日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第1回
 シルクロードの3つのルート
 ―オアシスルート、ステップルートと海のシルクロード
シルクロードは、数千年の昔からユーラシア大陸に刻み込まれた交易路です。絹や玉や香料などがラクダに積まれて運ばれ、人も激しく交流しました。同時に、あらゆる文明や宗教、風俗もその道を往来した文明路でもあります。東西の文明がここで融合し・衝突し、発展したのです。

約7千年前の長江下流域の河姆渡(かばと)遺跡から出土した土器に蚕や織機の絵が描かれていました。絹はすでにその頃から生産されており、とても魅力的な産物だったのです。

シルクロードは、ずっと以前から西方の人たちが憧れ求めて東の国へ向かい、そして東の国の産物が西へも運ばれて行きました。それはエジプト王の遺跡の棺の中に絹が入っていたことによっても証明されています。

このようなシルクロードには、3つのルートがありました。

1つは、北の草原地帯を行く草原路いわゆるステップルートです。このルートがシルクロードで最もクラシックな交易路でした。

約3千年前、黒海北方に生まれた北方遊牧民族のスキタイが、アジアの草原地帯を統治し、匈奴が草原を疾駆し、チンギスハンが西征し、ソグドの民が往来したルートです。

しかし、のちになってからオアシスルートが隆盛を誇り、そのオアシスルートも海のシルクロードが頻繁に使われた時代、いわゆる大艦船時代が来ると、歴史の表舞台から消えたと思われました。

ところが、ステップルートもオアシスルートも、のちのフランス、イギリス、スペインやポルトガルなどの国々がつくったヨーロッパ史が自らの文明を強調するあまり、歴史から消去しただけであって、実際に消えたわけではありません。しかも、その借り物の歴史を日本は、明治維新後のいわゆる「鹿鳴館時代」に欧米文化を取り入れることに狂奔し、第二次大戦後もそれに輪をかけたようにして受け入れたこともあって、人びとからは、一見してシルクロードが消えたように錯覚されただけでした。

シルクロードは歴史の過程で、多くの国々とさまざまな宗教が、頻繁にこの道を往来し、文明が花開き、人類史を形成していったのです

そのシルクロードが19世紀末から20世紀初頭にかけて、列強帝国主義の角逐や英露のグレートゲームの末に、各国探検隊が東西トルキスタンの地をめざしたことは、読者の皆さんには周知のことでしょう。


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