日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 2 回
 最初のシルクローダー・張騫と甘父
 ―武帝によって西域に派遣された主従の果たした歴史的役割―
張騫(ちょうけん。前167?〜114年)は、「張騫鑿空の攻(さっくうのこう)」(張騫が初めて中国から西方世界への孔をあけた、つまり道を通した人)、言いかえれば中国の有史以来、初めて天山山脈とパミール高原以西へ旅行した人として記述されています。一般にシルクロードはこの人物によって拓かれたともいわれています。この交通路の開拓によって、中国と西域諸国との交流がはじまり、以後、双方の使節や商人の往来が頻繁となったのです。しかし、中国においてシルクロードは、前漢以前の春秋戦国時代(前770〜前221)にすでに、無名の交易商人たちによって開通しており、中国の絹はスキタイによって北方草原ルートに入り、葡萄も中国に入っていたことが証明されています。

張騫は侍従という低い身分でしたが、紀元前139年、漢の武帝のオーディションに受かって100人あまりの従者と案内役で奴隷の甘父(かんぽ)とともに旅立ちました。目的は強大な遊牧騎馬民族の匈奴を中央アジアの大月氏と共同作戦を組んで挟み撃ちにする同盟を結ぶことでした。張騫一行は一路、河西回廊を進んでいきましたが、すぐに匈奴兵に捕らえられてしまいました。当時の漢王朝の東西と北は遊牧騎馬民族の匈奴によって、十重二十重に取り巻かれていたのです。

匈奴の皇帝である冒頓単于は張騫を殺さず、匈奴軍と一緒に移動して過ごし、妻も与えられ子までなしました。艱難辛苦を乗り越えてたどり着いた大苑の大月氏は、すでに平和な日々を送っており、今さら強大な匈奴と戦う意思はありませんでした。

長安に帰った張騫が武帝にもたらした情報に「西方の大宛(現在のフェルガーナ地方)には一日で万里を走り、血のような汗を流す汗血馬がいる」とありました。張騫の二度にわたる西域旅行は、武帝の数ある対外活動の中でも、最大の歴史的意義を持つ大事業となったのです。

しかし、ここで張騫の従者、甘父に触れないわけにはいきません。張騫の従者甘父は、漢人の堂邑氏の奴隷となっていました。前139年ころ、張騫に従って中央アジアに出発しました。往路・復路とも主の張騫とともに匈奴に捕らえられましたが、降伏せず主を守り通しました。前126年ころ、匈奴の単于位をめぐる内紛の間隙をついて、張騫とともに脱出して帰国。中央アジア地方の貴重な情報をもたらしました。漢はこの功を認め、奴隷の身分から解放するとともに堂邑の姓を与え、特に設けた奉使君に任じたのです。

第3回へ
「シルクロードの光と影」トップページへ