日中友好新聞連載シリーズーシルクロードの光と影
第 8 回
「安史の乱」の真実
8世紀の中ごろ、唐の玄宗・粛宋期に起きた「安史の乱」は、唐王朝を根底から揺るがした反乱でした。反乱の張本人であった安禄山と史思明の2人は、ソグド人でした。というより安禄山の母は突厥の巫女、父は康というソグドの姓を持つ「雑胡」であり、史思明も同じ「雑胡」でした。かれらは「ソグド系突厥」といわれる突厥内におけるソグド人の武将集団だったのです。この反乱は決して楊貴妃のロマンに話なのではありません。

安禄山は、755年に現在の北京付近の幽州范陽で挙兵すると、翌年には洛陽で皇帝に即位し、大燕国の樹立を宣言しました。破竹の勢いで唐の軍勢を駆逐した彼らでしたが、やがて安禄山は次男に殺され、その次男も配下の史思明に、さらに史思明も長男によって殺されると、反乱は漸く終息を迎えたのです。この反乱勢力はその軍団に多くの遊牧民が加わっていたことから、渤海や東ウイグル可汗国とともに、征服王朝としての遼(契丹)王朝の先駆けとなるものでした。

一方、唐王朝はその後、復権に功績のあった東ウイグル可汗国に多くの富と官位を与え交易の優先権をも与えたので、ウイグルはソグド人に続いて漢民族王朝の下で強力な権力を手に入れたのです。この乱ののち、安禄山がソグド人であったために、唐ではソグド人への大弾圧や数十万人にわたる虐殺が起こりました。それによってソグド人が中国で営々として築き上げてきたソグドネットワークは一挙に崩壊したのです。

「安史の乱」に先立つ721年には、河曲六胡州の地で、康待賓をリーダーとするソグド系突厥集団が唐王朝に対する反乱がありました。原因は、六胡州の地を含むオルドスの地で馬が飼育され売買されていたからです。康待賓の乱が起きる前から唐王朝所有の馬は減る一方だったので、突厥やソグド系突厥の持っていた馬やその牧場を手に入れようと圧迫したのです。

安禄山たちも通商ルートの利権に絡むことによる支配権の回復をはかっていたのです。従って、遊牧民連合と唐・ウイグル連合軍の両者が激しい覇権争いをくり広げた結果、東アジアのほとんどの民族を巻き込む動乱に発展していったのです。

「安史の乱」の構成員を見てみると、ソグド系突厥の他に、突厥・・契丹・同羅などの遊牧部族の名が見られます。「安史の乱」以降は、ウイグルが交易の権利を握り、遊牧民たちの通商路へのコントロールは完全に失われてしまいました。

このようなことから遊牧民は決してシルクロード交易と切り離せない存在だったと同時に、その後、西夏・遼・金そしてモンゴルが「征服王朝」として発展していく過程において、この交易ルートを支配することが、彼らの強大化につながっていったのです。

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