日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 17 回
セランド(西域)の東端、敦煌文化圏
セランド(西域)の敦煌文化圏は、ロプノール・楼蘭文化圏とトルファン・ハミ文化圏の東に位置し、草原の道(ステップルート)、西域南道と北道の南が合流する位置にあります。

いわば天山南路につながる花道だったのです。しかし、セランド(西域)に戦乱が起こると、道を敦煌から南へ転じて青海高原を経て、セランドのチェルチェンへと通じるバイパス役も果たしていました。ここにもうひとつのシルクロードがあったのです。私も07年9月、雪の降りしきるこのルートを踏破しました。

さらにこの地域は、南はアルチン山脈、西はミーラン・楼蘭地域、北はコムル(ハミ)、東は玉門関につながり、柳園、安西を中心とする地域を示しています。

読者の皆さんは「敦煌は漢人文化の西端」だと思われているでしょうが、それは中国の側からの見方です。それもやむを得ません。日本には沿海部からの文化・情報しか入らなかったのですから・・・

07年11月24日、ドイツのテレビで放映された「シルクロード旅行記」は、ウイグル仏教芸術の象徴であるクチャとセランドの一部である敦煌に残されたウイグル仏教美術を詳しく紹介していました。そこでも敦煌はセランド(西域)文化圏の一部だと言っています。

敦煌がある甘粛省は、漢語では「ガンスー」となります。ウイグル語では「keng sai キャン・サイ」=これを意訳すると、keng =広い、sai=「広大なゴビの砂れき砂漠」となります。コムル(ハミ)から敦煌への道はゴビ灘が連続しているのです。

もうひとつの言い方は「keng su=キャン・ス=広い、水のあるところ」となります。天山山脈と祁連山脈からの雪解け水が流れ出てくる地域をいいます。ですから、甘粛という言葉は漢族が遊牧民族の言語から採った外来語なのかもしれません。これをみても、甘粛省の敦煌が西域(セランド)の文化圏だと考えられます。

インドからもたらされた仏教は、セランド(西域)に入ってからホータンや、カシュガル、クチャ、楼蘭、トルファンを経て敦煌にもたらされました。敦煌はセランド文化圏の東の端に位置しているのです。さらに東から西へ寄せられた仏教文化も敦煌にまで到達していたのです。

ですから、敦煌の莫高窟には遠くギリシアの影響を受けたヘレニズム文化からインド、中央アジアなどとともに中国歴代王朝の文化が混交して、見事な文明の華が咲き誇っているのです。

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