中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
6.ウズベキスタン
5月30日(土)
ウズベキスタンとの国境の街、トルクメンアバードに向かい、アムダリアをわたって国境を越え、一路、バスでウズベキスタンのブハラへ向かう。

5月31日(日)
ブハラ(Bukhara)
ブハラは2500年前から存在している世界有数の都市のひとつです。
ブハラとサマルカンドにはモスクやメドレス、墓廟などイスラーム期の建造物を中心に数多くの史跡名所があり、そうした今も眼に見える壮麗な歴史的遺産と、さらにシルクロードにまつわる茫漠たるロマンがこれらのオアシスに人びとを惹きつけます。まずは2つの街の共通点を見てみましょう。

パミール山系に源を発するザラフシャン川流域は、オアシス都市が集中し、中央アジアでも有数の肥沃な地帯です。
ザラフシャン川の流れに支えられて、ブハラもサマルカンドも紀元前からオアシス城郭都市として発展しました。9〜10世紀にいたるまでオアシスの農耕を支え、手工業を発展させ、そしてユーラシア大陸をまたにかけた国際交易の担い手であったソグド人が暮らした領域は、ソグディアナと呼ばれました。サマルカンドはその中核であり、ブハラはその西の端に位置しています。2つの都市はインド、ペルシア、中国、そして北方の草原地帯の遊牧民を結ぶ国際交易の中継地点として、つまり「シルクロードの十字路」の機能を果たしたのです。

ブハラとサマルカンドはまた、トルコ系のウズベク語を話すウズベク人が主要民族とされるウズベキスタンにありながら、ペルシア系言語であるタジク語が、こんにちまで人びとの生活の中で使われていることでも共通しています。

実はこの問題には、中央アジアにおける民族別国境画定の正当性を問い直し、ひいてはこの2つの都市の帰属をウズベキスタンからタジキスタンに移すべきだという根強い主張につながる側面もあり、今なおウズベキスタンとタジキスタンの間にさまざまな波紋を投げかけているのです。中央アジアの定住民地域で歴史的に繰り返されてきたペルシア語とトルコ語のバイリンガリズムの伝統が、今も息づいているのだと、今日の段階ではとどめておきましょう。

ブハラは「聖なるブハラ(ブハラーイ・シャフリーフ)」というペルシア語の雅称をもちます。ブハラは歴史的に中央アジアのイスラーム学の中心であり、ムハンマドの言行録「ハディース」編纂で世界的に名高いアル・ブハーリー(810〜870年)らを輩出しています。ブハラにはおびただしい数のモスクやマドラサが造られ、世界各地から人々が訪れたといいます。
ソ連時代に入ってこれらの数は激減し、現在に至っていますが、ソ連時代から現代を通じて機能し続けるミーリ・アラブ・メドレスが、そのよすがを伝えています。

古代ブハラは、サマルカンド同様、ソグディアナの一中心都市で、現在のウズベク共和国のザラフシャン川下流の諸オアシス都市を含む大国家でした。その首都であるブハラは、現在に至るまで人びとの生活の場としての都市の位置を変えていないので、古い遺跡は残りませんが、広大な城壁の一部、古代から有名な要塞、丸屋根バザールのタキ・ザルガラン、仏教寺院遺跡の上にあるゾロアスター教寺院、その上にイスラーム寺院が建てられたマゴキ・アタリモスクなどが残っています。

6〜7世紀、ブハラ市は自衛軍を持つ強固な政治・商業都市で、シルクロード沿線の都市として繁栄していました。709年、クタイバの率いるアラブ軍に征服されてからイスラーム化し、9世紀末期にはサーマニー朝の首都となり、商業とペルシア文化復興の中心として繁栄しました。

13世紀には、この地も例外なくモンゴルの侵攻を受け徹底的に破壊され蹂躙されましたが、14〜15世紀にはイスラーム神秘主義ナクシュバンディー派の聖都となりました。さらに16世紀には、チムール朝を滅ぼしたウズベク族のシャイバニー朝(以後ブハラ・ハン国)の都として政治・文化の中心でした。今も残る建築群はこの時期のものです。

ブハラは1997年のブハラ・ヒヴァ建都2500周年の祝典を契機として、主な歴史的建造物が集中的に修復されました。ソ連時代の修復中で一部が失われたままだったものが、ほぼ完全な形になったのですが、なぜかシルクロードらしい「古色」が失われてしまったと嘆く人も多いようです。これは新疆シルクロードも同様です。観光本位に形だけシルクロードに似せてつくった、“エセ・シルクロードもどき”の建物が多いからです。

ブハラのアルク(城塞)の城壁、サマルカンドのグーリ・アミールやビビ・ハヌムなど、あたかも真新しい建築物のようにピカピカなのです。ここには史跡保存に対する意識と方法の違いが現れているようです。

サマルカンドの西方にあるブハラは、人口約26万人、9〜10世紀にサーマーン朝の首都でした。16世紀からブハラ・ハン国の首都として栄えました。西部には、高さ10数メートルの城壁に囲まれた内城「イチャン・カラ」で知られるヒヴァがあります。3都市ともに世界文化遺産に登録されています。

ハンの居城であったアルク(内城)
アルク(内城) アルク内城はブハラを支配した歴代ハンの拠点だった城塞です。
ブハラには紀元前5世紀から砦のある集落があったといわれていますが、現在見られる遺構は17〜19世紀のものです。
1920年、ソ連赤軍の司令官フルンゼの軍にブハラ・アミール国が倒され、ハンによる支配は終わり、城は破壊されました。余談ですが、キルギスの首都ビシケクは当初、この将軍の名前を取ってフルンゼと名づけられていたのです。

城壁内のほとんどは荒地となっていますが、戦いの歴史や処刑の様子などを展示した小さな博物館があるほか、地下牢、中庭、サラーム・ハナ(謁見の間)、玉座の間、ハンの居室などが残っています。
城壁の上からは、ブハラの街並みを一望できます。

イスマイル・サーマニー廟
ここは、892年にブハラを首都としたサーマニー朝の支配者、イスマイール・サーマニー一族の霊廟です。サーマニー朝唯一の遺構で、いくども抗争のため砂中に埋もれましたが、1925年、ほぼ原型のまま発掘されました。
913年〜943年の建造で、方形の建物にドームを載せた中央アジア最古のイスラーム建築として有名です。テラコッタと日干し煉瓦で造られており、外壁、内壁ともに、幾何学模様で飾られています。四方の壁は、ホンの少し内側に傾いています。傾斜の原因は、長年、地下水をくみ上げ続けたことにあるようです。

カラーン・ミナレット、カラーン・モスク
過ラーン・ミナレット カラーンとはタジク語で「大きい」という意味です。ミナレットとは「光の塔」という意味になります。
カラーン・ミナレットは1127年、カラ・ハン朝の君主アルスラン・ハンによって建てられました。高さは45mで、基部の直径は約9m。土台部分が地下に10mも入っています。105段の螺旋階段を上り、かつてアザーン(礼拝の呼びかけ)が行われていた部屋へ行くことができます。1868年までは、ここから囚人を投げ落とす処刑が行われていました。

カラーン・ミナレットとつながっているのがカラーン・モスクです。
現在の建物は1514年、シャイバニー朝時代に建てられたものです。名前が示すとおり非常に大きなモスクで、サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵するといわれています。広さは1ヘクタールあり、1万人が礼拝できたといいます。
回廊は208本の柱で天井を支え、208の丸屋根で覆われています。

ミル・アラブ・メドレセミル・アラブ・メドレッセ
ミル・アラブ・メドレセはカラーン・モスクに面して立ち、巨大なアーチの両脇に2つの青いドームを持っているのがミル・アラブの神学校。青と白のモザイクタイルからなる食物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期チムール様式の典型的な例だといわれています。
中庭を囲んで回廊があり、1階は主に講義を行う部屋や図書館、食堂などの小部屋、2階が寄宿舎になっています。多くの神学校のうち、ソ連時代に中央アジアで開校を認められた数少ない神学校です。
教育年限は7年で、試験で選ばれた学生はアラビア語、クルアーン(コーラン)、イスラーム法などを寄宿生活をしながら学んでいます。
このメドレセは1536年にウバイドゥッラー・ハンの資金で建てられたといいます。ハンが3000人以上のペルシア人奴隷を売って建築資金をつくったので、「このメドレセの土台はレンガと粘土ではなく、人びとの血と涙と悲しみでつくられたのだ」と歴史家が記録しているといいます。

丸屋根で覆われたバザール・タキ
タキ・バザール タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールで、関所のような役割もあったようです。
16世紀初期のタキは専門店的要素が多かったようで、高価な宝石類の売買、いろいろな材質、模様の帽子類の売買、外貨、宝石や金の売買のために人びとが各地から集まってきたようです。
ここでは様ざまな交易品が売り買いされていましたが、そのことは同時に、多様な人種の交差点でもあったのです。

ナディール・ディバンベキ・メドレセ
1622年にナディール・ディバンベキによって建てられた神学校です。イスラームでは、ご承知のように偶像否定ですので、このメドレセでは正面入り口のカラーのタイルに描かれた絵に驚きます。
メドレセ正面 2羽の鳳凰が爪で白い鹿をつかんで、太陽に向かって飛んでいる絵です。太陽の真ん中には顔が描かれています。
サマルカンドのシェルドル・メドレセの絵と同様に街中で怒りや動揺が起きたことは容易に想像できます。彼ナディール・ディバンベキはこれをキャラバン・サライとして建てはじめ、建設後に「これはメドレセだ!」と、突然、宣言したのだといいます。

ウルグ・ベク・メドレセ
ウルグ・ベク・メドレセは1471年から20年をかけてつくられました。その巨大な入り口には約15メートルのアーチがあります。ここには天文台が建設されました。このメドレセには100人の学生のために50の僧房があったといいます。

リャビ・ハウズ
ハウズとは池のことです。伝説なのですが、アブドゥーラ・ハーンの大臣ナディール・ディバンベキがここに大きな池を造りたいと思い、土地の持ち主であったユダヤの女性に売ってくれるように頼みました。でもきっぱりと断られました。そこでナディール・ディバンベキは、彼女の家の下に運河を通させました。運河の水が家を流しそうになったので、彼女は仕方なく家屋敷を手放しました。それで1640年にここに造られた池は、“力ずくのハウズ”と呼ばれるようになりました。

大きな石できちんと作られた池の四隅は、水を汲み、洗濯がしやすいように、段々でおりられるようになっています。周りには樹齢数百年になるような楡の木が生い茂り樹陰を提供しています。
私たちが写真を撮ろうとすると、そこに来合わせていた中学生や高校生たちが、ワットばかり取り囲んで、ピース!ピース!といって一緒に並んでしまいます。日本の同じ年頃の子どもたちは、そんな無邪気な可愛らしいことはしなくなっていますね。

チャシュマ・アイユブ廟
チャシュマは“泉”、アイユブは旧約聖書に出てくる預言者ヨブのことで、“ヨブの泉”という名前です。人々が水不足で苦しんでいたとき、ヨブがここを杖で叩いたら、泉が出てきたという伝説によります。
12世紀に泉が出て、14世紀に真ん中のドームが、16世紀に前のドームが、といった具合に次つぎに建て増しされていったのです。近くからだと見えないのですが、公園の方から見るとアンバランスな形になっているのです。四角の平らな屋根の上にとんがり帽子型の屋根、ドーム型の屋根が2つ、ドームの上に採光窓のある屋根がついています。
昔、この泉は眼病に聞くといわれて、大勢の人びとが遠くからやってきましたが、疫病の流行で禁止されたといいます。

6月1日(月)
チムールの生まれ故郷シャフリサブスへ

一代の英傑・チムール
英雄チムール 中央アジアやウズベキスタンを考える際、どうしてもチムールを抜きにして考えることはできません。

チンギス・ハーンの次男チャガタイが中央アジアのイリ川流域に創建したチャガタイ・ウルス(ウルスは所領・国の意味)は、その後、マー・ワラー・アンナフル(中央アジアのアム川とイリ川との間の中間地帯の桃源郷の意味)に拡大しましたが、14世紀半ばには東西ウルスに分立しました。このうち西方ウルスでは、チャガタイ・アミールと呼ばれる有力部族の統率者たちが、チャガタイの子孫に代わって実権を握りました。

稀代の英雄で建築王でもあったチムール(1336〜1405年)は、そのようなチャガタイ・アミールのひとりでした。彼はサマルカンド南方のキシュ(シャフリサブズ)近郊で生まれ、チンギス・ハーン時代からの伝統を誇るバルラス部族の出身でしたが、彼が登場したとき一族は零落していました。

しかしチムールは、旧来の部族原理にとらわれない新しい家臣団を組織しながら、有力なチャガタイ・アミールたちを巧みに味方につけてアミール間の抗争を制し、1370年にサマルカンドに政権を打ち立てました。70年代を通じて彼は中央アジアのホラズム、モグーリスタンへの遠征を繰り返す一方、チャガタイ・アミールたちの反乱が相次いだため、アミール・コックを処刑したり、政権内の役職に任命したりし、またアミール・コック以下の部族の解体を強行して、彼らの勢力削減につとめました。
またチムールは、チンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫をハンに推戴して傀儡化するとともに、チャガタイの子孫ガザン・ハンの娘をめとってキュレゲン(女婿)を名乗り、チンギス家の権威を借りて支配の正統性を主張しました。

一方、チムールはイスラームの権威をも利用しようとしたのです。政権樹立にあたり、かれはサイィード・バラカをはじめとするサイィード(預言者ムハンマドの子孫)たちの同意を取りつけ、イスラームの権威者からのいわば「お墨付き」を獲得しました。サイィード・バラカはその後も、チムールに大きな精神的影響を及ぼし、彼の死後、チムールは一族が眠るサマルカンドのグーリ・アミール廟にその遺骸を改葬したほどでした。

チムールは1380年から1405年の死の直前まで、旧イル・ハン朝の領土を征服するため西アジア遠征を繰り返す一方、2度にわたりジョチ・ウルスに遠征して草原地帯を支配下におこうとしました。その結果、チムール帝国の領土は中央アジアから西アジアにかけて飛躍的に拡大しました。チムールは帝国各地から多数の職人、建築家、学者などを都のサマルカンドに集め、5年戦役(1392〜96年)の直後にはサマルカンドで大規模な建設事業に着手しました。

彼は子孫たちに帝国各地を所領として与えましたが、巧妙に配置換えを行い、帝国の分裂を招かないようにつとめました。最後に彼は、旧モンゴル帝国の東方領を征服するべくモンゴル高原・中国北部方面への遠征に出発したのですが、遠征途上、シル川流域のオトラルで病没しました。

チムール帝国は後継者争いと内部分裂によって、成立後137年をもって滅亡しました。
チムール帝国の崩壊後、マー・ワラー・アンナフルにはシャイバーン朝の「ブハラ・ハン国」が成立し、16世紀末までアブール・ハイルの子孫が統治しました。その都は当初、チムール帝国を継承してサマルカンドにおかれたのですが、1557年にアブドゥッラー二世(在位1583〜98年)がブハラを奪うと、国政の中心は完全にブハラに移りました。

16世紀末にシャイバーン朝に代わって成立したチンギス・ハーンの子孫(ジョチの十三男トカ・チミュルの子孫)によるジャーン朝(1599〜1756年)、さらに18世紀後半に成立したチンギス・ハーンの子孫ではないマンギト朝(1756〜1920年)の治下でも、ブハラの都としての地位は変わりませんでした。

他方、アム川下流のホラズム地方には、シバンの子孫ではあるのですが、アブール・ハイルの子孫ではないイルバルスが、いわゆる「ヒヴァ・ハン国」(1512〜1920)を樹立しました。この国家ははじめウルゲンチに都を置いたのですが、17世紀後半にヒヴァに遷都しました。18世紀後半からはチンギス・ハーンの子孫ではないコンギラト朝がシバンの子孫に代わって権力を握りましたが、1920年、マンギト朝とともにソビエト政権に併合され、社会主義体制のもとに組み込まれたのです。

シャフリサブスへ
シャフリサブスという意味は「緑の町」になり、カシュカダリヤ川の流れに育まれたソグディアナの首都でした。古くから「ケシュ」という名で知られ、7世紀には玄奘三蔵もインドへの途上、立ち寄ったという記録があります。

しかしなんといっても、ここシャフリサブスといえば、稀代の英雄チムールの生まれ故郷だということです。チムールは1336年、この地方を治める豪族の家に生まれました。ここから、あるときは山賊か強盗のような生活をし、苦難の道を歩みながら一代にして中央アジアを我が物としていきました。
しかし16世紀後半に、嫉妬に駆られたブハラのハンによって、チムールの遺産のほとんどが破壊されてしまいました。シャフリサブスはサマルカンドやブハラとは違った運命をたどることになったのです。

現在のシャフリサブスに昔日の面影はありませんが、そのたたずまいには大いなる歴史が秘められているのです。
ここシャフリサブズのイスラームはスンニ派が80%、20%がブハラのシーア派となっています。ドルッサオ建築群やドルティロヴァット建築群などには、イスラーム教にはありえない獅子や鹿の絵が描かれています。これは明らかにゾロアスター教の影響でしょう。イスラームが入り込む前は、ペルシアやソグディアナはゾロアスター教(拝火教)の世界だったからです。この建築物も論議を経て偶像を描くことを認められたといいます。

アク・サライ宮殿跡アク・サライ
アク・サライは、「白い家=ホワイトハウス」という意味になります。
チムール帝国を樹立したチムールは、24年の歳月をかけて、白亜の大宮殿アク・サライを建設しました。当時、この地を訪れたスペインの使者クビラホによると、宮殿は壮麗無比、ただ息をのむしかなかったといいますが、16世紀にブハラ汗国のアブドラ・ハン二世によって破壊され、現在残っているのはアーチが崩れた主門のみです。

しかし中央アジア最大のこの門は残存する部分だけでも38メートル、アーチがあった頃は高さ65メートルと推定されています。門柱の間隔は24メートル、門柱の前面と内側には青のタイルがところどころ残り、この壮麗な門を備えた宮殿とはいったいどんな大規模なものだったのでしょうか。かつての姿を想像してみると、チムールの強大な権力と華麗な建造物への執念を感じさせられます。

チムール独裁の後半、ブハラ汗国のアブドラ・ハン2世の侵攻によって敗色濃厚になった頃、このあたりは金持ちだけが住む場所になっていましたが、ある金持ちが「チムールは神なり!」と叫んだとき、チムールは彼の首を刎ねたといいます。神格化されるより、敵と戦うことの大切さを強調したかったのでしょう。
広い公園の中にあるこのアク・サライは、破壊される以前にはアーチがかかっており、そこには女性専用のプールがあったといいます。

6月2日(火)
青の都・サマルカンド
かつて、歴史の絵巻物であった中央アジアの華ともいわれるサマルカンド。
紀元前4世紀、アレクサンダー大王の侵入以来、8世紀のアラブ侵入と圧制を経験し、13世紀、チンギス・ハーンが占領して完全なる廃墟と化したこの地は、まるで不死鳥のようにそのたびごとに蘇ってきました。チムール時代の首都でした。

サマルカンド・ブルー 5月とはいえ強烈な陽射し。サマルカンドを歩いていると眼に飛び込んでくるのは美しい建築物。そのすべてがチムールによって造り上げられたものだといっていいでしょう。かつて、チムール時代のサマルカンドは、その建築物に使われた「青」によって“空の青が隠れて見えなくなる”といわれるほどでした。

一代の英傑であるとともに建築王でもあったチムールが造り上げたサマルカンドは、“青のドームの都”とも呼ばれ、イスラームの世界でも“東方の真珠”と称えられてきました。8世紀のアラブによる侵攻と1220年、モンゴルのチンギス・ハーンによる徹底的な破壊の跡によみがえったサマルカンドは、800年を過ぎたいまでも私たちを惹きつけてやみません。

古都サマルカンドは、チンギス・ハーンの遠征軍によって徹底的に破壊され、人口も激減したのですが、チムール朝時代に見事に復興し、かつてない壮麗な都市に生まれかわりました。現在のサマルカンドの街は、かつてチンギス・ハーンが破壊した跡地に建てられた都市ではありません。古い都は再起不能なまでに都市機能を破壊されたため、止むを得ず放棄され、全く新しい場所に都が再建されたのです。

そのサマルカンドは土塁と深い濠で囲まれ、郊外に広がる果樹園の中にも、チムールの宮殿や壮麗な建物がありました。食品も工芸品も豊富に生産され、市場は昼夜にぎわっていました。人口はチムール時代に15万人を越え、アラブ人・ギリシア人・アルメニア人など諸国の商人も多く往来し、中国の絹やインドの香辛料、ロシアの皮革などが取引されていました。破壊された都の跡が、アフラシァブの丘なのです。

ビビ・ハヌィム・モスク チムールは、商店街をつくるために、サマルカンドを貫通する道路をわずか20日間で建設させ、チムールの妻と母のために、モスク(ビビー・ハヌィム・モスク)の建造を自ら監督したといいます。美しい庭園も数多く造りました。

チムール在世中に、彼の孫のムハンマド・スルタンが建設した神学校(マドラサ)は、後にチムール一族の霊廟(グル・イ・エミール)となりました。
グル・エミールは、1404年にチムールが孫のムハンマド・スルタン22歳の死を悼んで建設したともいわれています。

チムールの孫のウルグ・べク(在位1447〜49年)も公共浴場や庭園など多くの建造を行い、なかでも神学校はこんにちにまでその美観をとどめ、また天文台は特筆すべきもので、ウルグ・ベク自身の手になる天文観測記録は、デンマークのティコ・ブラーエのそれと並んで、望遠鏡発明以前におけるもっとも精密なものと賞賛されており、人類文明の発展に偉大な貢献をしたといえます。

チムール帝国が、サマルカンド政権とへラート政権に分裂したのちは、へラートでチャガタイ・トルコ文学のミール・アリー・シール、細密画のビフザードなどが活躍したのに比べ、サマルカンドは精彩を欠き、1503年、ウズベク人に占領され、その繁栄もひとつの時代を終わっていくことになります。

サマルカンドは、紀元前4世紀にアレクサンドロスによって破壊されたソグド人の古代都市であるマラカンダと同じ街です。世界で最も古い都のひとつといわれているサマルカンドは、4世紀以降に復興を果たしましたが、7〜8世紀になると中国の唐王朝にも支配されるようになりました。

ここはゾロアスター教が隆盛を誇っていた時期もあったのですが、8世紀にはアラブの侵攻を許し、12世紀にはモンゴルのチンギス・ハーンによって徹底的に破壊されました。しかし、サマルカンドは不死鳥のようによみがえり、現在では街全体が世界遺産に登録されています。
中央アジアを制したチムール帝国が現代に残したものは、青い空に挑むようにそびえる青いモスクやメドレセ、そして、赤、青、緑と鮮やかな色彩の衣服を纏う女性たちでした。

ウルグ・ベクの天文台跡
ウルグ・ベク天文台跡 ウルグ・ベクは、チムール帝国の第4代君主(在位1447〜49年)でした。
ウルグ・ベク天文台は1420年、サマルカンド郊外のチュバン・アタの丘にあります。当時は望遠鏡だけではなく、大きな六分儀を使用して天体を観測していましたが、この天文台で観測された1年の長さ(365日と6時間10分8秒)は、今日の計算とくらべてもわずかに1分以下の誤差だったといいます。彼は当時最も正確な「キュレゲン天文表」を作成するなど、東方イスラーム世界を代表する科学者でした。

チムール帝国の第4代君主となったウルグ・ベクは、戦争よりも学問を重視したために、彼の息子と保守派の反発を買い、暗殺されてしまいました。天文台も破壊され、土に埋もれていましたが、1908年にロシアの考古学者によって発掘されました。現存するのは、天文台の基礎部分と、地下に掘り下げられた六分儀の一部だけです。

アフラシャブ 続いて、かつて旧サマルカンドが存在した「アフラシャブ考古学博物館」で7世紀のソグド人の壁画を参観。中央アジアの観光地には必要な案内のパンフレットを発行していないので、内容が分かりません。ロシア語はチンプンカンプン。

ブルータイルが見事なシャーヒ・ズィンダ廟群
アフラシャブの丘の上の南麓にあるサマルカンド随一の聖地です。チムールゆかりの人びとの霊廟が一直線に建ち並んでいます。奇妙な“死者の通り”です。
シャーヒ・ズィンダ廟群 霊廟の街並みの多様さ、美しさでも中央アジアに並ぶものがないといわれていますが、私自身もサマルカンドは2回目の訪問ですが、ここは初めてですし、これほどの美しさのあるところも初めてでした。

シャーヒ・ズィンダとは、“生ける王”という意味で、7世紀のアラブの侵略時に生まれた伝説が元になっています。それによると、布教のためサマルカンドにやってきた預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバースは、ここで礼拝をしている最中にゾロアスター教徒に襲われ、首をはねられてしまいました。ところが彼は動じることなく礼拝を終え、自分の首を抱えると深い井戸の中へ入っていき、彼はそこで永遠の生命を得て、イスラームが危機に陥っているとき、救いに現われるのだといいます。
ここを2度訪れると、メッカに一度行ったことになるともいわれている、ありがたい街角です。

レギスタン広場 レギスタン広場
レギスタンは「砂地」の意味になります。
広場は、14世紀には商業地だったのですが、15世紀前半、チムール帝国第4代君主のウルグ・ベクがモスクやメドレセなどを建てたといわれています。
以前はここに運河が流れていました。広場はチムール時代に商売人と職人の中心地となり、ウルグ・ベク時代は宗教的な中心地となりました。その時代には巨大なドームのあるメドレセと修道院が建設されていました。
シールダール・メドレッセ
広場には、3つのメドレセが残っており、西側に建つのが1420年建造のウルグ・ベク・メドレセで、東側は1636年建造のシールダール・メドレセです。この建物の正面には、偶像崇拝を禁じているイスラームの教えに反し、人の顔や獅子が描かれています。北側には、1660年建造のティラーカーリー・メドレセが建っています。

ビビ・ハヌム・モスク、メドレセ廟
メドレセは神学校のことですが、もともとビビ・ハヌム・モスクの門と競うほどの大きさがあったので、チムールの命令によって小さく改装されたといいます。同じ場所にコの字型に3つの大きな建造物が建っています。
ビビ・ハヌム・モスクはチムールの妻、サラーイ・ムルク・ハヌムの別名からこの名がつきました。1399年、インド遠征から帰還したチムールが建設しましたが、西アジア遠征後の1404年、出来栄えに満足できずに造り直し、05年に完成したといいます。

南北109メートル、東西167メートルの中央アジア最大のモスクですが、短期間で工事したために充分な工事がやられず、1897年の地震で大打撃を受けて廃墟と化しました。1970年代から修復作業がなされ、現在では巨大な青いドームがよみがえっています。そのほか大理石の説教壇や回廊跡なども見られますが、ユネスコの協力で修復が続いています。

金に覆われた建築物―ティラコーリ神学校
ティラコーリ神学校 ティラコーリ・メドレセは1660年に建てられた神学校です。広場から見て正面にあたるこのメドレセは、他の2つとはかなり異なった外観で、広場の安定した調和に一役買っています。
中庭に入って左手、青のドームの下に礼拝所があり、その荘厳さから“ティラコーリ”(金箔した)という意味になります。当時はすでに、ビビ・ハニムが廃墟となっていたために、サマルカンドの主要な礼拝所となっていたようです。

メドレセの修復作業には3kgの金が使われたといわれていますが、まさに息を呑む美しさでした。壁面は星と植物、アラビア文字をモチーフにした鮮やかな模様で飾られ、まばゆくばかりに輝いています。その技巧もすばらしく、たとえば、ドーム型に丸みを帯びて見える天井は実は平面で、細かい遠近法で描かれた結果です。
現在、礼拝所横にはソ連時代の修復の様子が展示されており、学生が使っていた部屋にはお土産屋さんが入っていました。

チムールの墓グル・エミール廟
チムールの墓 1404年に完成したチムールと子孫の霊廟で1941年、地下の墓室からチムールやウルグ・ベクの遺骸が発見されました。
チムールは中国への遠征の途中に急死したため、ここグリ・エミールに埋葬されました。グリ・エミール廟には、ほかにも3人のチムールの子孫の墓があります。チムール一族の墓は美しく壮麗なドームの中にあり、大理石の墓石で葬られていました。
ソ連支配の時代には、ここを倉庫にしてクルアーンを読めないようにしたといいます。

サマルカンドは14世紀に再建され、チムールの新しい帝国のシンボルとしました。チムールはサマルカンドを首都とし、大規模な建設事業を開始しました。巨大な入り口、高く聳(そび)える青いドーム、洗練されたマジョリカ風の装飾などの新しい建築構造は、中央アジアだけでなく中央ユーラシアの首都としての威容を誇っていました。
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