日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 5 回
 国家組織の原型をつくった遊牧民族の匈奴
 中華思想によって、これまで「生肉を喰らい、獣の皮をまとう、文化果つる地の野蛮な民族」と蔑まれてきた遊牧民族は、20世紀末、中国の改革開放政策とソ連の崩壊、それに引き続く中央アジア各国の独立のもとで、次第に歴史上におけるほんらいの姿を私たちの前に表わしてきています。

匈奴は紀元前3世紀末から数百年にわたって、モンゴル高原を中心に活動した遊牧騎馬民族です。そのころ匈奴は東の東胡、西の月氏という両遊牧騎馬民族よりもやや劣勢でしたが、前209年、皇帝の位に当たる単于になると東胡を急襲して破り、大量の奴隷と家畜を獲得して配下に収めたのです。ついで月氏を西に追い払い、南方では秦に奪われた黄河屈曲部の南を回復して遊牧系諸集団を併合し、勢力を拡大。さらに統一直後の漢の北辺に侵入し、漢からの離反者をも吸収しました。

匈奴は前200年には、大軍を率いて遠征してきた漢の高祖劉邦を包囲して全滅寸前にまで追い詰めました。それを知った劉邦の妻の呂光は莫大な贈り物を送って命乞い。その後結ばれた条約の中で、匈奴は名目上、兄の立場を漢に譲りましたが、毎年大量の絹製品、酒、米などを供給させることに成功しました。

次に冒頓単于の征服活動は西方に向かい、月氏を追って西域のタリム盆地にまで支配権を及ぼし、シルクロードのオアシスルートの莫大な交易の利権を手中に収めました。また烏孫などの匈奴従属下の部族からは、「皮布税」などと呼ばれる貢物を徴収しました。

司馬遷が『史記』で語る匈奴国家のシステムを見ると、十・百・千・万の十進法体系による軍事・社会組織や、国家全体が北から南面して単于を中央に左・中・右(東・中・西に当たる)に大展開する「三極構造」をはじめたのですが、これらの組織形態は、のちの遊牧国家はおろか近代国家に至るまでの殆どすべてに共通して見出すことができます。

西のスキタイがハカーマニシュ朝イラン帝国を威圧し、かたや匈奴が東で漢王朝をひれ伏せさせたように、遊牧国家の軍事組織がユーラシアと世界史を動かす時代がここに始まったのです。そうした意味で、スキタイと匈奴が「近代国家の源流」である、といっても過言ではありません。

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