「天平の甍(いらか)」を代表する奈良の唐招提寺は、言い伝えによれば聖武上皇・孝謙天皇の願いを受けた唐の高僧・鑑真大和上(がんじんだいわじょう)によって天平宝字3年(西暦759年)に創建されたといわれています。
鑑真和上が754年に東大寺に到着するまでの12年間、前後5回に及ぶ航海に失敗したにもかかわらず、薩摩(鹿児島)に上陸して奈良に着いたときには、失明していたほど、難行苦行の末の旅でした。
07年12月末、私とワイフとの奈良、京都、広島、吉野ヶ里への車の旅・長躯3千km最初の唐招提寺訪問の目的はただひとつ。それは「唐招提寺の鑑真和上は初代の住職だったが、中央アジアのソグディアナにいたソグド人の安如宝(あんにょほう)が2代目の住職だったといわれており、その真偽を確認すること」でした。
安如宝さんは20歳という若さで鑑真和上に従って同じ艱難辛苦を重ねながら、日本にたどり着き、その明晰な頭脳で当初から頭角を現したといいます。しかし唐招提寺の2代目住職は安如宝ではなく、唐の国の「法戴(ほうさい)和上」という人でした。同じく3代目住職も同じ唐の国の「義浄(ぎじょう)和上」でした。
そして、唐招提寺の4代目住職に就任したのが安如宝和上だったのです(大正4年=1929年2月25日発刊の『大日本仏教全書』。「仏書刊行会」編纂を参照)。
ホテルにもどってから就寝前に酔眼でコピーをよく読んでみると、なんとそこには漢文で「安如宝は朝鮮国人也」と書かれているではありませんか。その文言に気づいた私は翌朝、早速、唐招提寺に電話をしましたが、結局「野口さんからのご質問のように資料には朝鮮の国の人と書かれてありますが、資料が間違いで、野口さんのおっしゃるとおりソグド人で間違いありません」という言葉で私の質問は解決しました。
ソグディアナは現在の中央アジア・ウズベキスタンとタジキスタンとの国境地域にありました。ソグド人たちは交易の民として、西域からトルファン、敦煌周辺に聚落をつくり、西安にまで進出しました。それも安史の乱で、ソグド系突厥も含めてほとんどのソグド人が虐殺された中での、生き残りが安如宝さんだったのです。
(右図)1973年トルファンで発見された副葬品。 |