壁の内側は小さな丘がありますが、高さ約20m、幅40m、奥行きは30m以上あります。かつては2階建ての城郭だったようです。

キズ・カラとは「乙女の城」という意味です。ここを支配していたセルジューク朝の君主たちは、ここで奴隷の女たちと夜毎の饗宴を楽しんでいたのでしょう。
小キズ・カラは男の奴隷たちが生活していたようですが、今は、朽ち果てた日干し煉瓦の城郭があるばかり。
ここもクフナ・ウルゲンチ同様に、1221年、モンゴルがメルヴを破って100万人ともいわれる犠牲者を出して廃墟となったようです。それでもこれだけの姿をとどめたということは、それだけこの城が大きなものだったからでしょう。でも100万人は、いくらなんでもオーバーです。

メルヴ遺跡の東北隅の最古の城址・エルク・カラ
大キズ・カラから3kmほど離れたところに、エルク・カラがあります。
紀元前6世紀から前4世紀まで、この地を支配していたアケメネス朝ペルシア時代の城址だといわれています。城址だといっても建物の気配はなく、ただの小山に過ぎないように見えます。
エルク・カラの城址は野球場くらいの大きさでしたが、これを包み込むようにギャウル・カラ城址があたり一帯を取り囲んでいるのです。
紀元前3世紀半ば、アレクサンドロス大王の死後、彼の下にいた武将でセレウコス朝を開いたセレウコス1世の子、アンティオコス1世の治下に築かれたものです。

夕食はトルクメニスタンの民族音楽と若い男女の舞踊団の踊りとともに・・・ 民族舞踊
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