日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 19 回
日本とシルクロード(1) 天平の甍とシルクロード
日本と中央ユーラシアの距離は、その中間に中国やモンゴル高原などがあるため比較的遠い地域だと思われがちです。しかし、歴史を振り返ってみると、インドに起こった仏教が中央アジアや中国を経由して東漸したことがもっともポピュラーなできごとでした。

彼の地から奈良の正倉院御物や薬師寺あるいは唐招提寺など数多くの仏教寺院に伝わったものが、わが国の文明発展に大きな貢献をしたこともよく知られています。

奈良(古称は大和=ヤマト)は古事記で「国のまほろば・・・大和しうるわし」とうたわれました。女帝であった推古天皇が即位した592年から710年に平城京に都が移されるまでの百余年間は「飛鳥時代」と呼ばれ、聖徳太子によって「十七条憲法」などが制定されました。

また聖徳太子は遣隋使を派遣して大陸の文化や制度を導入、仏教に帰依し、四天王寺や法隆寺を建立したともいわれています。

ここでお断りしておきますが、最近になって「聖徳太子は実在していなかった」という説が濃厚だといわれています。たとえそうであったとしても、当時の権力機構がそのような政策を採用したことは事実でしょうから、それはそれでこのまま話を進めたいと思います。

1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」が世界文化遺産に登録され、98年には「古都奈良の文化財」として東大寺、春日大社、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡、春日山原始林などが世界文化遺産に登録されました。

「天平の甍(いらか)」と日本の歴史に輝ける文明を誇った奈良の都も、遠い古(いにしえ)の「聖徳太子」も含めた当時の権力者たちの果たした役割を彷彿(ほうふつ)とさせます。それは日本という国を政策と法律できちんとまとめるとともに、中国という超大国にたいしても毅然とした態度で、文字通り「自主独立、対等平等」の立場を貫こうとしたのです。

建国直後という歴史的にも国の運営に未習熟という制約があり、圧倒的な中国文明の流入のもとで、この態度を貫くことは至難の業であったに違いありません。

しかし考えてみれば、当時の「聖徳太子」は、かつて朝鮮の任那(みまな)を滅ぼした新羅(しらぎ)からの貢物が途絶えたことを問題視して、自分の弟たちに新羅征伐をさせようとして中止した経緯がありました。聖徳太子はその後の歴史にもあるように、朝鮮にたいする侵略の野望を絶えず向けていたのも事実でした。日本の対外進出の歴史は、この頃が最初であったかもしれません。

考えてみれば、つい63年前まで日本の権力者による朝鮮や中国への侵略の野望が続いていたわけですからわたしたちも心しなければなりません。

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