中央アジア5カ国のシルクロード歴史遺産を経巡る旅
7.タジキスタン
6月3日(水)

タジキスタン

今日はいよいよタジキスタンに入り、日帰りでルーダーキ記念博物館とソグド人の城邑跡「ペンジケント遺跡」へ。私の今回の旅でもっとも期待していたところです。
ここのガイドは自国語以外には英語しか話せないママさんガイド。通訳はウズベキスタン人の女性ガイド。手間ヒマがかかります。

その前に例によってタジキスタンの紹介を。
タジキスタンの人口は約708万人(主な民族はタジク族69%、ウズベク族25%、ロシア人3%)。GDP10億ドル(2000年)。主な産業は農業(綿花・穀物)、アルミニウム、電力となっています。
国土の93%が山地で、古くからの定住民地域。首都はドゥシャンベ。国内に山岳バダフシャン自治州があり、無償援助額累計55億円となっています。

タジキスタンは、ササーン朝以来ペルシア人はアラブ人をタージィークと呼び、中国でも「大食(漢語でダージ)」と呼ばれる唯一のペルシア語系の国です。
山岳国のタジキスタンは、旧ソ連の中で最も貧しい国であり、今でもそうです。

独立前のペレストロイカ期に、土地不足や住宅不足などの社会問題が明るみに出ました。それが一気に緊張を高めたのは、1990年2月、アルメニア人に優先的に住宅が割り当てられるという、間違ったうわさが流れたことでした。
首都のドゥシャンベで開かれた抗議集会は、タジキスタン共産党第一書記マフカモフの辞任を求める集会に変わり、一部が暴徒化しました。これでいったんは辞意を表明した大統領は、状況が悪化すると武力で鎮圧し、政治のために暴力を使う前例をつくってしまいました。

1991年8月、マフカモフはモスクワの保守派クーデターを支持し、その失敗後に辞任に追い込まれました。共産党は非合法化されましたが、11月の大統領選挙でマフカモフの前任者のナビエフが当選し、共産党政権を復活させました。反対派は反発を強めて92年春、2ヶ月近く連日集会を開きました。参加者は最盛期には10万人を超えたともいわれています。
大統領派も集会を開き緊張は高まる一方でした。

ナビエフは自派の集会参加者に武器を配るなどして「親衛隊」をつくるという無思慮な策をとり、まもなく銃撃戦が始まりました。反対派も武器を取ってナビエフに圧力をかけて、連立政権を成立させました。しかし「親衛隊」は武器を持って地方に帰ってしまい、南西部のクルゴンテッパ州(現在のハトロン州西部)を中心に内戦が広がりました。これが内戦の直接的な原因になりました。
この内戦は、一見すると共産党とイスラーム派・民主派の対立に見えましたが、実際は地域間の争いの要素を持っていました。
ナビエフは政権内部からも見放されて辞任しましたが、共産党側の最高会議は戦闘の主力になった地域の農場主を議長に選んで新政権を誕生させました。

その後、さまざまな紆余曲折を経て、97年6月に和平協定が結ばれ、政府のポストの3割が旧反対派に割り当てられました。
6万人以上の死者を出した悲惨な内戦でしたが、アフガニスタンやカンボジア、カフカス(コーカサス)の紛争にくらべれば短期間で終わりました。政府も反対派もタジキスタンの一体性を壊すつもりはなく、国の復興に向けて協力することができました。政府と反対派の背後には、それぞれロシアとイランがあったことと、それぞれがそれぞれと友好関係にあり、国連とともに和平を後押ししたことも重要なことでした。

中央アジアで唯一、合法的なイスラーム主義政党が存在しています。
現在は静けさを保っていますが、旧反対派は「結局は政府内の地位がほしかったのではないか」という批判を受けており、国民への影響力を失いつつあります。また、内戦の要因だった地域主義は依然として残っており、経済状況も貧困のために50万人程度がロシアなどに出稼ぎに出ている状態は改善されていません。解決すべき課題はまだまだ多いといえます。

なお、付け加えることがあります。上記4ヵ国には冷戦時代に行われたウラン採掘で残されたウラン残存物、放射能性有毒廃棄物が8億トン以上あります。09年7月の朝日新聞に掲載されていましたが、それによると4カ国は資金や技術不足などで、これまで問題を適切に処理できませんでした。
このウラン廃鉱のほとんどが中央アジア最大の河川流域の、人口が密集し、自然災害の影響も受けやすい地域に集中しており、この地域の水の供給と数百万の住民の健康に大きな影響を及ぼしています。このウランを廃棄したソ連の後継国家であるロシアが、経費も技術も提供して早急に解決すべき問題だといえます。

ソグディアナを訪ねて
さて、私の今回の旅のもっとも期待したところが、ここタジキスタン・ソグド人のふるさとペンジケントでした。タジク人は中央アジアで唯一のインド・イラン系の民族で、ソグド人の血を最もよく受け継いでいるといわれています。
ソグド人は、紀元前6世紀以降、アケメネス朝ペルシアに支配されましたが、紀元前4世紀頃のアレクサンドロス大王の東征をきっかけに、「交易の民」として東西交易を実質的に支配していました。その後、中央アジアは諸民族興亡の地となりましたが、13世紀のチンギス・ハーンの侵攻を最後に歴史の表舞台から消えたように見えました。

しかし、ソグド人は東方で生きていました。唐の時代に起こった「安史の乱」では、ソグド系突厥として活躍し、さらにまた西域のトルファン、河西回廊や唐の都に大きなソグド人の聚落を形成し、果ては鑑真和上とともに奈良の都にまでやってきて、第4代の唐招提寺の住職(安如宝さん)にまでなっていたのです。(2009年10月発行の拙著『シルクロード 人類10万年の歴史と21世紀』を参照してください)。

国内には、ソグド人の古都ペンジケント(人口約6万)、発掘された遺物が集まる首都ドゥシャンベ(人口約58万人)、アレクサンドロス大王が築いた都市ホジェンド(人口約15万人)などがあります。

ルーダーキ記念歴史博物館 ルーダーキ記念・歴史博物館
ルーダーキはペンジケント近郊の出身で「ペルシア詩の父」といわれています。彼は9〜10世紀の詩人で、ルーダーキの名を冠する博物館に行きました。
ここにはペンジケントの遺跡から発掘された古代都市の地図や陶器、おもちゃ、壁画などソグド人の遺物が展示されています。
発掘がソ連時代だったため、出土したフレスコ画や陶器、本などは現在、ロシアのサンクトペテルブルグやウズベキスタンのタシケントなどにあるといいます。

壁画 絶頂期のソグドの華やかさを彷彿とさせるのは、ペンジケントの遺跡で発見された壁画でした。
当時、邸宅という邸宅には、極彩色の壁画で飾られた部屋があり、彼らが信仰したゾロアスター教の神々、騎士たちの戦闘のシーン、華やかな宴会の様子などが描かれています。
なかには剣の代わりにベルトから財布を下げ、錦や綾の豪華な衣装を身につけた商人たちの宴会のシーンもあります。
1人の商人のそばには白いとんがり帽子が見えます。このとんがり帽子はソグド人特有のものですが、私のウイグル人の友人の息子たちも、日本の高校の卒業式にはこの帽子をかぶりました。
ここでは紀元前から数世紀にかけての、ソグドの武人の肖像画が掲げられており、貴重な資料となりました。次の機会には時間をかけてじっくりと学びなおしたいところでした。

ペジケント遺跡 ペジケント遺跡 ペジケント遺跡
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